歩行記録 H28-2-15(月)
歩行時間:9時間05分 休憩時間:1時間05分 延時間:10時間10分
出発時刻:7時10分 到着時刻:17時20分
歩 数: 49、953歩(推定距離35.5km) GPS距離35.6km
行程
掛川駅 1:15> 横地城趾入口 1:50> 横地城趾出口 1:05> 一勝間田城入口 0:25> 勝間田城出口 1:00> 地蔵峠
0:50> 高根山中腹 0:25> 地蔵峠 1:00> 誘導路開始点 1:05> はばたき橋
勝間田氏
横地城址の最後の標識から快調に下りだしたのは良いが、道はズンズン下り、しかも西の方角に向かって行く。
これから行く東名牧の原ICは北西の方向だが、そこに向かう直接の道は無いので、一度東の牧之原台地に上がり、台地を北に
向かう筈だ。しかし今更下った坂を上り返す気にはならないし、道標に戻ったとしても矢張りICとは逆方向の南の道しかなかった。
仕方ない行きつくとこまで行ってみようと更に西に向かって下って行った。途中にあった見晴らしの良い場所から農道が良く見えた。
これから下る道を見ると、この先で東西を走る少し太めの道に合流する。ならその道を東に向かえば牧之原台地に上がれるだろう。
少し元気が出てきた。
合流した道は北東に向う上り坂で、今下ってきた分だけ登り返すようだった。全く無駄歩きをしてしまったもんだ。
更に登っていくと道はカーブして東に向いだした。これでは牧之原ICに行くのに遠回りになってしまう。いやだなー。と、その
カーブの付根にタイミング良く西に向かう細い道があった。ラッキーとばかり入って行き見晴らしの良い場所から下を見ると、
その下には何本の農道も見えていた。
中でも中央辺りの太い道は時々車が走っているのが見える。ヨシあの道を行こうと、少しでも楽をするように道を見定めてから
下って行った。
太い道に出るとまた昇り返しになった。全く無駄な上り下りをしてしまった。これもWindoows10をダウンロードしたばかりに
プリンターが使えなくなったせいだ。古いプリンターだがプリンター自体は故障をしてないのに印刷できないのだから、新品を
買っても印刷できる保証がない。それで二の足を踏んでいるのだが困ったものだ。
そんな愚痴を想いながら坂を上り、ようやく台地の上の県道に合流した。
家に戻り今日歩いた道を地理院の地図で確認すると、横地城址を出て最初に農道に合流して、道標を見て喜んだ場所は、
実は三辻ではなく四辻だった。
道標の “神尾” に誘われて意気揚々と農道を下ってしまったが、そこを曲がらないで直進すればアップダウンも距離も少なく
牧之原台地に登る事ができたのだ。確かに前方の方には地図にあるような何棟もの建物が見えていた。
しかし今考えてみてもあの辻が四辻だったとは思えないのだが・・・・・・・
何だろうこのドームは 後で調べたが? 矢崎ものつくりセンター
東名の跨線橋を渡り、国道と合流してすぐ矢崎の工場前の旧道を北に向かう。勝間田城址はこの矢崎を過ぎたあたりから左に
折れて農道に入り台地を下るのだが、その農道の入り口に自信が無かった。矢崎の角を曲がった先に守衛さんが立っていた。
「すみませーん。勝間田城址に行きたいのですが、この先の何処を曲がればいいのでしょうか?」
「勝間田城址? ウーンこの先にあるらしいけど道は知らないなー」 だって。残念。
仕方なく山勘で適当な所を右折すると少し戻ったりしたが東に下る道に出た。マーいいさ、ここを下りきれば県道と川がある。
そこまで下ればなんとかなるサ。
ところがですよ。何と!何と!道が下り始める前に 「勝間田城址入口」の標識が立っていた。
勝間田城址入口 土橋か一騎駆か
しかもその道を少し行くと駐車場のような空地があり、その先は急な下りの山道になった。
昨夜見たYahoo!の地図では城址の中の道は載っていなかったので、いったん下まで下り、城址には登り返す積りでいた。
それがどうやらこの道は上から直接城址に向かっているようだ。それこそラッキー!!だった。
急な下りだが道は電光形になっていて滑らずに下る事ができる。傾斜がこれだけあれば大軍の移動は難しいだろう、等と考え
ながら下って行くと横地城と同じような一騎駆とも云える土橋が出てきた。どうやらこのここから先が勝間田城址のようだ。
本曲輪への道(裏道) 本曲輪
分岐した道を木の根の張った高台への道へ行くと、そこは勝間田城の本曲輪の跡だった。
本曲輪には小さな祠が祀られていて、その前に建つ灯篭に 「印野親和会」 の文字があった。
