歩行記録 H30-1-14(日)
歩行時間:4時間55分 休憩時間:1時間05分 延時間:6時間00分
出発時刻:9時50分 到着時刻:15時50分
歩 数: 28、713歩(推定距離20.4km) GPS距離18.8km
行程表
天徳寺 1:05> 智満寺 0:55> 417m峰 0:20> 双子山 0:40> 地蔵尊 0:35> 心岳寺 1:20> 藤枝駅
千葉山智満寺初詣概略図
今年の仲間ウォークの初詣は千葉山智満寺にしました。
帰りは智満寺から眺めの良い417m峰を通って双子山に出れば雪を被った富士山も眺められるでしょう。
天徳寺の参道 天徳寺山門
仲間ウォークでは当たり前の出発地までのバス利用。最近はこの癖がついてしまい一人の時もバスを使うようになってしまった。
以前は “駅からハイク” とか “駅から遍路” 等と恰好を付けて言っていたが、今はその言葉は使えなくなっている。
天徳寺で有名なものは山茶花参道ですが、果たして正月も過ぎた今咲いているでしょうか?
仲間ウォークで花を求めていく場合があるが、その多くは早かったり遅かったりで見る事ができないでいる。たまたまタイミングが
合ったのは竜爪のチャボホトトギス(矮鶏杜鵑)ぐらいの物だろうか。
尤も仲間は花や景色や名所には余り情味が無いようなので、外れでも気にしなくて済むのは有難いけどね。
今回も案の定外れで、変色した花が枝にしがみついている状態でした。
天徳寺の山門は静岡県の文化財に指定されていますが、特段目を引く物はありません。
ただこの山門は安土桃山時代に、徳川家康が豊臣秀吉から在京賄料の一部として与えられた土地で、そこを管理した代官が
建立しています。そのため天徳寺には代官の長谷川家歴代の墳墓があります。
また、隣の尾川には長谷川一族の子孫が尾川の名主となり住んでいた長屋門が市の指定文化財になっています。
天徳寺は島田の中心地から5km程北に入った大草地区にあり、更に北にある智満寺には県道217号(伊久美元島田線)で
行くのですが、この217号は何故か智満寺は向わず、途中で分岐した後は更に道幅を細め稜線に向かっています。
稜線には双子山と千葉山を結ぶ農道が走っていて、県道はその農道に合流すると消滅しているようです。
ネットの地図上には更に道があるようになっているが、現実には農道しかない頼りない県道です。
そんな訳で一般的には島田から智満寺に行くには県道は使わず、尾川から智満寺に向かう市道を利用するようです。
それなのに裏道が県道になったのは何でしょうね?
智満寺本堂 サルノコシカケ
智満寺の本堂は国の重要文化財で、萱葺の堂々とした雰囲気を持っています。
境内の木の “サルノコシカケ” が生えていた。これは癌に効果があるらしいが寺の境内にあるので取る人もいないのだろう。
まだ小さいが年々大きくなって最後には寺の名物になる、なんて想像するのも楽しい。
今日のお土産
私が歩く静岡県志太地区にも幾つかの天台宗の寺がある。例えば高草山の法華寺、藤枝天王山の安楽寺、島田の東光寺、
そして島田千葉山の智満寺がある。これらの天台宗の寺の近くを歩いていて気付くのは、民家の軒策に貼られたお札です。
痩せた悪魔が黒いタイツを穿いたような姿が摺られているお札を、最初に見た時は少なからず驚いたので、早速調べてみた。
この黒い悪魔は天台宗第18代座主(最高の位)で、比叡山延暦寺の中興の祖だった。名前は良源、諡号は慈恵(じえ)大師。
しかしそんな名前より命日が正月の3日だった事から 「元三大師(がんざんだいし)」 と呼ばれで親しまれている。
そんな高僧が何故黒いタイツ姿なのかも調べてみたが良く分からない。
あれは骨と皮だけの角を持った鬼になって、疫病神を追い払った時の元三大師の姿で 「角(つの)大師」 と呼ぶらしい。
この角大師の像を摺ったお札は、魔除けの護符として民家の軒先に貼られるようになったとか。
