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Channel: はぐれ遍路のひとりごと
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城ロマン:東遠の3城址巡り(諏訪原城址)

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歩行記録                                                           H29-10-5(木)
歩行時間:7時間40分   休憩時間:1時間00分   延時間:8時間40分
出発時刻:7時10分     到着時刻:15時50分
歩  数: 39、463歩(推定距離28.01km)    GPS距離27.3km
行程表
 菊川駅 1:05> 横地城趾入口 1:00> 横地城趾出口 <山中彷徨>0:55><山中彷徨> 横地城趾出口 1:05>
 牧之原台地上県道合流 1:00> 勝間田城趾入口 0:20> 勝間田城趾出口 0:55> 空港入口東交差点 0:35>
 諏訪原城趾入口 0:25> 横諏訪原城趾出口 0:20> 金谷駅

                           遠江3城址(横地・勝間田・諏訪原)概略図

 
 菊川駅から横地城二の丸(横地神社)までのYahoo!の地図
 横地城址出口から勝間田城址入口までのYahoo!の地図
 勝間田城址出口から諏訪原城址入口までのYahoo!の地図

 
              勝間田城跡前を出発                             牧之原・島田市境

  勝間田城を下り終え、いよいよ再度の牧之原台地への上りです。とは云え山城一つ分の上りなので多寡が知れています。
県道233号に入りしばらく行くと牧之原市と島田市の境に 「勝間田川起点」 の標識も立っていた。
川の起点と聞けば、川の水の最初の一滴が生じる稜線近くの山奥、とのイメージを持っていたので、その標識を始めて見た時は
嬉しかったもののガッカリした事を覚えている。ここもそうだが何の風情も無い場所に、何の必要がありこの標識を建てるのか?

 
               切山大聖不動堂                                    不動尊??

  お不動さんは嫌いではないが “大聖不動” は聞いたことが無い。お堂の中を覗き込むと正面に鎮座していたのは不動尊ならぬ
穏やかな顔相の僧形の像だった。これが不動尊? まさか。
私の乏しい知識では左手に数珠、右手に金剛杵を持った僧と云えば 「弘法大師」 としか思えない。
これでは不動明王の御真言 「ナウマクサンマンダ バサラダン センダン マカロシヤダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」 を唱える
べきか 「南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛」 の弘法大師の御宝号を唱えるのか分からないな。
一先ず両方唱えておこう。

  家に帰り気になった “切山大聖不動” で検索してもヒットしなかったが “大日大聖不動明王” がヒットした。
見てみると何の事はない、不動明王の別名とあるだけで詳しい説明は無かった。
その代り “切山” の地名のいいわれと思われる説明を見つける事ができた。
 「切山の “キリ” は開墾の意味があります。開墾の古い用語にハリ(墾)、シバ(新発)、カイト(開土)、カイショ(開所))、シンキリ
(新切)などがあります。  切山は山すそを切り開いた場所という意味です。」
ここの切山は山裾ではないが、“山を切り開いた場所” である事は確かでしょう。

 
            やっと台地の上に出た                              空港入口東交差点

  茶畑と防霜ファンが見えてくれば台地の上は近い。
城跡を出てから約55分で “空港入口東交差点” に到着。後は平らな道を諏訪原城跡に向かうだけだ。

  静岡空港からの道を横断し、次に国道473号を横断して入った道は、県道でもないのに交通量が多かった。
牧之原台地の上に空港ができ新しい道を次々と作っているので、この道の交通量が減るかと思ったが一向に変わりがない。
前から大型車が来ると狭い側溝を跨いで茶畑の縁に逃げるようにしなければならず、小人数の歩きなら良いが、団体歩行には
適さない。ならどこを歩けば良いか考えてみた。

        



  赤線が今回歩いた道で青の点線は次回歩こうと想定した道です。
まず下の地図を見てください。空港入口東交差点を横断し直進します。途中で曲がらずに猪土居交差点まで進み横断します。
ここからは細い道になり野菜茶業研究所横を通り茶畑の中を進みます。ここはまだ歩いた事はなく実際に道があるのかどうかも
分からないので検証が必要です。
更に茶畑の中を進むと石畳の道に合流しますので、左折して西に行けば諏訪原城の入口に出ます。
ただこの道の欠点は、石畳から城の入口までを2度歩かなければならない事(個人的に同じ道はは歩かないようにしている)だが、
それは城跡の内から旧国道1号に抜ける事ができます。ただこの時は金谷坂の石畳は歩かない事になります。

マァ-そんな訳で次回歩く気になった時は、牛舎跡付近の再確認とこの道を歩いてみようと思います。

        
             上水道タンク                             富士山が見えていた

 大きな上水道のタンクに茶畑と富士山の絵が描かれていた。エェーホントかな? と思いつつ東の茶畑を見てみれば・・・・・・
何と! 何と! 富士山が見えていました。薄くぼんやりした富士山ですが富士山に間違いありません。
今日は近くの粟ヶ岳はハッキリ見えなかったのに遠い富士山が見えるとは変な日です。

