正月なら・・・・・・・ (MHシリ-ズ)
今回のMHシリーズは冬編を予定していたのですが、当地は暖地のため冬をイメージする “雪だるま” や “スキー” 等は
皆無でした。なら仕方なと正月のめでたさを表す “一富士二鷹三茄子”や “松竹梅” を探したが、茄子や竹がありません。
正月早々半端物を紹介するのも業腹なので、セット扱いは止めにして富士山一本で行く事にしました。
「SLと富士」
静岡県県御殿場市
今年最初を飾るMHの写真は、わが故郷・御殿場をかっては走っていた懐かしい蒸気機関車です。
富士の雄姿をバックに、横には富士桜の花(多分)も見えています。
蒸気機関車のプレートの 「D52」 は、往時御殿場線を走っていた蒸気機関車の形式名だそうです。
この名称の最初のアルファベットは機関車の動軸数を表す印で、Bは2個、Cは3個、Dは4個となっています。
一つの動軸で対の車輪を動かすので、4つの動軸を持つD型は8輪車という事になります。
次の数字は機関車の種類を表す形式番号で、10~49=タンク機関車、50~99=デンダー機関車です。
タンク機関車とは機関車本体に炭庫や水槽を装備した機関車で、テンダー機関車とは機関車と別に石炭および水を積載した
炭水車を接続した形式の機関車だそうです。
D5型蒸気機関車名称図
名称図中央の大きな車輪4個が動軸すなわち動輪という事でしょう。
D52型蒸気機関車
御殿場駅前のポッポ広場にあるD52型蒸気機関車で、ネットからコピーさせてもらいました。
有名なD51型蒸気機関車とD52型の違いは、D51型を重量運搬用に改良したものがD52型で、主に貨物運搬用に
使ったそうですが、力が強いので御殿場線のような急勾配の路線でも使ったそうです。
しかしそんなD52型でも御殿場線の急勾配には敵わず、富士岡や岩波駅ではスイッチバックでした。
スイッチバックで思い出すのは、スイッチバックをする所では前進していた車両をバックさせるため当然一旦停止しました
そんな状態になる当時の悪童どもは、列車から飛び降りて駅を通らず 「薩摩守」 をしていたのです。
オット今では薩摩守では意味不明かもしれませんね。なら 「薩摩守忠度(ただのり)」 と言えば分かるでしょうか?
そんなのどかな時代では線路の横に立っていると冷たい水蒸気が当たり、水泳帰りによくこのシャワーを浴びたものです。
それが後になってあの水蒸気は、当時垂れ流しだった便所の水だと聞いてびっくりしたものです。
勿論水泳と言ってもプールではなく、川の淵を利用した天然プールでした。
「金太郎と富士」
静岡県小山町
御殿場市のお隣の小山町は足柄山の麓の町ですが、富士山須走口も小山町に属します。
だがJRの小山駅からの登山バスが出ていないので、須走口で小山町を連想する人は少ないかもしれません。
その代り小山町といえば 「足柄や~まの金太郎 ♬」 と、童謡にも歌われている 「金太郎」 の故郷です。
で、マンホールの蓋のデザインも当然金太郎で、しかも 「足柄山の金太郎 熊にまたがり相撲のけいこ♬」 と童謡
そのものの格好でした。
周りを縁取る植物は富士山の “富士アザミ” と、箱根の “熊笹” でしょうから両者に対して心配りが出来ています。
小山町といえば他にもMHの題材になりそうな物があります。
その一つは “富士スピードウェイ” で、スポーツカーと富士山があれば小山町を思い浮かべるでしょう。
もう一つはあまり有名ではないが、足柄峠には “吹笙之石(笛吹石)” なる石があり、笙(しょう)の名手八幡太郎義家の
弟が東北に戦に行く途中、笙の奥義を伝授した場所とされています。
これだけなら大したことは無いが、この笛が牛若丸こと源義経が京の五条大橋で吹いた笛となると興味は湧いてきます。
この話は過去何回か紹介していますが、今回も概略だけ説明します。
薄墨の笛で笙の奥義を伝授した八幡太郎義家の弟・森羅三郎義光は、薄墨の笛を八幡太郎の孫の源義朝(義経の父)に
譲る。義朝が平治の乱で敗れると妻の常盤御前に笛を与え都を落ち延びさせた。
しかし敵の平清盛に捕らえられた常盤御前は、我が身を将門に捧げ、我が子の助命を願い、幼き牛若丸を鞍馬寺に預けるとき