このお札は以前から欲しいと思っていたので今回1枚購入しました。これを玄関に貼って疫病神が近づかないようにします。
イエイエ誤解しないでください。私が特に信心深いとか縁起担ぎをすると云うわけではないが、これまでも魔除けとして般若や、
トルコの 「メドゥーサの目」、インドネシアの 「ガルーダ(伽楼羅)」 の面を玄関の隅に掛けてあります。
だからって宗教心が強いわけではありません。過去お守りを買った事はないし、お御籤を曳いた事もありません。
アッ!そうだ。お御籤と言えばあれは元三大師が考えて始めたものだって。
特許を申請していれば・・・・なんて考えるのは下種男の私だけでしょう。
メドーサの目とガルーダの事も簡単に話しておきます。
メドーサとは宝石のように輝く目を持ち、見たものを石に変える能力を持ち、その頭髪は無数の毒蛇だったと言われています。
元々美少女であったメドーサは、海神ポセイドンと神殿で交わったため神の怒りをかい、怪物にされてしまったが、ポセイドン
との間には天馬で有名なペガサスが生まれている。
そのメドーサの目玉をあしらったトルコブルーの丸い石が、魔除けのお守りとしてトルコの観光地では盛んに売られていました。
その目の魔力に惹かれて私も一つ購入してしまったのです。
ガルーダとはインドネシア航空の名前ですが、元々は鷲の頭と嘴、翼と爪、脚を持つ鳥人で神の乗り物だったそうです。
それが転じて飛行機会社の名前になったのだから洒落ています。
ガルーダが魔除けになるかどうか分からなかったが、その形相は般若や鬼より恐ろしく、かつ精巧に彫られてるのと、値引きに
引かれて購入してしまいました。
これらの三つの魔除けに守られている我家に、更に黒いタイツの悪魔が加わったのですから、我が家はもう大盤石で、矢でも
鉄砲でも持ってこいです。 と、願いたいですね。
417m峰から
稜線を行く農道は雲一つない青空と、風も無い絶好なウォーキング日和でした。ジャンパーなどの防寒着を着ていないのに
陽射しに照らされて背中はポカポカして汗ばむくらいでした。
智満寺から二子山は農道歩きになるが、私には一ヶ所だけ農道から離れて歩く道があります。場所は稜線の農道が藤枝の
中山集落に下る農道との分岐点より少し智満寺寄りのピークです。
智満寺側から来て農道が右と若干左直線に分岐している所があります。気にしてなければ自然と右の平らで太目な農道を進んで
しまうが、ここを左の細くなった農道を登るとすぐ右側の視界が開け、更に進んだピークには祠に入った地蔵が祀られています。
ここではまだ東は開けていないが少し下った先には写真のような絶景が待っています。
私の多く歩くのは安倍川以西の志太の山が多いため、富士山の眺めは似たような物になってしまうが、それでもこのような景色を
見ると気分は高揚してきます。
普段はあまり写真を写さない中間も盛んにシャッターを切っていました。
ピークからの下りだすと舗装された農道は終ってしまうが、私は左に延びる広めの道らしき所を下り、林の手前で茶畑の中の
道に入ります。そして茶畑の中の小さな側溝の所を下れば中山へ分岐した農道の四辻に出ます。
一生我慢 双子山から駿河湾
太陽光発電設備が出来てからの二子山の広場には入りにくくなってしまった。 「私有地につき立入禁止」 なんて看板が
立ったので余計その感が強くなってしまった。
昨年暮れには芹ヶ谷峠下の高台で、半世紀振りかで 「馬鹿野郎」 呼ばわりされた事もあり、内心ドキドキしていたが仲間は
平然としたもで、 「さっきの方が眺めが良い」 なんて嬉しい事を言ってくれた。
双子山で見るのも417m峰で見る眺めも変わりはないが、双子山の方は竹や樹木が延びて邪魔をしてしまうのが難点です。
今日は伊豆半島もはっきり見えていて、半島の先に島影も幾つか見えていた。仲間たちと 「あれは石廊崎だ」 いや 「波勝崎だ」
「新島だ」 「神津島だ」 とうるさい事、うるさい事。