 
             諏訪原城跡入口                                 諏訪原城跡標石

  「武田流築城術を駆使した壮大な山城 諏訪原城跡」 とパンフレットにあります。
パンフレットは写真の入口から入った所に置いてあり自由に取る事ができるので、これを参考にしながら歩くと便利です。

 
             整備された三日月堀                                  内 堀

  同じ山城と云っても横地城や勝間田城と違い諏訪原城は台地の上端にあるので、台地の上から入城すると起伏が無いため
平城と思えてしまいます。また横地城などは明らかに防御用の詰城の感がするが、この諏訪原城は深い堀はあるものの攻撃用の
城と云った感がします。

  堀は深く山城とは云え自然の地形ではなく明らかに掘削したもので、丸くカーブした形は一目で三日月堀と分かります。
この三日月堀と丸馬出に関して、パンフレットには 「武田流築城術の特徴で、虎口(出入口)の前に設けられた三日月堀と曲輪が
セットになった空間。防御するだけではなく、味方が出撃する場合の拠点にもなる。」 と説明していた。
 
             出入口だけの弱点                               出入口に土塁を設けると

  丁度良い機会ですので馬出の復習をしました。
城の出入口が単に堀と土塁を切断しただけだと、敵は一直線になり出入口を攻めてきます。そのとき城内から防御しようとしても
出入口付近でしか敵を迎え撃つ事しかできません。
そこで出入口の前に土塁を設けると、敵は攻撃の際に城内に向かって長い区間で身を曝さなければならなくなります。
                
  更に出入口に三日月型の堀と土塁を設けると、多くの城兵を馬出の内側にも配置でき二重の防御態勢となります。
これが三日月堀でなく直線的堀だと、正面の敵には対応できるが、側面からの攻撃の防御はしにくくなります。
この理屈は星の形の函館五稜郭や、西部劇の幌馬車隊の円陣を組むのと同じ発想だと思うのですが。

 
             二の曲輪北馬出門                             門の先には富士山が

  外堀の三日月堀の間に新しい門が出来ていた。何故こんな場所に門があるのだろうか? 門の先は自然の地形の堀があり
狭い場所です。新しいパンフレットには
 「二の曲輪北馬出門 発掘調査で確認された門の礎石から復元しました。門の形式は薬医門です。」とある。
それでも分からず更に調べると2017/3/27の静岡新聞にこんな記事が掲載されていた。
 「二の曲輪北馬出城門の復元工事が完了し、3月28日に通り初め式が開かれた。城跡整備検討委員会によると、文化庁の復元
検討委員会の許可を受けて中世の城門が復元されたのは全国初という。
 諏訪原城は1573年に武田勝頼が遠江侵攻の拠点として築城した。今回復元された門は、徳川家康が攻め落とした後の1580年頃に
建てられた。通路から攻め込んでくる敵に一斉に矢を浴びせた場所とみられる。
 高さは約3.5m、間口約2.2m。城跡北側の発掘調査で見つかった四つの礎石上に、城跡周辺のスギやクスノキを使って復元した。
事業費は約2100円。市は新たな観光資源として期待し、今後も見学路や転落防止柵などの整備を進めていく。」

  何々 “通路から攻め込んでくる敵に一斉に矢を浴びせた場所” とあるが、この門のある場所は中馬出と北馬出の間なので、味方の
通行を遮断してしまっている。
これでは馬出同士の行き来が出来なくなり、小さな北馬出は占領される恐れがある。
仮に門を造るとしたら馬出同士の延長線上の方が良さそうに、素人の私は考えるのですが、実際その場所に門の礎石があったのだし、
古城研究の専門家が設計したのだから間違がある分けはない。

        
                                諏訪原城跡案内図(新パンフレットり)

  新しい門の場所は案内図左上の★のところですが、案内図を見ていて更に疑問を感じてしまった。
この門はどちらに向いて建っているのだろう? 写真では手前に太い柱があるので外側に見えるが、それでは門の扉を閉めると
敵が門の内側になり、味方は外側で鍵を閉める事ができなくなってしまう。そんな馬鹿な!
早速薬医門を調べると更に面白い事が書いてあった。
 「公家や武家屋敷の正門などに用いられたが、扉をなくして医家の門として用いられたのでこの名前がある。」
エェー! 門の扉が無いのが薬医門だって。じゃぁこの門は何のために作ったのか? 更に分からなくなってしまいました。

 
                  天守台地                                天守台地からの眺め

  天守台地とは 「諏訪原城は山城で天守閣はなく二層からなる矢倉(櫓)があり、物見が常駐してました。」 と説明している。
案内図では12番の本曲輪の場所で、現在は土塁が無いので広い広場になっています。
ここからは富士山や大井川、金谷や島田の街も眺める事ができる展望地です。ならですよ、どうせ建物を復元するなら、ここに櫓を
復元すれば良いと思うのは素人だからでしょうか。しかし見学に来る大部分は私のような素人思うのですが。
とは云え国に史跡指定されると、根拠のない建物などは建てる事が出来なくなるのでしょう。