牛若丸に薄墨の笛を託した。その笛こそ成長した牛若丸が五条の橋で弁慶と戦う前に吹いていた笛となるのです。
話はさらに続き、義経が鞍馬寺を脱出し、金売り吉次と奥州を目指して東へ下る途中、三河の矢作宿で浄瑠璃姫と恋に落ち、
一夜の契りを結んだ。しかし大事な旅の途中のこと、義経は姫と別れ、その際に薄墨の笛を手渡して奥州に向け旅立った。
駿河の国に入った義経は、海路で有度浜(清水)から狩野川の河口沼津を目指したが、激しい風雨に見舞われ、蒲原の浜に
打ち上げられてしまった。それが元に病の床に臥した義経は浄瑠璃姫に手紙を書いて蒲原に呼び寄せた。
浄瑠璃姫の必死の介護に義経の病も回復したが、またもや義経は浄瑠璃姫を置いたまま奥州を目指し旅立ってしまう。
残された浄瑠璃姫の悲しみの余りに三河へ帰る気力も失せ、蒲原の地に病に臥すと義経から譲り受けた薄墨の笛を久能山の
久能寺に預け十六歳の若き命は果ててしまう。
久能寺は武田の駿河侵攻で清水に移転させられたが、次第に寺は衰退し明治に時代に無住の荒れ寺になってしまった。
それを知った幕末の幕臣・山岡鉄舟は寺を復興し、寺号を鉄舟寺と改め、薄墨の笛は鉄舟時の寺宝として今に保存されている。
随分長くなってしまったが、そんな数奇な運命を辿った薄墨の笛をデザインした 「石に腰掛け笛を吹く侍と富士山」 のMHの
絵柄を見たのが今年の初夢でした。なんてね。
「滝と富士」
静岡県裾野市
富士山に滝ならば当然白糸の滝でしょうが、富士宮の写真の中には有りませんでした。富士宮は過去何度も歩いていたし
白糸の滝にも4回歩きで行っている。なのに写真が無いのはそんな絵柄の蓋は無いのかしら? 分かりません。
そこで代わりの滝と言っては何ですが、御殿場の隣の裾野市の五竜の滝を紹介します。
五竜の滝のある黄瀬川は御殿場地方を水源としているが、その水源の一つには 「箱根風雲録」 という映画にもなった
「深良(箱根)用水」 でもあります。と、いう事は五竜の滝を流れる水は芦ノ湖からの水も流れている事にもなります。
更に水源が御殿場なら、子供の頃の天然プールの水も流れているかというと、残念ながらそうではありません。
プールとしていた川は 「鮎沢川」 で 二宮尊徳が治水工事を行った 「酒匂川」 の上流になります。
なので御殿場の東側の川は小田原の相模湾に注ぎ、西側は沼津の駿河湾に注いでいるのです。所謂分水嶺にあたるので
しょうが、残念ながら明確に水が別れる所は知りません。若しそんな場所があったら、そこで立小便をして 「俺の分身が
東西に流れていく」 何て満足感に浸りたいものです。
下らない話はさておき、酒匂川と聞くと養老の滝と同じような謂れがありそうですが、長くなるので今回は止めましょう。
さて話を戻してMHの蓋の滝は流れが3本見えますが、五竜の滝の語源は多分 “五流の滝” で、実際に何ヶ所からも
滝が流れ落ちています。
序に滝の横に咲く花はツツジのような花は、裾野市の市の花を調べると想像通り 「愛鷹ツツジ」 でした。
愛鷹ツツジは富士市と裾野市の境にある愛鷹連峰に咲くつつじで、特に位牌岳周辺には多く見られます。
今年は見に行こうかな、それも位牌岳でなく十里木の別荘地にある厳正群落地でお茶を濁すか迷っています。
「かぐや姫」
静岡県富士市
富士市のかぐや姫は既に “雨” の時に紹介済みなので今回は写真だけですが、このデザインも静岡県人が見れば
一目で富士市だと分かる絵柄です。そう思わない県人はもぐりの静岡県人かな・・・・・
富士山で一番肝心なのは 「富士山浅間大社」 のある富士宮市ですが、残念ですが富士宮では富士山をデザインした
写真はまだ撮ってありません。 “鳥居に富士山”や “滝に富士山”。序に侍が決闘をしている “曽我兄弟の仇討” など
色々考えられるが、果たしてそんな蓋に出合えるかどうか、期待してせっせと歩きましょう。
「河口湖と富士山」
山梨県河口湖町
静岡県内の富士山麓の写真は以上ですが、ついでに山梨県の富士山麓のMHも紹介します。
富士山麓道一周で河口湖を歩いた時の写真です。頭上に架かる大きな橋は河口湖大橋で、周りにある長い花は
ラベンダーかな?では黄色い花は何だろうと役場のHPで調べてみると 「月見草」 でした。