双子山虚空蔵尊 三等三角点
何時も見慣れた双子山の虚空蔵尊だが、今日は新しい事に気が付いた。平らに均された敷地に建つお堂の前に、まるで
塚の上に建てたような三角点の標石があるが、この三角点を見るたびに “これでは標高が狂ってしまう” と思っていた。
それが仲間の一人が 「このお堂の敷地は、随分掘削をして整地したものだ。」 と言った。 「エッ?」 て聞き返すと
「ほらお堂の横の山林の所より50cm以上低くなっている。」 成程!納得です。
確かに標石の高さが、横の山林と同じくらいの高さになっている。これはお堂の敷地を整地すとき三角点の周りに石を積んで
そこだけ残したのだろう。ただその石垣の保護が充分ではないので、標石が動いてしまっている気配はあるが・・・・
この場所は私有地だが、三角点のある場所は動かすことができないのだろうか、そういえば椿山の三角点も今は廃墟なっている
山荘の庭にあった。三角点は動かすことができないのかな?
大丈夫でした。国土地理院のHPにこんな文章が掲載されていました。
「測量標(国家基準点)の移転請求 三角点や水準点等の測量標(国家基準点)に、き損やその他効果を害するおそれのあるときは、
その理由を明記した書面をもって都道府県知事を経由して国土地理院長に当該測量標の移転請求ができます。(測量法第24条)」
更にこんな事も書いてあった。
「基準点の破損を見つけたら… もし、破損している基準点を発見したときは、各地の地方測量部までお知らせください。
三角点の破損や消失から守るため、是非皆さまのご協力をお願いします。」
ここの三角点は知らせるべきか、それとも・・・・・・・・・・・
段の地蔵尊 経塚山の新東名(助宗地ンネル)
双子山から心岳寺に向かって2/3くらい行った場所に丸彫りのお地蔵さんが安置されている。この場所は若干平らになった場所
なので標識には 「段の地蔵尊」 となっている。ではこの平らな所(段)は何て呼んでいたのだろう。
例えば山犬段とか落人の段とか、段にも名前が無ければ場所を特定しずらい。この場所も地蔵が祀られる前は何と呼ばれていたか
分からないが、地蔵が安置されてからは 「地蔵の段」 とでも呼ばれていたのではないかな。
そうでないなら “◯◯段の地蔵尊” と書いてくれた方がありがたいな。
山道が農道なって暫く下るとトンネルが見えてきた。 これは新東名経塚山の助宗トンネルです。
心岳寺本堂 心岳寺の筋塀(定規筋)
心岳寺に来ると塀の模様が気になってならない。直線を引いた模様でこれが筋塀とか定規筋と呼ぶ事を知多半島を歩いて知った。
何でも皇室に縁のある寺のみ許された模様で、線が多いほど高貴で最高位は5本筋だとという。
それが心岳寺では最高位の5本筋なのだから余程皇室に縁が縁があるのだろう。そのあたりの事をお寺さんに聞いてみたいのだが
境内にはいつも人影は無いので聞く事ができないでいる。
心岳寺の案内には 「1504年創設され 開基は三条内大臣実望公の母」 となっているが皇室の方ではない。
そこで三条内大臣実望公を検索してみるとウイキペディアにこんな事が紹介されていた。
「三条実望(1463‐1530) 正室は今川義忠の娘。永正の錯乱で身の危険を感じて一時妻の実家である駿河国今川氏を頼っている。
今川家では駿河山西の稲葉荘を賄領として与えた。」
今川義忠とは遠州勝間田城と横地城を攻略した凱旋での帰途、横地の残党に討たれてしまっている。その子氏親は相続争いで
焼津石脇城で旗揚げをした伊勢新九郎(北条早雲)の助けを借りて今川の当主になった。
三条実望と氏親とは義兄弟の関係なので、頼ってきた実望に稲葉の地を領地として与えたのだろう。
だがこれで皇室が最上位の関係を示す五本の定規筋を許すわけはない。
果たして真相は如何に・・・・・いつか心岳寺さんに尋ねてみたい。
「今日は、志太の二っの寺と二つ山の初詣をしたので、言うなれば志太ニサンにニザンかな」 と仲間が言った。
