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Channel: はぐれ遍路のひとりごと
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仲間ウォーク:初詣

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歩行記録   H29-1-22(日)
歩行時間:3時間40分   休憩時間:1時間20分   延時間:5時間00分
出発時刻:9時45分     到着時刻:14時45分
歩  数: 21、605歩(推定距離15.34km)    GPS距離14.7km
行程表
 愛野駅 0:50> 永源寺 0:50> 油山寺 1:00> 可睡斎 1:00> 袋井駅

 今年の仲間ウォークの歩き始めは、遠州三山の油山寺と可睡斎の初詣です。
三山の中の法多山は一昨年の仲間ウォークの初詣で歩いているので今回はパス。と云えば格好いいが、実際は三山を一度に歩く
となると “長過ぎだぁ” の文句が出るのは必定なので諦めるしかなかった。

         
                        愛野駅                                     花茣蓙公園

 原野谷川の堤防は毎年冷たい風にさらされるのだが、今年は風が弱く和気藹々と歩く事ができた。
そんな中、電車で “さわやかウォーキング” を見ていた仲間が 「以前行った富士川梅園が新コースで載っていた。」 と云った。
あれは2年前の2月に富士川駅から梅園-岩本山-入山瀬駅歩いたのだが、さわやかのコースは新蒲原駅から旧東海道を歩き
富士川梅園-富士川駅の10kmコースと随分短い設定だった。
個人的にはとても歩く気にはならないコースだが、平均年齢が73才の我々には丁度良いのだろうか。

 原野谷川に国道1号線の同心橋が架かる所は、旧東海道の 「名栗立場」 で、今は花茣蓙公園と名前の付いた小さな緑地がある。
 “立場” とは江戸時代の街道で旅人や人足が駕籠や馬を止めて休息した場所の事で、同じような物に “間宿(あいのしゅく)” がある。
江戸時代の街道には宿泊施設のある “宿場” があり、他には泊まる事は出来ないが、茶屋など休憩施設のある “間宿” があった。
その間宿より更に規模の小さい休み場を “立場” と呼んでいた。
つまりここは花茣蓙を売る小さな茶店が何軒かあった立場だったのだろう。

 5年ほど前に歩いた東海道のブログには、袋井市の案内板にあった十辺舎一九の膝栗毛の一部を紹介していた。
 「瀬川を渡れば早名栗 松並木を西に見て立場茶屋に着く 名代の甘酒に舌鼓 ここは布井の宿までの合の宿 旅籠屋もあり 
名物の花茣蓙を売る店が軒を連ね 上り下りの旅人が 珍しいと買っていく」
この辺りは原野谷川と懸川の合流地点で湿地が多く、花茣蓙の原料となるイグサが沢山生えていたのだろう。

    
         可睡斎道標                    油山寺道標                     油山寺道標

 最初の道標は花茣蓙公園の中にあり 「従是西東海道 御本躰可睡三尺坊大権現」 と火伏の可睡斎を案内している。
国1のガードを潜ると、いよいよ油山寺の参道に入り、まず最初の分岐に 「従是油山道」 の道標がある。道標には文化7年(1837)と
あるから今から180年ほど前の物だ。さすがに崩壊は見られるが、筆太で彫の深い文字は今でもハッキリ読む ことができる。
次の角には 「右あぶら山道」 の道標がある 。こちらの道標は仮名で書かれた優雅な物だが、仮名のためか彫が浅いのでいずれは
判読不能になるだろう。
その道標に 「あぶら山」 とあるのは、油山寺の 「ゆさん」 を単に訓読みしただけとも取れるが、油山寺の山から昔は油が出ていたので
「あぶらやま」 と呼ばれていて、寺のことも 「あぶらやま」 と地元では呼んでいたそうです。

 油山寺の道標はこれが最後で、この先では見当たらなくなる。昔と道が違うのか、それとも後は分かりやすいので建てなかったのか? 

