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Channel: はぐれ遍路のひとりごと
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榛南の山城と高根山2

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歩行記録                                                              H28-2-15(月)
歩行時間:9時間05分   休憩時間:1時間05分   延時間:10時間10分
出発時刻:7時10分     到着時刻:17時20分
歩  数: 49、953歩(推定距離35.5km)    GPS距離35.6km
行程
 掛川駅 1:15> 横地城趾入口 1:50> 横地城趾出口 1:05> 一勝間田城入口 0:25> 勝間田城出口 1:00> 地蔵峠
 0:50> 高根山中腹 0:25> 地蔵峠 1:00> 誘導路開始点 1:05> はばたき橋

                                   横地城址
      
      県道の横地城趾入口看板                           横地一族の墓

 県道にある横地城址入口の看板を右の小路に入ると坂を上に行く城址への道があった。
小路に入ると寺跡などがあり、五輪塔や宝篋印塔、無縫塔が集めれ並べられている 「横地氏一族の墓」 がある。
山城にこんなに多く墓石があるのは珍しいが、横地城の標高は低く山裾には横地氏の菩提寺などもあったからだろう。
更に坂を上ると “隠し井戸” があり 「城主居館の水の手」 の説明がある。と云う事は横地城は単なる詰城ではなく城主の
居館と地続きの城だったのだろうか。
 次に出てきたのは “斯波氏武衛邸宅跡” とあり 「応仁の乱の西軍の雄、斯波氏武衛義廉の邸宅の跡」 と説明がある。
斯波氏武衛義廉(よしかど)とは、越前・尾張・遠江の三ヶ国の守護で、幕府の官領を務める重要人物だったようだ。
そのため遠江の経営も配下に任せていたような人物が、遠江のそれも片田舎の横地に邸宅を構えたとは信じられない。
多分斯波家の家臣が横地城を訪ねる時に泊まった屋敷なのだろう。
ただ隠し井戸も邸宅跡も藪や林の中で今は痕跡すら見る事は出来ない。

 更に進むと 「身討原」 への矢印があったのでメイン通路は外れて行ってみた。道はズンズン下り茶畑が現れてしまった。
これでは麓に下がってしまうと引き返したが、この身討原は城主の秀国が落城の際、自刃した場所らしい。

      
                一騎駆                            金玉落としの谷

 道は掘割などもなく続いているが、堀は埋められてしまったのだろうか。ようやく左右の谷が深くなってきた所に山城らしき物が
出てきた。まず 「一騎駆」 は 「両岸が切りたった絶壁で、大軍を擁しても、通過するためには一騎づつしか通れないので、この
名が起きた。この一騎駆の両端には必ず狙い撃ちできるように構えの段が造られていた。」 となっている。
山の詰城に行くとこのような細い尾根は “土橋” と称していたが、確かに “一騎駆” の方が恰好が良い。
ただ気になるのはこのような場所は敵も一騎づつしか通れないが、味方も同じことになる。これでは籠城戦に向いているが敵が
迫った時の攻撃には向かないような気がする。

 おっと 「金玉落し」 だって。随分気になるが説明には 「城兵の訓練の場で、山上より金の玉を谷底に落とすと、兵は一斉に
谷に下って玉を探し、見つけた者には賞が出たと伝えられている。」 だって。では 「金の玉落し」 が正解だろう。

              
                井戸跡                            水が溜まっていた

 さっきは “居館の井戸跡” があったが、また “井戸跡” が出てきた。山城では水は大事であちこちに井戸を掘ったのだろう。
穴が開いていたので覗いてみたら、きれいな水が溜まっていた。

      
              横地神社                           西曲輪(二の丸)の土塁溝

 少し広くなった所があり “千畳敷” と名前が付いていたが千畳敷の説明は無かったが、 「横地城跡」 と 「二の丸」 案内が
あったので紹介します。
 「横地城跡 戦国時代の国人領主横地氏の山城です。山城の長さは1.5kmと大規模で築造形態の完成度の高い中世城郭として、
平成16年に国の重要文化財となり歴史的評価の高い史跡です。
 城は標高100m前後の山頂部を曲輪とし、東曲輪、中曲輪、西曲輪の三群から構成される連郭式山城で、東曲輪がその中心に
当たります。各曲輪を中心に、尾根や小支線に平場や堀切を丁寧に築き堅固な防御をなすと共に、自然地形を利用した要塞と
なっています。」

 「二の丸跡 副将級と他地域から応援に来た武将が詰め、標高95mの南(千畳敷)側は五段に形成され、前面に土塁と濠が
廻らされている。この頂上には横地氏を祭る横地神社が建てられ、その裏手からは落城当時の焼米が出土した。」