そんな事にも気が付かないのは老化現象が更に進んだのでしょうか気に掛かります。
河口湖町で月見草と言えば御坂峠にある太宰治の 「富士には月見草がよく似合ふ」 ですよね。
何故月見草が富士山に似合うのか凡人の私には理解できませんが、月見草や宵待草の名前には風情を感じます。
それが一転 “マツヨイグサ” とカタカナになると、風情を失い冷たい響きになってしまう好一例だと思います。
しかしこの月見草がメキシコ原産の外来種だったと初めて知りました。
ラベンダーは河口湖湖畔の公園では盛んに栽培されえていて、夏には “ハーブフェスティバル” も開催されています。
「水車小屋と富士山」
山梨県忍野村
山梨県の富士山で思い浮かべるのは “藁葺きの水車小屋” と富士山です。勿論忍野村の風景ですがそれがありました。
忍野村のどかな風景ですが、私のイメージする忍野村はもう一つあります。
富士山の裾野には、戦後米軍海兵隊が北富士演習場と東富士演習場に常駐していました。そして現在の沖縄と同じように
演習場の返還闘争が起きていました。
中でも北富士演習場に属する忍野は、女性たちの返還闘争で盛んで、演習場に座り込むモンペ姿の女性の姿が度々報道
されていました。中でも核弾頭を搭載できるロケット砲 「オネストジョン」 を、東富士から北富士演習場を目掛けて発射する
時の演習阻止闘争は過激で、機動隊が女性たちを牛蒡抜きしている報道もあったと記憶しています。
そんな闘争が沖縄では今も続いているのですから情けない話です。私も何か意思表示したいのですが何もできないでいます。
オネストジョンの当時私は中学生で、その発射風景を学校の屋上から見ていましたが、学校は演習場から距離もあったので
“何だ こんな物か” と思ったような気がしたと記憶しています。
富士山をデザインしたMHはまだまだあるので、今回は富士山の周りだけにしました。次回は続きを紹介したいと思います。
今年もこんな調子のダラダラ紀行を続けていこうと思っていますので、興味があったら覗いてみてください。
今回のMHシリーズは冬編を予定していたのですが、当地は暖地のため冬をイメージする “雪だるま” や “スキー” 等は
皆無でした。なら仕方なと正月のめでたさを表す “一富士二鷹三茄子”や “松竹梅” を探したが、茄子や竹がありません。
正月早々半端物を紹介するのも業腹なので、セット扱いは止めにして富士山一本で行く事にしました。
「SLと富士」
静岡県県御殿場市
今年最初を飾るMHの写真は、わが故郷・御殿場をかっては走っていた懐かしい蒸気機関車です。
富士の雄姿をバックに、横には富士桜の花(多分)も見えています。
蒸気機関車のプレートの 「D52」 は、往時御殿場線を走っていた蒸気機関車の形式名だそうです。
この名称の最初のアルファベットは機関車の動軸数を表す印で、Bは2個、Cは3個、Dは4個となっています。
一つの動軸で対の車輪を動かすので、4つの動軸を持つD型は8輪車という事になります。
次の数字は機関車の種類を表す形式番号で、10~49=タンク機関車、50~99=デンダー機関車です。
タンク機関車とは機関車本体に炭庫や水槽を装備した機関車で、テンダー機関車とは機関車と別に石炭および水を積載した
炭水車を接続した形式の機関車だそうです。
D5型蒸気機関車名称図
名称図中央の大きな車輪4個が動軸すなわち動輪という事でしょう。
D52型蒸気機関車
御殿場駅前のポッポ広場にあるD52型蒸気機関車で、ネットからコピーさせてもらいました。
有名なD51型蒸気機関車とD52型の違いは、D51型を重量運搬用に改良したものがD52型で、主に貨物運搬用に
使ったそうですが、力が強いので御殿場線のような急勾配の路線でも使ったそうです。
しかしそんなD52型でも御殿場線の急勾配には敵わず、富士岡や岩波駅ではスイッチバックでした。
スイッチバックで思い出すのは、スイッチバックをする所では前進していた車両をバックさせるため当然一旦停止しました
そんな状態になる当時の悪童どもは、列車から飛び降りて駅を通らず 「薩摩守」 をしていたのです。
オット今では薩摩守では意味不明かもしれませんね。なら 「薩摩守忠度(ただのり)」 と言えば分かるでしょうか?