確かにそれで間違いはないが何とも語呂が悪い。それに頭に志太と付くと他にもいい山や寺もありそうだ。
心岳寺から駅への帰り道はそのことで頭は一杯で、出た結論は “島田一社二寺三山” と “島田一社二山三寺” の二つだった。
寺の事を “山” と表現するのは知っていたが、神社も “山” と言うらしい。例えば出羽三山は 月山神社・出羽神社・湯殿山神社の
事で、熊野三山は 熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の事らしい。
だが、そうなると “島田一山二山三山” と全て “山” となって何とも分かり難い。そこで神社は “社” として、寺はそのまま “寺” と
してみたがどうだろう。問題は場所だが “島田一社二山三寺” なら大井神社、矢倉山、千葉山、静居寺、智満寺、天徳寺となる。
だがこのコースの欠点は景色が良くなく富士山を見る事ができない事だ。
次の “島田一社二寺三山” にすれば山に双子山が加わり寺の心岳寺が抜ける事になる。以前ならこれで問題なかったのだが
来年初詣にこのコースを歩くとなると完歩できるか自信が持てない。ウーンどうしよう? 一年かけてコースを考えてみるか。
藤枝駅に3時50分到着で距離は約19km。なのに大分疲れてしまった。これに矢倉山が加わるとなると・・・・・・・・
歩行時間:4時間55分 休憩時間:1時間05分 延時間:6時間00分
出発時刻:9時50分 到着時刻:15時50分
歩 数: 28、713歩(推定距離20.4km) GPS距離18.8km
行程表
天徳寺 1:05> 智満寺 0:55> 417m峰 0:20> 双子山 0:40> 地蔵尊 0:35> 心岳寺 1:20> 藤枝駅
千葉山智満寺初詣概略図
今年の仲間ウォークの初詣は千葉山智満寺にしました。
帰りは智満寺から眺めの良い417m峰を通って双子山に出れば雪を被った富士山も眺められるでしょう。
天徳寺の参道 天徳寺山門
仲間ウォークでは当たり前の出発地までのバス利用。最近はこの癖がついてしまい一人の時もバスを使うようになってしまった。
以前は “駅からハイク” とか “駅から遍路” 等と恰好を付けて言っていたが、今はその言葉は使えなくなっている。
天徳寺で有名なものは山茶花参道ですが、果たして正月も過ぎた今咲いているでしょうか?
仲間ウォークで花を求めていく場合があるが、その多くは早かったり遅かったりで見る事ができないでいる。たまたまタイミングが
合ったのは竜爪のチャボホトトギス(矮鶏杜鵑)ぐらいの物だろうか。
尤も仲間は花や景色や名所には余り情味が無いようなので、外れでも気にしなくて済むのは有難いけどね。
今回も案の定外れで、変色した花が枝にしがみついている状態でした。
天徳寺の山門は静岡県の文化財に指定されていますが、特段目を引く物はありません。
ただこの山門は安土桃山時代に、徳川家康が豊臣秀吉から在京賄料の一部として与えられた土地で、そこを管理した代官が
建立しています。そのため天徳寺には代官の長谷川家歴代の墳墓があります。
また、隣の尾川には長谷川一族の子孫が尾川の名主となり住んでいた長屋門が市の指定文化財になっています。
天徳寺は島田の中心地から5km程北に入った大草地区にあり、更に北にある智満寺には県道217号(伊久美元島田線)で
行くのですが、この217号は何故か智満寺は向わず、途中で分岐した後は更に道幅を細め稜線に向かっています。
稜線には双子山と千葉山を結ぶ農道が走っていて、県道はその農道に合流すると消滅しているようです。
ネットの地図上には更に道があるようになっているが、現実には農道しかない頼りない県道です。
そんな訳で一般的には島田から智満寺に行くには県道は使わず、尾川から智満寺に向かう市道を利用するようです。
それなのに裏道が県道になったのは何でしょうね?