         
                          永源寺                               永源寺の機織恋地蔵

 永源寺は各和城の跡だと聞いた事があるが、寺の由緒書にもそんな事は書いてない。だが東海道を臨む地にあり掛川方面の
見晴しも良いので城があっても不自然な地形ではない。
寺の門前に 「機織恋地蔵」 と名札の付いた極彩色の地蔵が安置されていた。ガラスの桟が邪魔をして良く見えないが、何となく
風情に欠けるように見える。こんな地蔵が先週訪れた “初生衣神社” にあったら興ざめした事だろう。
とは言え門前に並ぶ天保9年(1838)建立の三十三像は感じの良い石仏です。

         
               ??                                   菅ヶ谷横穴入口

 この道を歩くたびに気になる白い大木だが、今日は私の植物の師匠も同行しているので、これ幸いと聞いてみた。
でも残念 「ウーン! 分からないなぁ」 だって。

 今回のウオークの案内には 「心掛けが良ければ昔の横穴式墓地の “菅ヶ谷横穴” を見る事ができます」 と書いておいた。
早速 「天気でもあるまいし何で心掛け次第なんだ。」 とか 「わざと気を持たせたのだろう」 と穿った見方をされてしまった。
実はこの菅ヶ谷横穴は金網に囲まれたゴルフ場の中にあるので、中に入るには入口のカギを開けなければならない。
そのカギを開けるのに事前に袋井市役所に連絡する必要があるそうだ。
今までで古墳を見る事ができたのは2回だけだが、平日が多かったからだろう。しかし今日は日曜日なので他の見学者がいれば
一緒に見る事ができる。と他力本願で来たのですが・・・・・

 ウーンまたもや残念。門扉は閉まりカギが掛かっていた。
カギは3桁のダイヤル錠だったので仲間の一人が 「千回合わせれば開けれる」 と回し始めたが、じきに諦め た。
 「これなら事前に番号を電話で聞いておけば良かったのに」 と非難の矛先が私に向いてきた。
慌てて 「イヤー事前にカギを袋井市役所の取りに行くのかと思って ・・・・・・ 」 と弁解をしたが、本当は面倒だったに過ぎなかった。

         
                       油山寺山門にて                           御霊杉(みたますぎ)の幹肌

 油山寺で仲間が興味を示したのが以外にも天然記念物の、幹は松、葉は杉の 「御霊杉(みたますぎ)」 だった。
 「弘法大師が病に罹った幼児の命を助けると、感謝したその子の父親が松で、母親が杉で一膳の箸を大師に捧げた。弘法大師が
旅立つときその箸を大地に挿していくと、あら不思議、幹が松、葉が杉の珍しい霊木になった」 の案内板を真剣に読んでいた。

 境内に置いてあった 「遠州路 戦国歴史めぐりの旅」 のスタンプ帳に2人がスタンプを押しながら 「へ~ 龍潭寺もあるけど、あそこは
直虎ブームで賑わうだろうなぁ」 と話をしている。私が待ってましたとばかりに湖北五山を歩いて来た話をすると
 「30kmもあるじゃぁ私らには無理だなぁ。せめて2回に分ければなんとかなるじゃぁない?」 と珍しく要求をする。
確かに1度では無理だが、2回に分けても天白磐座遺跡から奥山方広寺の間は長いだけで見る物がない。きっと口の悪い仲間の
事だから途中で飽きてしまい 「つまらない」 なんて文句が出てくる恐れがある。
暫く考え仲間にこんな提案をした。
 「湖北五山は無理だけど直虎が支配した井の国を散策するのはどうだろう。そうすれば気賀の関所や新しくできた直虎館にも行く
事ができるよ」 と提案をした。
私の頭の中は仲間の思惑など構わず、金指駅-宝林寺-井伊谷城-出生の井戸-龍潭寺-井伊谷宮-天白磐座遺跡-
細江神社-犬潜り-気賀関所-直虎館-気賀駅と頭の中は目まぐるしくを回転していた。
 
         
            三重塔                                      薬師本堂

 本堂横で日向ぼっこを兼ねながら昼飯を取っているとき、仲間の一人が薩摩芋の切干を差入れてくれた。
薩摩芋は私たち年代の準主食だったので話題が集まり
 「切干が少し粉を吹いて白くなったのを火鉢で焼いてたのが旨かった。」
 「子供の頃は “腹が減った。何かない?” って母親に言うと “薩摩芋でも食べておきな” と云われ、あの頃一生を食ったので今は
食いたくない」
 「最近の薩摩芋は安納芋とか甘い物ばっかになったので、またあの頃旨かった農林2号を栽培する人がいるんだって。」
 「鹿児島じゃ薩摩芋とは言わないで “唐芋” って言ってたから、初めのうちは薩摩芋って聞くと変な感じがした。」
とこれは鹿児島知覧出身の仲間。彼はさらに
 「鹿児島じゃ酒っていえば焼酎の事だけど “しょうちゅう” とは言わないで 「しょっちゅ」 て言っていた。」だって。 