 
             明治天皇御駐輦址碑                                芭蕉の句碑

  「輦(れん)」 とは天皇の乗る輿(こし)の事で、川越の時に乗る蓮台を豪華にして屋根がついている物らしい。
明治天皇御駐輦址碑は旧東海道を歩いていると時折目にします。
駐輦址碑の横には芭蕉の句碑 「馬に寝て残夢月遠し茶の烟」 が建っている。
私のように俳句の心得の無い者は、書いてある事にしか理解が及ばないので、この句を見れば金谷宿を出たばかりで何が残夢だとか、
石畳で馬の歩きも安定せず、さぞ寝心地は悪かっただろうなどと思ってしまう。
更にお茶を沸かす煙じゃなくて、ご飯を炊く煙だろう。なんてチョッカイも出したくなってしまう。
所詮は風流を理解しない野暮な年寄りです。

         
                       金谷坂石畳入口                               金谷坂石畳

  街道歩きでは石畳の道が人気があるようですが、東海道を歩いて感じたのは石畳は歩きにくいという事です。
その中でも特に歩きにくいのは佐夜の中山にある石畳で、更に嫌なのはここ金谷坂の石畳です。
何故嫌いかと言うと、箱根の石畳は平らな伊豆石を使っているので歩きやすいのですが、金谷の石畳は丸みある石を使って
いるせいか、石と石の間が広くて注意して歩かないと足をグラしまいます。

  そんな訳で好きではない石畳歩きですが今日は諦めて下ります。ただ幸いなのは石が濡れていないので滑らないで済む事です。
これで石が濡れていると最悪で、街道歩きの中で最悪の区間になっていしまいます。

 
                すべらず地蔵堂                               すべらず地蔵

 「長寿・すべらず地蔵尊 このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものでそす。滑らず地蔵のいわれは、
ここの石畳は 「すべらない」 という特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶うということからきています。」

  ホントかよ~ ここの石畳は滑るから滑らないように 「すべらず地蔵」 を祀ったと思っていたが、この案内板には逆の意味が
書いてある。果たして滑るからすべらず地蔵か、滑らないからすべらず地蔵か。どっちだと思います?

  しかし世の中は色々で、春の受験の頃には地蔵さんにお参りする人がいると云うだから面白いものです。

 
          東海道線牧之原トンネル(菊川側)                     東海道線牧之原トンネル(金谷側)

  上の左の写真は金谷・菊川間の牧之原トンネルを菊川側から写した以前の写真です。右は同じく牧之原トンネルを金谷駅から
写したものですが違いが分かりますか?
よく見れば菊川側から写した左のトンネルには線路も架線もありません。しかし金谷で写した写真には線路も架線もあります。
全線複線の筈の東海道本線なのに何故でしょう?

 
             破棄されたトンネル(金谷側)                       牧之原トンネル(金谷側)
                 
 理由はウィキペディアに載っていました。
 「牧之原トンネルは煉瓦積みの坑口を持つ単線規格で開削され、明治22年、東海道本線新橋駅~関ヶ原駅間は、このトンネルの
開通と同時に全通した。開業当時はもっとも長いトンネルでもあった。
  その後、輸送力増強のためにトンネルが掘られるが、更に老朽化に伴い改修が必要となり、更にもう1本のトンネルが開削される。
そして3本のうち、両側2本のトンネルを代用して中1本のトンネルの改修工事を実施、完了後に北側のトンネルが破棄された。
破棄されたトンネルの坑口は、現在も残されている。」

  破棄されたトンネルの入口を見れば確かに煉瓦を積んであるのが見える。このトンネルが北側の明治22年に開通したトンネルだ。
右の写真のトンネルの入口は、模様の無いコンクリートで塗られていて、ノッペラ坊に見えるが、こちらが現役の東海道本線です。
トンネルの右が2番目に古いトンネルで、今は上り線として使用されています。
左のトンネルは昭和になって掘られた一番新しいトンネルで、現在は下り線として利用されています。

しかし2段上の左の写真では左のトンネルは使われていなかったですよね。
これは金谷駅側のトンネルは、駅である事から3本とも駅出発となっていて、一番新しい南側のトンネルは、途中で大きく南にカーブ
していて、1本だけ離れた出口になっています。
分かってみれば何でもない事だが、最初線路や架線のないトンネルを見た時にはアレーと思いました。

金谷駅到着は3時50分。牛舎跡の1時間の道迷いが無ければ3時にはゴールできたので、ほぼ予定通りでした。
見たものに勝手な妄想をしながら歩く久し振りの 「観歩」 は楽しかったです。

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