font color="red">歩行記録 H30-3-25(日)
歩行時間:5時間50分 休憩時間:1時間20分 延時間:7時間10分
出発時刻:6時30分 到着時刻:13時40分
歩 数: 29、058歩(推定距離20.05km) GPS距離km
行程表
西焼津駅 0:20> 田中城下屋敷 0:20> 田中城本丸跡 0:50> 青山八幡宮 0:30> 潮山登山口 0:25> 潮山 0:40>
朝日山城趾 0:30> 新東名岡部IC 1:20> 龍勢発射場 0:05> 玉露の里 0:20> 朝比奈城趾 0:30>
玉露の里BS
潮山遠景(十輪寺高台から)
潮山を東にある三輪の十輪寺の高台から写した写真です。
バイパスのトンネルの横から潮山に登り、稜線や中腹を北(右)に向かって朝日山城に行きました。
朝日山城跡の曲輪(推定) 現地案内板
朝日山城の現地案内板に3枚の絵が出ていたので紹介します。
例により山城の復元図は “白髪三千丈”で、恰好は素晴らしいが現実的ではありません。
勿論朝日山城も復元図のような断崖絶壁ではないが、一応山の上の3段くらいの断層の上に一ノ曲輪跡はありました。
朝日山城とその周辺(推定) 現地案内板
朝日山城と周辺を描いたものですが残念ながらこの図も推定と書いてありました。
この図が昔の図なら色々判明するのですが惜しい事です。
特に潮城が湖?池?の畔に書かれているのは、この作者は潮城は朝日山城の出城だったと判断しているからでしょう。
それと気になったのは朝日山城があった山が “牛伏山” となっている事です。朝日山にあるから朝日山城と思っていたが
実際は牛伏山だったのですね。
山西勝地真景 現地案内板
3枚目は推定ではなく文化11年(1814)に朝日山から見た山西地方を書いたものです。
山西地方とは今川時代に駿府から見て山(大崩山塊)の西の地域、即ち志太地域を指した言葉です。
早速気になる山の名前を見てみると、今の虚空蔵山が遠目山となっています。これはこの地域の地名は今でこそ 当目” ですが、
昔は “遠くが見える” ことから “遠目”と書いていたようです。
遠目山から尾根を左に行くと今度は “小〇山” とあるが、丸の部分が判読できません。サンズイが分かるので若しかしたら
“小浜山” かもしれません。場所は多分簡保の尾根の道了権現のピーク辺りだと思います。
次の花沢山は今も昔も花沢山のようです。その次に日本坂峠や満観峰が書いてあれば嬉しかったのですが残念ながらありません。
次は “高〇伏” で多分高草山の事でしょう。高草山は近代になって名付けた山と思ったのですが、この地の古文書には高草山の
山頂部は草地になっていて、その伐採の権利を巡って度々縄張争いが起きていたようです。
その裁定願が何通も残っていますが、山の名前は “高草山” になっているそうです。
こんな風に昔の名称が書かれていると何でもないような絵でも興味が湧いてきます。他の城址でもやって欲しい事です。
城址の入口 稲荷神社の鳥居(三ノ曲輪跡)
前置きはさておき、潮山からの農道はこの鎖で遮断された道に通じています。
左の小径は遊歩道となっていたが入っても何もありません。正面の太い道は後になって作られた運搬用の道です。
右の小径を行くと朝日山城の見所とされる竪堀を上から見る事ができます。とは言え凹んだ場所に木が生えているだけで
堀? 自然の地形? と言った感じで素人の私には区別がつきません。
麓の大手口からの道に合流して階段を登った鳥居が三ノ曲輪跡だそうです。横には四阿がありそこに最初に紹介した案内が
展示されています。
朝日稲荷神社(二ノ曲輪跡) 一ノ曲輪は神社の後ろ
稲荷神社のある所も平らになっていてそこが二ノ曲輪跡です。
神社の案内板には稲荷神社の謂れが分かりやすく紹介されていました。
「神社の祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) の宇迦とは、食べ物を意味し日本人の主食である生の生育をお守りする神です。