智満寺本堂 サルノコシカケ
智満寺の本堂は国の重要文化財で、萱葺の堂々とした雰囲気を持っています。
境内の木の “サルノコシカケ” が生えていた。これは癌に効果があるらしいが寺の境内にあるので取る人もいないのだろう。
まだ小さいが年々大きくなって最後には寺の名物になる、なんて想像するのも楽しい。
今日のお土産
私が歩く静岡県志太地区にも幾つかの天台宗の寺がある。例えば高草山の法華寺、藤枝天王山の安楽寺、島田の東光寺、
そして島田千葉山の智満寺がある。これらの天台宗の寺の近くを歩いていて気付くのは、民家の軒策に貼られたお札です。
痩せた悪魔が黒いタイツを穿いたような姿が摺られているお札を、最初に見た時は少なからず驚いたので、早速調べてみた。
この黒い悪魔は天台宗第18代座主(最高の位)で、比叡山延暦寺の中興の祖だった。名前は良源、諡号は慈恵(じえ)大師。
しかしそんな名前より命日が正月の3日だった事から 「元三大師(がんざんだいし)」 と呼ばれで親しまれている。
そんな高僧が何故黒いタイツ姿なのかも調べてみたが良く分からない。
あれは骨と皮だけの角を持った鬼になって、疫病神を追い払った時の元三大師の姿で 「角(つの)大師」 と呼ぶらしい。
この角大師の像を摺ったお札は、魔除けの護符として民家の軒先に貼られるようになったとか。
このお札は以前から欲しいと思っていたので今回1枚購入しました。これを玄関に貼って疫病神が近づかないようにします。
イエイエ誤解しないでください。私が特に信心深いとか縁起担ぎをすると云うわけではないが、これまでも魔除けとして般若や、
トルコの 「メドゥーサの目」、インドネシアの 「ガルーダ(伽楼羅)」 の面を玄関の隅に掛けてあります。
だからって宗教心が強いわけではありません。過去お守りを買った事はないし、お御籤を曳いた事もありません。
アッ!そうだ。お御籤と言えばあれは元三大師が考えて始めたものだって。
特許を申請していれば・・・・なんて考えるのは下種男の私だけでしょう。
メドーサの目とガルーダの事も簡単に話しておきます。
メドーサとは宝石のように輝く目を持ち、見たものを石に変える能力を持ち、その頭髪は無数の毒蛇だったと言われています。
元々美少女であったメドーサは、海神ポセイドンと神殿で交わったため神の怒りをかい、怪物にされてしまったが、ポセイドン
との間には天馬で有名なペガサスが生まれている。
そのメドーサの目玉をあしらったトルコブルーの丸い石が、魔除けのお守りとしてトルコの観光地では盛んに売られていました。
その目の魔力に惹かれて私も一つ購入してしまったのです。
ガルーダとはインドネシア航空の名前ですが、元々は鷲の頭と嘴、翼と爪、脚を持つ鳥人で神の乗り物だったそうです。
それが転じて飛行機会社の名前になったのだから洒落ています。
ガルーダが魔除けになるかどうか分からなかったが、その形相は般若や鬼より恐ろしく、かつ精巧に彫られてるのと、値引きに
引かれて購入してしまいました。
これらの三つの魔除けに守られている我家に、更に黒いタイツの悪魔が加わったのですから、我が家はもう大盤石で、矢でも