 油山寺ではゆっくり1時間ほど休んでから出発した。

  
                   可睡斎のお雛さん                                  石 仏

 油山寺から可睡斎のコースは余り歩かれない可睡斎の北コースにした。一般的には油山寺から千鳥ヶ池コースを歩く人が多いが、
そのコースを歩いた人がいたので気分を変えてヤマハテストコースの脇から百合園に抜ける北コースにした。
途中にあった大きな茶工場を見てか鹿児島出身の仲間が
 「静岡に来た頃、お茶を土産に持っていったら “知覧にもお茶はある” て言われてしまった。」
そうなんですよね、お茶の生産高は静岡県と鹿児島県がダントツで、3位三重県の生産量は1桁落ちるんですよね。
 「じゃぁ鹿児島は緑茶を飲んでいるの?」 「他は知らないけど知覧は緑茶だった。」

 ヤマハテストコースの厳重な目隠しを見て 「今でも産業スパイがいるのかなぁ?」
 「車ならシートをかぶせて走れるけど、オートバイはどうやって車体を隠すのかなぁ?」
 「いや車体を隠せないからコースを隠すんじゃない」
 「でもさ、今じゃぁドローンがあるから周りをこんな目隠しをしても、空から一発じゃぁない」 と姦しい。

 可睡斎では32段1200体のお雛さんの一般公開が行われていた。勿論有料なのでパス。写真は入口の無料のお雛さんです。

     
                         可睡斎の烏天狗                            火の用心

 境内にあった厄年の早見用を横目に見ながら 「もう70代だから厄年は関係ない」 なんて言っていると、早見表を見ていた
一人が 「アレー70代も80代も厄年があるよ」 と言い出した。
 「そんな馬鹿な。」 と皆で見ると確かにある。
 「八方塞がり 73歳(昭和20年生まれ) 82歳(昭和11年生まれ)」となっている。

 私は昭和19年生まれで満72歳だが数えでは73歳だと思っていた。なのに73歳は昭和20年生まれとなっている????
暫く考えようやく気付いたのは、数え年は生まれた時に1歳になるが、2歳になるのは誕生日ではなく翌年の1月1日だという事。
例えば12月31日に生まれれば翌日には2歳になってしまう、なんか儲かったような損したような計算方法です。
その計算で行けば私は既に74歳。次の役は82歳だから7年後で満なら79歳の時になる。
77歳ならちょっと考えていることがあるが、それから先はもう死んでいるのか惚けているの想像すらできない。否していない。
ところで “八方塞がり” の意味は分からるが、厄としてはどんな物なのかは全員が知らなかった。そこで後日調べてみると
 「どの方角にも障りがあって何もできない状態。どの方角に向かって事行っても、不吉な結果が予想される年。
なので八方塞がりの年は、物事を始めるのには良くない年回り」 なのだそうです。

 考えてみれば八方塞がりの昨年は確かに良くないことが多かった。
7月に遠江33観音の遍路に出かけ熱中症で酷い目にあって病院通いをした。
20日ほど休んで出かけた2回目の遍路でも、最後の札所にようよう着いたが動く事ができず30分近く横になってしまった。
そして極め付けは体調の様子見で登った花沢山で転倒して胸を強打してしまった。今では痛みは完全に収まっているが、
胸にはその時の痕が赤く残っている。
その後は山に登る勇気がなく、やっとその気になったのは紅葉にも遅い10月末の大谷嶺だった。しかしあそこも距離の割には
バテバテになってしまい、帰り寄る予定だった赤水の滝もパスする始末だった。
そんな訳で年間の歩行距離も一昨年は2274kmだったのが去年は1020kmと半減してしまった。
こうしてみれば “八方塞がり” の厄は私には当たっていたようだ。
でも、でもですよ 今年はその厄が開けたのだから きっといい年になるでしょう。そう思う事にします。


 可睡斎の烏天狗は火伏の守り神 “三尺坊大権現” の化身です。
どなた様もこの1年の我家の 「火災消除」 「家内安全」 をお願いしましょう。

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