“イナリ” とは稲成、稲生が訛ったもので、やはり稲が立派に実る様を云い、これが即ち “稲荷” と云う字があてられたと云われます。
赤鳥居と狐は稲荷様の独特の風景ですが、赤い色は “豊” を象徴する色とされ、鳥居は “通る” と云う言葉に似ている所から、願いが
通ると云う意味があるようです。」
お稲荷さんって商売の神様だと思っていたが元は農業の神様だったのか。知りませんでした。
まして赤い色が豊かで、鳥居が通るとは面白い。これから神社に行ったら必ず鳥居を潜らなければ御利益が貰えないな。
これで稲荷神社が赤い鳥居になったのは理解できたが、一般の神社の鳥居が赤くないのは何故なんでしょうね。
一ノ曲輪跡 土塁跡
神社の裏は一段高くなった広場がありそこが一ノ曲輪跡だった。曲輪の周りが少し高くなっているのが土塁の跡のようです。
ただこの朝日山は単純な単独峰のため、複雑な曲輪の配置や堀も掘る事ができなかったのか単純な縄張だったようです。
城址の案内板もあったのでそれに沿って紹介します。
「朝日山城は潮山の支峰 朝日山(110m)頂上部を中心に増築された山城である。この山裾には土豪の岡部氏の本拠地で
あったので、岡部氏が今川氏の庇護の下、自領を護るため築いたとされている。
このように山頂に築城し、山麓に城主の居館地を伴う場合の城を根古屋式(詰城)と称し中世城郭の典型となっている。
今川氏に関係する城の多くは未完のまま残され、このうち重要な位置(海岸・街道・峠・国境)を占めるものは後に武田・徳川両氏の
手により修復されている。」
案内板にあった根古屋式と云う言葉は初めて聞いた言葉で、しかもそれが詰城との事。一応調べてみました。
「中世後期山城の麓にあった城主の館やその周辺の屋敷地。後に集落の地名となって根古屋などと書かれることもある。
城主が平時は麓に居住し、戦時に山城に詰めるという形は中世後期に全国的に共通していたので、根小屋の用語の使われなかった
地方も含め、このようなタイプの城郭を根小屋式と形容することがある。」
なるほどと思うが、根古屋とは城主の居住地で、根古屋式は山城と麓の居住地の事だと言っている。なら山城はやはり詰城なのだ。
因みに静岡の久能山の麓に根古屋という地名があります。これは久能山に武田信玄が城を築き、麓に居住地を設けたからでしょうね。
城のことは凡そ分かったが城主だった岡部氏の事があまり触れられていないので補足しておきます。
最近訪れた城では岡部氏の名前が時々出てきました。例えば焼津の方ノ上城や藤枝の花倉城。
そして遠州高天神城でも岡部氏の名前がありました。それも重要人物として。
まず方ノ上城と花倉城は今川家の跡目相続で起こった花倉の乱の舞台です。この話は何度も書いているので超簡単にしておきます。
今川義元の父親(氏親)が亡くなり、後を継いだ兄もすぐ亡くなったので、次の跡目に名を挙げたのが弟の義元と氏親の庶子の玄広恵探
の2人だった。氏親の正室など今川家の重臣たちが推した義元が優勢とみた惠探は、突如義元が住む駿府の館を襲うものの義元を
討つ事ができなかった。諦めた惠探は自分の城の花倉に引き上げ詰城の花倉城に籠った。
そのとき義元側だった岡部氏が唯一惠探側だった焼津の方の上城を撃破し、その勢いのまま花倉城も攻め落としてしまった。
間一髪城から逃れて遠州に逃げようとしたものの、惠探は瀬戸川を越えた瀬戸谷にて討ち取られてしまった。
これで名を挙げた岡部氏は今川家の主要な武将として重んじられるようになる。
次に岡部氏の名が出たのは、桶狭間で織田勢に打ち取られた義元の首を駿府に持ち帰った時です。
桶狭間の戦いの当時、岡部氏は尾張における今川の牙城も云える鳴海城の城将となっていたが、義元が桶狭間で信長の奇襲を
受けているときの岡部氏の行動には説は分れていた。
ある説は鳴海城にいた岡部氏の部隊は義元が討ち取られた時は無傷だったのに動かずいたが、この時岡部氏が行動していれば
義元は討取られても、痛手を受けていた織田勢を蹴散らし、信長の首印を挙げることができたはずだと云う。
またある説は、信長は鳴海城の岡部勢からの支援を恐れた信長は、手勢の一部に鳴海城を攻撃させ、岡部勢を城に釘付けに