そんなのどかな時代では線路の横に立っていると冷たい水蒸気が当たり、水泳帰りによくこのシャワーを浴びたものです。
それが後になってあの水蒸気は、当時垂れ流しだった便所の水だと聞いてびっくりしたものです。
勿論水泳と言ってもプールではなく、川の淵を利用した天然プールでした。
「金太郎と富士」
静岡県小山町
御殿場市のお隣の小山町は足柄山の麓の町ですが、富士山須走口も小山町に属します。
だがJRの小山駅からの登山バスが出ていないので、須走口で小山町を連想する人は少ないかもしれません。
その代り小山町といえば 「足柄や~まの金太郎 ♬」 と、童謡にも歌われている 「金太郎」 の故郷です。
で、マンホールの蓋のデザインも当然金太郎で、しかも 「足柄山の金太郎 熊にまたがり相撲のけいこ♬」 と童謡
そのものの格好でした。
周りを縁取る植物は富士山の “富士アザミ” と、箱根の “熊笹” でしょうから両者に対して心配りが出来ています。
小山町といえば他にもMHの題材になりそうな物があります。
その一つは “富士スピードウェイ” で、スポーツカーと富士山があれば小山町を思い浮かべるでしょう。
もう一つはあまり有名ではないが、足柄峠には “吹笙之石(笛吹石)” なる石があり、笙(しょう)の名手八幡太郎義家の
弟が東北に戦に行く途中、笙の奥義を伝授した場所とされています。
これだけなら大したことは無いが、この笛が牛若丸こと源義経が京の五条大橋で吹いた笛となると興味は湧いてきます。
この話は過去何回か紹介していますが、今回も概略だけ説明します。
薄墨の笛で笙の奥義を伝授した八幡太郎義家の弟・森羅三郎義光は、薄墨の笛を八幡太郎の孫の源義朝(義経の父)に
譲る。義朝が平治の乱で敗れると妻の常盤御前に笛を与え都を落ち延びさせた。
しかし敵の平清盛に捕らえられた常盤御前は、我が身を将門に捧げ、我が子の助命を願い、幼き牛若丸を鞍馬寺に預けるとき
牛若丸に薄墨の笛を託した。その笛こそ成長した牛若丸が五条の橋で弁慶と戦う前に吹いていた笛となるのです。
話はさらに続き、義経が鞍馬寺を脱出し、金売り吉次と奥州を目指して東へ下る途中、三河の矢作宿で浄瑠璃姫と恋に落ち、
一夜の契りを結んだ。しかし大事な旅の途中のこと、義経は姫と別れ、その際に薄墨の笛を手渡して奥州に向け旅立った。
駿河の国に入った義経は、海路で有度浜(清水)から狩野川の河口沼津を目指したが、激しい風雨に見舞われ、蒲原の浜に
打ち上げられてしまった。それが元に病の床に臥した義経は浄瑠璃姫に手紙を書いて蒲原に呼び寄せた。
浄瑠璃姫の必死の介護に義経の病も回復したが、またもや義経は浄瑠璃姫を置いたまま奥州を目指し旅立ってしまう。
残された浄瑠璃姫の悲しみの余りに三河へ帰る気力も失せ、蒲原の地に病に臥すと義経から譲り受けた薄墨の笛を久能山の
久能寺に預け十六歳の若き命は果ててしまう。
久能寺は武田の駿河侵攻で清水に移転させられたが、次第に寺は衰退し明治に時代に無住の荒れ寺になってしまった。
それを知った幕末の幕臣・山岡鉄舟は寺を復興し、寺号を鉄舟寺と改め、薄墨の笛は鉄舟時の寺宝として今に保存されている。
随分長くなってしまったが、そんな数奇な運命を辿った薄墨の笛をデザインした 「石に腰掛け笛を吹く侍と富士山」 のMHの
絵柄を見たのが今年の初夢でした。なんてね。
「滝と富士」
静岡県裾野市
富士山に滝ならば当然白糸の滝でしょうが、富士宮の写真の中には有りませんでした。富士宮は過去何度も歩いていたし
白糸の滝にも4回歩きで行っている。なのに写真が無いのはそんな絵柄の蓋は無いのかしら? 分かりません。
そこで代わりの滝と言っては何ですが、御殿場の隣の裾野市の五竜の滝を紹介します。
五竜の滝のある黄瀬川は御殿場地方を水源としているが、その水源の一つには 「箱根風雲録」 という映画にもなった
「深良(箱根)用水」 でもあります。と、いう事は五竜の滝を流れる水は芦ノ湖からの水も流れている事にもなります。
更に水源が御殿場なら、子供の頃の天然プールの水も流れているかというと、残念ながらそうではありません。