鉄砲でも持ってこいです。 と、願いたいですね。
417m峰から
稜線を行く農道は雲一つない青空と、風も無い絶好なウォーキング日和でした。ジャンパーなどの防寒着を着ていないのに
陽射しに照らされて背中はポカポカして汗ばむくらいでした。
智満寺から二子山は農道歩きになるが、私には一ヶ所だけ農道から離れて歩く道があります。場所は稜線の農道が藤枝の
中山集落に下る農道との分岐点より少し智満寺寄りのピークです。
智満寺側から来て農道が右と若干左直線に分岐している所があります。気にしてなければ自然と右の平らで太目な農道を進んで
しまうが、ここを左の細くなった農道を登るとすぐ右側の視界が開け、更に進んだピークには祠に入った地蔵が祀られています。
ここではまだ東は開けていないが少し下った先には写真のような絶景が待っています。
私の多く歩くのは安倍川以西の志太の山が多いため、富士山の眺めは似たような物になってしまうが、それでもこのような景色を
見ると気分は高揚してきます。
普段はあまり写真を写さない中間も盛んにシャッターを切っていました。
ピークからの下りだすと舗装された農道は終ってしまうが、私は左に延びる広めの道らしき所を下り、林の手前で茶畑の中の
道に入ります。そして茶畑の中の小さな側溝の所を下れば中山へ分岐した農道の四辻に出ます。
一生我慢 双子山から駿河湾
太陽光発電設備が出来てからの二子山の広場には入りにくくなってしまった。 「私有地につき立入禁止」 なんて看板が
立ったので余計その感が強くなってしまった。
昨年暮れには芹ヶ谷峠下の高台で、半世紀振りかで 「馬鹿野郎」 呼ばわりされた事もあり、内心ドキドキしていたが仲間は
平然としたもで、 「さっきの方が眺めが良い」 なんて嬉しい事を言ってくれた。
双子山で見るのも417m峰で見る眺めも変わりはないが、双子山の方は竹や樹木が延びて邪魔をしてしまうのが難点です。
今日は伊豆半島もはっきり見えていて、半島の先に島影も幾つか見えていた。仲間たちと 「あれは石廊崎だ」 いや 「波勝崎だ」
「新島だ」 「神津島だ」 とうるさい事、うるさい事。
双子山虚空蔵尊 三等三角点
何時も見慣れた双子山の虚空蔵尊だが、今日は新しい事に気が付いた。平らに均された敷地に建つお堂の前に、まるで
塚の上に建てたような三角点の標石があるが、この三角点を見るたびに “これでは標高が狂ってしまう” と思っていた。
それが仲間の一人が 「このお堂の敷地は、随分掘削をして整地したものだ。」 と言った。 「エッ?」 て聞き返すと
「ほらお堂の横の山林の所より50cm以上低くなっている。」 成程!納得です。
確かに標石の高さが、横の山林と同じくらいの高さになっている。これはお堂の敷地を整地すとき三角点の周りに石を積んで
そこだけ残したのだろう。ただその石垣の保護が充分ではないので、標石が動いてしまっている気配はあるが・・・・
この場所は私有地だが、三角点のある場所は動かすことができないのだろうか、そういえば椿山の三角点も今は廃墟なっている
山荘の庭にあった。三角点は動かすことができないのかな?