させとも云われている。
何れにしても桶狭間の戦い後も鳴海城にいた岡部氏は、織田方と交渉して鳴海城と引き換えに義元の首を駿府に持ち帰っていた。
桶狭間の戦いでは鳴海城の近くに大高城と鷲頭城もあり、ここにも今川方の武将徳川家康と朝比奈氏がいた。どちらの城の兵も
無傷だったが打倒信長には動きませんでした。
これは今川方では義元の存在が大きく、義元が討たれた報で足がすくんでしまったのか、織田軍の勢力を過大評価した結果なのか
分かりませんが、この時3人の誰かが動いていれば日本の歴史は変わった事でしょう。
中でも徳川家康はこれを機会に駿府には戻らないで岡崎城に戻ったままで、織田方と手を結んで最後には天下を取るのですから
分からないものです。
今川が衰退し駿河に武田が侵攻してくると、真っ先に駿府を逃げ出したのが今川の当主となった氏真でした。
そのとき岡部氏は氏真には従わず、駿府に残り後始末をしたのち武田に降伏して武田信玄に仕えるようになる。
その後信玄が死去した後は、嗣子の勝頼に仕え、勝頼が遠江高天神城を落とすとその城将に任命された。
そうです。そうして徳川家康の高天神城攻めが行われ、最後に討死覚悟に城を打って出て討死してしまったのです。
長くなったのでこの辺で止めましょう。そんな勇将が多く育った岡部郷ですが、江戸時代になるとその一部は美濃岩村藩の
飛び地になってしまいます。その岩村藩がまた面白く興味が湧く所で一度は訪れてみたいと思っています。
長くなったと言いながらももう少しお付き合いをしてください。
時は戦国時代、美濃で武田と織田が争っていた頃です。岩村城は武田と織田の要衝にあったため、信長は城主に美人の叔母を
妻として娶らせ、一門として遇していました。
城主が後継ぎが無いまま病いで亡くなったため、未亡人となった信長の叔母は実質的に女城主となっていた。
その後信長の実子を後継ぎとして貰ったが、武田方に城を包囲されると敵将からの条件であった、敵将との婚姻を認めて開城し
信長の実子は人質として甲斐へ送ってしまった。
怒った信長は長篠の戦いで勝利すると岩村城に攻め入り、武田方城主を捕らえ逆さ磔の極刑に処してしまう。
更に信長は叔母のや城兵全員までをも処刑している。信長の凄まじい怒りが虐殺という形で現われたのでした。
ネッ! 面白そうでしょう。岩井三四二の「霧の城」を読んで一度は岩村城を訪れてみたくなりました。
これが竪堀? 竪堀の下
竪堀の案内板にはこんな説明が書いてあります。
「空堀跡(竪堀) この堀は朝日山城の中で、最も規模が大きく長いもの(全長約110m)です。山の斜面を通って敵が侵入するのを
妨げるためのものですが、このように山の斜面に竪に掘った堀を竪堀(たてぼり)といいます。」
確かに案内板の建っている先は凹んで抉れた状態になっている。だがそれが人工的に作ったものなのか、自然の地形なのは私には
判断できなかった。イエどちらかと云えば自然の地形ではないかとさえ思ってしまった。
私がこの城の縄張りをするなら、このような斜面を上から下に掘る竪堀よりも、斜面を遮断する堀切の方が効果が有ると思うのだが。
マーそれも素人判断ですが。
朝日山城跡 朝日稲荷神社
朝日山城は上から下への直線的で余り見る所もなく下ってしまったが、これ以外にも遊歩道や堀切もあるようです。
せめて見どころの配置図があればと、田中城址と同じ感想を持ちました。
歩行時間:5時間50分 休憩時間:1時間20分 延時間:7時間10分
出発時刻:6時30分 到着時刻:13時40分
歩 数: 29、058歩(推定距離20.05km) GPS距離km
行程表
西焼津駅 0:20> 田中城下屋敷 0:20> 田中城本丸跡 0:50> 青山八幡宮 0:30> 潮山登山口 0:25> 潮山 0:40>
朝日山城趾 0:30> 新東名岡部IC 1:20> 龍勢発射場 0:05> 玉露の里 0:20> 朝比奈城趾 0:30>
玉露の里BS
潮山遠景(十輪寺高台から)
潮山を東にある三輪の十輪寺の高台から写した写真です。
バイパスのトンネルの横から潮山に登り、稜線や中腹を北(右)に向かって朝日山城に行きました。