プールとしていた川は 「鮎沢川」 で 二宮尊徳が治水工事を行った 「酒匂川」 の上流になります。
なので御殿場の東側の川は小田原の相模湾に注ぎ、西側は沼津の駿河湾に注いでいるのです。所謂分水嶺にあたるので
しょうが、残念ながら明確に水が別れる所は知りません。若しそんな場所があったら、そこで立小便をして 「俺の分身が
東西に流れていく」 何て満足感に浸りたいものです。
下らない話はさておき、酒匂川と聞くと養老の滝と同じような謂れがありそうですが、長くなるので今回は止めましょう。
さて話を戻してMHの蓋の滝は流れが3本見えますが、五竜の滝の語源は多分 “五流の滝” で、実際に何ヶ所からも
滝が流れ落ちています。
序に滝の横に咲く花はツツジのような花は、裾野市の市の花を調べると想像通り 「愛鷹ツツジ」 でした。
愛鷹ツツジは富士市と裾野市の境にある愛鷹連峰に咲くつつじで、特に位牌岳周辺には多く見られます。
今年は見に行こうかな、それも位牌岳でなく十里木の別荘地にある厳正群落地でお茶を濁すか迷っています。
「かぐや姫」
静岡県富士市
富士市のかぐや姫は既に “雨” の時に紹介済みなので今回は写真だけですが、このデザインも静岡県人が見れば
一目で富士市だと分かる絵柄です。そう思わない県人はもぐりの静岡県人かな・・・・・
富士山で一番肝心なのは 「富士山浅間大社」 のある富士宮市ですが、残念ですが富士宮では富士山をデザインした
写真はまだ撮ってありません。 “鳥居に富士山”や “滝に富士山”。序に侍が決闘をしている “曽我兄弟の仇討” など
色々考えられるが、果たしてそんな蓋に出合えるかどうか、期待してせっせと歩きましょう。
「河口湖と富士山」
山梨県河口湖町
静岡県内の富士山麓の写真は以上ですが、ついでに山梨県の富士山麓のMHも紹介します。
富士山麓道一周で河口湖を歩いた時の写真です。頭上に架かる大きな橋は河口湖大橋で、周りにある長い花は
ラベンダーかな?では黄色い花は何だろうと役場のHPで調べてみると 「月見草」 でした。
そんな事にも気が付かないのは老化現象が更に進んだのでしょうか気に掛かります。
河口湖町で月見草と言えば御坂峠にある太宰治の 「富士には月見草がよく似合ふ」 ですよね。
何故月見草が富士山に似合うのか凡人の私には理解できませんが、月見草や宵待草の名前には風情を感じます。
それが一転 “マツヨイグサ” とカタカナになると、風情を失い冷たい響きになってしまう好一例だと思います。
しかしこの月見草がメキシコ原産の外来種だったと初めて知りました。
ラベンダーは河口湖湖畔の公園では盛んに栽培されえていて、夏には “ハーブフェスティバル” も開催されています。
「水車小屋と富士山」
山梨県忍野村
山梨県の富士山で思い浮かべるのは “藁葺きの水車小屋” と富士山です。勿論忍野村の風景ですがそれがありました。
忍野村のどかな風景ですが、私のイメージする忍野村はもう一つあります。
富士山の裾野には、戦後米軍海兵隊が北富士演習場と東富士演習場に常駐していました。そして現在の沖縄と同じように
演習場の返還闘争が起きていました。
中でも北富士演習場に属する忍野は、女性たちの返還闘争で盛んで、演習場に座り込むモンペ姿の女性の姿が度々報道
されていました。中でも核弾頭を搭載できるロケット砲 「オネストジョン」 を、東富士から北富士演習場を目掛けて発射する
時の演習阻止闘争は過激で、機動隊が女性たちを牛蒡抜きしている報道もあったと記憶しています。
そんな闘争が沖縄では今も続いているのですから情けない話です。私も何か意思表示したいのですが何もできないでいます。
オネストジョンの当時私は中学生で、その発射風景を学校の屋上から見ていましたが、学校は演習場から距離もあったので
“何だ こんな物か” と思ったような気がしたと記憶しています。
富士山をデザインしたMHはまだまだあるので、今回は富士山の周りだけにしました。次回は続きを紹介したいと思います。
今年もこんな調子のダラダラ紀行を続けていこうと思っていますので、興味があったら覗いてみてください。