勝間田氏の始まりは、横地氏の始祖家長の次子が勝間(かつまた)次郎を名乗り榛原郡勝田庄に居館を構えた事に始まる。
その横地城と勝間田城の位置関係は、南遠の塩の権益確保によると言う説があった。それによると横地城は南遠の塩の輸送路、
すなわち塩の道の沿岸部を保護し、勝間田城は製塩が行われた相良荘を管理していたという。
確かに信州に続く塩の道は相良で製塩された塩を 「塩買(塩替)坂」 に運び、ここで掛川から来ている塩商人と売買していたので、
そこで上がる収益に運上金を賭けていればかなりの儲けになったろう。塩買坂は城から4kmと横地城からは左程遠くない。
実はこの塩買坂は、横地・勝間田城を落とされた残党が、敵将今川義忠の帰路を襲い討取った場所でもある。
一方勝間田城は塩の産地 相良荘の守備を受け持ったとあるが、城と相良は15km近くあり、横地城と相良間より遠い距離になる。
本当に次男に塩の産地を守らせる気なら、もっと海に近い所に城を建てたろう。
この “塩の権益確保” 説は、後で塩の道の事を知った人が都合よく唱えたのだろうと私は思う。
オッと脇道に逸れたので勝間田氏に話を戻すと、始祖以来縁戚関係にあった横地氏とは、勝間田城が滅びるまでの300年以上
同盟関係を結び、共に活動してきたようだ。だがその関係も落城と共に終わり、勝間田氏はこの地を落ちて行った。
その落ちて行った先は・・・・ 案内板に説明があったのでそれを紹介すると
「今川義忠の猛攻の前に勝間田城はついに落城、一族は四散した。一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられて
いる。」 これでやっと灯篭の話に戻った。
灯篭に刻まれた 「印野」 とは御殿場市にある地名で、「富士の原野に落ち延びた勝間田一族」 のHPには、こんな説明がしてあった。
「勝間田城が落城すると、勝間田修理亮の身内の一部が、密に海岸から舟を漕ぎ出し、海上を沼津周辺に向かい、そこから
富士山麓へと落ち延びていった。
そうした一族の内、印野八郎左衛門らは、山之尻から印野の奥へと住み着き、一部の者は箱根仙石原に住み着き、勝俣姓を
名乗ったと伝えられる。昭和年間に、元社会党の委員長となった勝間田清一の家系もそうした末裔の家系であった。」
これで祠の前に 「印野親和会」 の文字がある理由が分かったと思います。
更に 「静岡県 名字の話」 (渡辺三美著)には、「横地城が落城すると甲斐に逃れた勝間田兄弟は、嫡子が甲斐で勝俣を称し、
次男が印野に移住し勝間田を、四男が仙石原に住み勝俣を名乗ったという。
また、勝間田姓が本家筋で、勝俣、勝又、勝亦は分家筋にあたり後世に字を変えたとも伝えられている。」
御殿場出身の私は勝間田姓と勝間田城の関係は知っていたが、他のかつまた姓も勝間田氏の一族だとは知らなかった。
御殿場には他にも “勝亦” 姓もあるが、このれも一族なのだろうか。
と、勝間田一族が富士山麓に移り住んだのは事実のようだが、以前は落ち延びるのに何故敵の本拠地のある駿府を通って
行ったのか理解できなかった。塩買坂で敵将を討ち取ったら、そのまま西に逃げれば今川と敵対する斯波氏に保護されたのでは
ないかと思っていた。それが今回船に乗って逃げたと知ると何となく理解できた。
急な逃亡で大きな船は支度できず、駿河湾の外には出ることができなかったのだろう。そうなると海岸沿いに駿河湾の奥深くに
向い沼津辺りで上陸して、更に富士山の奥深い御厨(御殿場)の印野を目指したのも頷ける。
ネットの “名字の由来” によれば、勝間田姓は全国で3049位、約4400人居るとなっていた。その中で静岡県には2800人と
約60%強が集まり、更に御殿場市には70%強の2000人が住んでいることになっている。
横地姓の多かった島根県は、勝間田姓は少ないか調査中だった。矢張り横地氏とは落城を切っ掛けに離れ離れになったのだろう
時間は丁度12時。本曲輪の日溜りの階段に腰かけ弁当を食べていると突然爆音が空から降ってきた。
慌てて見上げた空の真上を南の海に向かう飛行機が下腹を見せて飛んでいた。どうやら静岡空港を離陸したばかりのようだが、
飛行機の向きが逆のようだ。通常静岡空港は東西の滑走路を東から西向い海に向って離陸している。ただ西風や北風が強いときは
逆方向に離陸して、上空で方向転換してから海に向かっている。
どうやら今日は西風が強いので、西に向かって離陸した飛行機がこの辺りの上空で方向転換しているのだろう。