 説明を読んでから横地神社の鳥居を潜り西曲輪に登ってみた。
斜面に段が付いているのが説明にある五段の土塁と濠なのか。

 
                   土塁溝                               西曲輪(二の丸)

 今では濠は浅くなってしまい、土塁を築いた時の跡程度にしか見えないが、この防御施設が5段もあると中々攻め難いだろう。
千畳敷に続く東の斜面は緩やかだが、他の三方は更に急な斜面で自然の城壁になっている。ただ気になるのは祠のある曲輪跡が
余りに狭いことだ。ここの曲輪には副将級と応援の武将が詰めたとあったが、ここに櫓を建てても兵は余り入れないだろう。
途中の土塁濠も各段に兵を十分配置してしまうと、攻撃されて上の土塁に逃げようとしても入れなくなる恐れがある。
これでは千畳敷を敵に占領されれば、ここは最後のあがきの場所でしかないように感じた。

 西曲輪と東曲輪の間にある中曲輪と呼ぶ高台は、上部は平らになっているがここもあまり広くなかった。

 
              東曲輪(本丸)への上り                         東曲輪(金寿城・本丸)

 東曲輪は横地城の本丸なので最重要拠点だろう。ここも他の曲輪と同様ピョコンとした高台の上にあるので攻撃はし難いだろう。
横地城は東・中・西の曲輪が続く連郭式山城だそうだが、一般的連郭式なら最初の曲輪が攻撃に耐えかねれば、次の曲輪に逃げ
込む事ができる。だが横地城は私が見る限りではそれぞれの曲輪の距離は近いが、曲輪の下に敵兵がいるので次の曲輪に逃げ
込む事はできない。ただ距離が近く配置が一直線でないため、西曲輪が攻撃されれば中曲輪から弓矢で応援はできる。
これは中曲輪が攻撃されれば西と東が応援し、東が攻撃されれば中が応援できるので攻撃する側としては厄介な配置だろう。


                                横地城の掘切(現地案内板)

 横地城には上の案内板のように各曲輪を守る小型の掘割は各所にある。当然それは必要だが、城全体の防御態勢が足りない
気がする。城音痴の私が言うべきではないが、この配置では千畳敷を敵に抑えられれば各曲輪はなす術がない。
敵が長期戦の構えをを見せれば、籠城は覚悟の上とはいえ打開策は少なく落城を待つだけだろう。
また、敵が火矢の攻撃を仕掛けてくれば籠城すらできなくなる。
それならばと、私の妄想的発想は訴える。横地城の出入口に、上図のように規模の大きい三日月状の堀を三ヶ所掘りたい。
こうすれば敵に安易に千畳敷を奪われることは無い。仮に奪われたとしても各曲輪から一斉攻撃をすれば敵兵はその堀が
邪魔になり退きにくくなる。どうですかこの案は。


                                横地城の配置図(現地案内板)

 もう少し見やすい案内図です。
図には書いてないが一騎駆の狭い尾根の部分は深い掘割にして跳ね橋で結んだらどうだろうか。
こうなれば横地城は難攻不落の城となり、横地秀国は討死することは無く、遠江の歴史は大きく変わった事でしょう。

      
              東の一騎駆                          粟ヶ岳

 東曲輪の先にも一騎駆があった。今川勢がどこから横地城を攻めたか分からないが、ここは横地城の一番の弱点と思われる。
ここを突破されれば東曲輪、いわゆる本丸は目の前で他の曲輪の支援を受けにくくなる。やはりこの先に掘割を造り一騎駆も
跳ね橋にして防御態勢を固めるべきだ。

 城音痴による縄張り論議でした。

      
                      農道が見えた                           最後の城址案内板

 東の一騎駆の所に交通止と書いたウマが置いてあった。多分これは車に対しての案内だろうと勝手に判断して先に進む。
道は軽トラが走れる広さが更に狭くなり山道状になったと思ったら、すぐまた軽トラなら走れそうな広さの道になった。
実はここから先の道には自信はなく、昨夜YAHOO!の電子地図を眺めて来たが既に曲がる場所などは覚えていない。
次の行き先は勝間田城址だが、その前に東名の牧之原ICの近くを通るので分からなければ聞けばよいと思っている。
ともかく横地城址から農道に出るのが先決で多分この道を行けば農道に出るだろう。

 高台の茶畑に出ると下には農道が見えていた。矢張り城からは通り抜けできるようになっていたのだ。
ただ、この辺りは農道が有りすぎるくらい有るので、逆にその農道がどこに行くか心配になってしまう。
でも大丈夫。農道に合流し角には道標が建っていて、今来た道は横地城跡とあり、右折は大久保、左折は神尾になっていた。
大久保は分からないが神尾の地名は昨夜見た地図にあった地名だ。ラッキーとばかりに下りになった農道を歩き始めた。

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