大丈夫でした。国土地理院のHPにこんな文章が掲載されていました。
「測量標(国家基準点)の移転請求 三角点や水準点等の測量標(国家基準点)に、き損やその他効果を害するおそれのあるときは、
その理由を明記した書面をもって都道府県知事を経由して国土地理院長に当該測量標の移転請求ができます。(測量法第24条)」
更にこんな事も書いてあった。
「基準点の破損を見つけたら… もし、破損している基準点を発見したときは、各地の地方測量部までお知らせください。
三角点の破損や消失から守るため、是非皆さまのご協力をお願いします。」
ここの三角点は知らせるべきか、それとも・・・・・・・・・・・
段の地蔵尊 経塚山の新東名(助宗地ンネル)
双子山から心岳寺に向かって2/3くらい行った場所に丸彫りのお地蔵さんが安置されている。この場所は若干平らになった場所
なので標識には 「段の地蔵尊」 となっている。ではこの平らな所(段)は何て呼んでいたのだろう。
例えば山犬段とか落人の段とか、段にも名前が無ければ場所を特定しずらい。この場所も地蔵が祀られる前は何と呼ばれていたか
分からないが、地蔵が安置されてからは 「地蔵の段」 とでも呼ばれていたのではないかな。
そうでないなら “◯◯段の地蔵尊” と書いてくれた方がありがたいな。
山道が農道なって暫く下るとトンネルが見えてきた。 これは新東名経塚山の助宗トンネルです。
心岳寺本堂 心岳寺の筋塀(定規筋)
心岳寺に来ると塀の模様が気になってならない。直線を引いた模様でこれが筋塀とか定規筋と呼ぶ事を知多半島を歩いて知った。
何でも皇室に縁のある寺のみ許された模様で、線が多いほど高貴で最高位は5本筋だとという。
それが心岳寺では最高位の5本筋なのだから余程皇室に縁が縁があるのだろう。そのあたりの事をお寺さんに聞いてみたいのだが
境内にはいつも人影は無いので聞く事ができないでいる。
心岳寺の案内には 「1504年創設され 開基は三条内大臣実望公の母」 となっているが皇室の方ではない。
そこで三条内大臣実望公を検索してみるとウイキペディアにこんな事が紹介されていた。
「三条実望(1463‐1530) 正室は今川義忠の娘。永正の錯乱で身の危険を感じて一時妻の実家である駿河国今川氏を頼っている。
今川家では駿河山西の稲葉荘を賄領として与えた。」
今川義忠とは遠州勝間田城と横地城を攻略した凱旋での帰途、横地の残党に討たれてしまっている。その子氏親は相続争いで
焼津石脇城で旗揚げをした伊勢新九郎(北条早雲)の助けを借りて今川の当主になった。
三条実望と氏親とは義兄弟の関係なので、頼ってきた実望に稲葉の地を領地として与えたのだろう。
だがこれで皇室が最上位の関係を示す五本の定規筋を許すわけはない。
果たして真相は如何に・・・・・いつか心岳寺さんに尋ねてみたい。
「今日は、志太の二っの寺と二つ山の初詣をしたので、言うなれば志太ニサンにニザンかな」 と仲間が言った。
確かにそれで間違いはないが何とも語呂が悪い。それに頭に志太と付くと他にもいい山や寺もありそうだ。
心岳寺から駅への帰り道はそのことで頭は一杯で、出た結論は “島田一社二寺三山” と “島田一社二山三寺” の二つだった。
寺の事を “山” と表現するのは知っていたが、神社も “山” と言うらしい。例えば出羽三山は 月山神社・出羽神社・湯殿山神社の
事で、熊野三山は 熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の事らしい。
だが、そうなると “島田一山二山三山” と全て “山” となって何とも分かり難い。そこで神社は “社” として、寺はそのまま “寺” と
してみたがどうだろう。問題は場所だが “島田一社二山三寺” なら大井神社、矢倉山、千葉山、静居寺、智満寺、天徳寺となる。
だがこのコースの欠点は景色が良くなく富士山を見る事ができない事だ。
次の “島田一社二寺三山” にすれば山に双子山が加わり寺の心岳寺が抜ける事になる。以前ならこれで問題なかったのだが
来年初詣にこのコースを歩くとなると完歩できるか自信が持てない。ウーンどうしよう? 一年かけてコースを考えてみるか。
藤枝駅に3時50分到着で距離は約19km。なのに大分疲れてしまった。これに矢倉山が加わるとなると・・・・・・・・