歩行時間:9時間05分 休憩時間:1時間05分 延時間:10時間10分
出発時刻:7時10分 到着時刻:17時20分
歩 数: 49、953歩(推定距離35.5km) GPS距離35.6km
行程
掛川駅 1:15> 横地城趾入口 1:50> 横地城趾出口 1:05> 一勝間田城入口 0:25> 勝間田城出口 1:00> 地蔵峠
0:50> 高根山中腹 0:25> 地蔵峠 1:00> 誘導路開始点 1:05> はばたき橋
勝間田氏
横地城址の最後の標識から快調に下りだしたのは良いが、道はズンズン下り、しかも西の方角に向かって行く。
これから行く東名牧の原ICは北西の方向だが、そこに向かう直接の道は無いので、一度東の牧之原台地に上がり、台地を北に
向かう筈だ。しかし今更下った坂を上り返す気にはならないし、道標に戻ったとしても矢張りICとは逆方向の南の道しかなかった。
仕方ない行きつくとこまで行ってみようと更に西に向かって下って行った。途中にあった見晴らしの良い場所から農道が良く見えた。
これから下る道を見ると、この先で東西を走る少し太めの道に合流する。ならその道を東に向かえば牧之原台地に上がれるだろう。
少し元気が出てきた。
合流した道は北東に向う上り坂で、今下ってきた分だけ登り返すようだった。全く無駄歩きをしてしまったもんだ。
更に登っていくと道はカーブして東に向いだした。これでは牧之原ICに行くのに遠回りになってしまう。いやだなー。と、その
カーブの付根にタイミング良く西に向かう細い道があった。ラッキーとばかり入って行き見晴らしの良い場所から下を見ると、
その下には何本の農道も見えていた。
中でも中央辺りの太い道は時々車が走っているのが見える。ヨシあの道を行こうと、少しでも楽をするように道を見定めてから
下って行った。
太い道に出るとまた昇り返しになった。全く無駄な上り下りをしてしまった。これもWindoows10をダウンロードしたばかりに
プリンターが使えなくなったせいだ。古いプリンターだがプリンター自体は故障をしてないのに印刷できないのだから、新品を
買っても印刷できる保証がない。それで二の足を踏んでいるのだが困ったものだ。
そんな愚痴を想いながら坂を上り、ようやく台地の上の県道に合流した。
家に戻り今日歩いた道を地理院の地図で確認すると、横地城址を出て最初に農道に合流して、道標を見て喜んだ場所は、
実は三辻ではなく四辻だった。
道標の “神尾” に誘われて意気揚々と農道を下ってしまったが、そこを曲がらないで直進すればアップダウンも距離も少なく
牧之原台地に登る事ができたのだ。確かに前方の方には地図にあるような何棟もの建物が見えていた。
しかし今考えてみてもあの辻が四辻だったとは思えないのだが・・・・・・・
何だろうこのドームは 後で調べたが? 矢崎ものつくりセンター
東名の跨線橋を渡り、国道と合流してすぐ矢崎の工場前の旧道を北に向かう。勝間田城址はこの矢崎を過ぎたあたりから左に
折れて農道に入り台地を下るのだが、その農道の入り口に自信が無かった。矢崎の角を曲がった先に守衛さんが立っていた。
「すみませーん。勝間田城址に行きたいのですが、この先の何処を曲がればいいのでしょうか?」
「勝間田城址? ウーンこの先にあるらしいけど道は知らないなー」 だって。残念。
仕方なく山勘で適当な所を右折すると少し戻ったりしたが東に下る道に出た。マーいいさ、ここを下りきれば県道と川がある。
そこまで下ればなんとかなるサ。
ところがですよ。何と!何と!道が下り始める前に 「勝間田城址入口」の標識が立っていた。
勝間田城址入口 土橋か一騎駆か
しかもその道を少し行くと駐車場のような空地があり、その先は急な下りの山道になった。
昨夜見たYahoo!の地図では城址の中の道は載っていなかったので、いったん下まで下り、城址には登り返す積りでいた。
それがどうやらこの道は上から直接城址に向かっているようだ。それこそラッキー!!だった。
急な下りだが道は電光形になっていて滑らずに下る事ができる。傾斜がこれだけあれば大軍の移動は難しいだろう、等と考え
ながら下って行くと横地城と同じような一騎駆とも云える土橋が出てきた。どうやらこのここから先が勝間田城址のようだ。
本曲輪への道(裏道) 本曲輪
分岐した道を木の根の張った高台への道へ行くと、そこは勝間田城の本曲輪の跡だった。
本曲輪には小さな祠が祀られていて、その前に建つ灯篭に 「印野親和会」 の文字があった。
勝間田氏の始まりは、横地氏の始祖家長の次子が勝間(かつまた)次郎を名乗り榛原郡勝田庄に居館を構えた事に始まる。
その横地城と勝間田城の位置関係は、南遠の塩の権益確保によると言う説があった。それによると横地城は南遠の塩の輸送路、
すなわち塩の道の沿岸部を保護し、勝間田城は製塩が行われた相良荘を管理していたという。
確かに信州に続く塩の道は相良で製塩された塩を 「塩買(塩替)坂」 に運び、ここで掛川から来ている塩商人と売買していたので、
そこで上がる収益に運上金を賭けていればかなりの儲けになったろう。塩買坂は城から4kmと横地城からは左程遠くない。
実はこの塩買坂は、横地・勝間田城を落とされた残党が、敵将今川義忠の帰路を襲い討取った場所でもある。
一方勝間田城は塩の産地 相良荘の守備を受け持ったとあるが、城と相良は15km近くあり、横地城と相良間より遠い距離になる。
本当に次男に塩の産地を守らせる気なら、もっと海に近い所に城を建てたろう。
この “塩の権益確保” 説は、後で塩の道の事を知った人が都合よく唱えたのだろうと私は思う。
オッと脇道に逸れたので勝間田氏に話を戻すと、始祖以来縁戚関係にあった横地氏とは、勝間田城が滅びるまでの300年以上
同盟関係を結び、共に活動してきたようだ。だがその関係も落城と共に終わり、勝間田氏はこの地を落ちて行った。
その落ちて行った先は・・・・ 案内板に説明があったのでそれを紹介すると
「今川義忠の猛攻の前に勝間田城はついに落城、一族は四散した。一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられて
いる。」 これでやっと灯篭の話に戻った。
灯篭に刻まれた 「印野」 とは御殿場市にある地名で、「富士の原野に落ち延びた勝間田一族」 のHPには、こんな説明がしてあった。
「勝間田城が落城すると、勝間田修理亮の身内の一部が、密に海岸から舟を漕ぎ出し、海上を沼津周辺に向かい、そこから
富士山麓へと落ち延びていった。
そうした一族の内、印野八郎左衛門らは、山之尻から印野の奥へと住み着き、一部の者は箱根仙石原に住み着き、勝俣姓を
名乗ったと伝えられる。昭和年間に、元社会党の委員長となった勝間田清一の家系もそうした末裔の家系であった。」
これで祠の前に 「印野親和会」 の文字がある理由が分かったと思います。
更に 「静岡県 名字の話」 (渡辺三美著)には、「横地城が落城すると甲斐に逃れた勝間田兄弟は、嫡子が甲斐で勝俣を称し、
次男が印野に移住し勝間田を、四男が仙石原に住み勝俣を名乗ったという。
また、勝間田姓が本家筋で、勝俣、勝又、勝亦は分家筋にあたり後世に字を変えたとも伝えられている。」
御殿場出身の私は勝間田姓と勝間田城の関係は知っていたが、他のかつまた姓も勝間田氏の一族だとは知らなかった。
御殿場には他にも “勝亦” 姓もあるが、このれも一族なのだろうか。
と、勝間田一族が富士山麓に移り住んだのは事実のようだが、以前は落ち延びるのに何故敵の本拠地のある駿府を通って
行ったのか理解できなかった。塩買坂で敵将を討ち取ったら、そのまま西に逃げれば今川と敵対する斯波氏に保護されたのでは
ないかと思っていた。それが今回船に乗って逃げたと知ると何となく理解できた。
急な逃亡で大きな船は支度できず、駿河湾の外には出ることができなかったのだろう。そうなると海岸沿いに駿河湾の奥深くに
向い沼津辺りで上陸して、更に富士山の奥深い御厨(御殿場)の印野を目指したのも頷ける。
ネットの “名字の由来” によれば、勝間田姓は全国で3049位、約4400人居るとなっていた。その中で静岡県には2800人と
約60%強が集まり、更に御殿場市には70%強の2000人が住んでいることになっている。
横地姓の多かった島根県は、勝間田姓は少ないか調査中だった。矢張り横地氏とは落城を切っ掛けに離れ離れになったのだろう
時間は丁度12時。本曲輪の日溜りの階段に腰かけ弁当を食べていると突然爆音が空から降ってきた。
慌てて見上げた空の真上を南の海に向かう飛行機が下腹を見せて飛んでいた。どうやら静岡空港を離陸したばかりのようだが、
飛行機の向きが逆のようだ。通常静岡空港は東西の滑走路を東から西向い海に向って離陸している。ただ西風や北風が強いときは
逆方向に離陸して、上空で方向転換してから海に向かっている。
どうやら今日は西風が強いので、西に向かって離陸した飛行機がこの辺りの上空で方向転換しているのだろう。