朝日山城跡の曲輪(推定) 現地案内板
朝日山城の現地案内板に3枚の絵が出ていたので紹介します。
例により山城の復元図は “白髪三千丈”で、恰好は素晴らしいが現実的ではありません。
勿論朝日山城も復元図のような断崖絶壁ではないが、一応山の上の3段くらいの断層の上に一ノ曲輪跡はありました。
朝日山城とその周辺(推定) 現地案内板
朝日山城と周辺を描いたものですが残念ながらこの図も推定と書いてありました。
この図が昔の図なら色々判明するのですが惜しい事です。
特に潮城が湖?池?の畔に書かれているのは、この作者は潮城は朝日山城の出城だったと判断しているからでしょう。
それと気になったのは朝日山城があった山が “牛伏山” となっている事です。朝日山にあるから朝日山城と思っていたが
実際は牛伏山だったのですね。
山西勝地真景 現地案内板
3枚目は推定ではなく文化11年(1814)に朝日山から見た山西地方を書いたものです。
山西地方とは今川時代に駿府から見て山(大崩山塊)の西の地域、即ち志太地域を指した言葉です。
早速気になる山の名前を見てみると、今の虚空蔵山が遠目山となっています。これはこの地域の地名は今でこそ 当目” ですが、
昔は “遠くが見える” ことから “遠目”と書いていたようです。
遠目山から尾根を左に行くと今度は “小〇山” とあるが、丸の部分が判読できません。サンズイが分かるので若しかしたら
“小浜山” かもしれません。場所は多分簡保の尾根の道了権現のピーク辺りだと思います。
次の花沢山は今も昔も花沢山のようです。その次に日本坂峠や満観峰が書いてあれば嬉しかったのですが残念ながらありません。
次は “高〇伏” で多分高草山の事でしょう。高草山は近代になって名付けた山と思ったのですが、この地の古文書には高草山の
山頂部は草地になっていて、その伐採の権利を巡って度々縄張争いが起きていたようです。
その裁定願が何通も残っていますが、山の名前は “高草山” になっているそうです。
こんな風に昔の名称が書かれていると何でもないような絵でも興味が湧いてきます。他の城址でもやって欲しい事です。
城址の入口 稲荷神社の鳥居(三ノ曲輪跡)
前置きはさておき、潮山からの農道はこの鎖で遮断された道に通じています。
左の小径は遊歩道となっていたが入っても何もありません。正面の太い道は後になって作られた運搬用の道です。
右の小径を行くと朝日山城の見所とされる竪堀を上から見る事ができます。とは言え凹んだ場所に木が生えているだけで
堀? 自然の地形? と言った感じで素人の私には区別がつきません。
麓の大手口からの道に合流して階段を登った鳥居が三ノ曲輪跡だそうです。横には四阿がありそこに最初に紹介した案内が
展示されています。
朝日稲荷神社(二ノ曲輪跡) 一ノ曲輪は神社の後ろ
稲荷神社のある所も平らになっていてそこが二ノ曲輪跡です。
神社の案内板には稲荷神社の謂れが分かりやすく紹介されていました。
「神社の祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) の宇迦とは、食べ物を意味し日本人の主食である生の生育をお守りする神です。
“イナリ” とは稲成、稲生が訛ったもので、やはり稲が立派に実る様を云い、これが即ち “稲荷” と云う字があてられたと云われます。
赤鳥居と狐は稲荷様の独特の風景ですが、赤い色は “豊” を象徴する色とされ、鳥居は “通る” と云う言葉に似ている所から、願いが
通ると云う意味があるようです。」
お稲荷さんって商売の神様だと思っていたが元は農業の神様だったのか。知りませんでした。
まして赤い色が豊かで、鳥居が通るとは面白い。これから神社に行ったら必ず鳥居を潜らなければ御利益が貰えないな。
これで稲荷神社が赤い鳥居になったのは理解できたが、一般の神社の鳥居が赤くないのは何故なんでしょうね。
一ノ曲輪跡 土塁跡
神社の裏は一段高くなった広場がありそこが一ノ曲輪跡だった。曲輪の周りが少し高くなっているのが土塁の跡のようです。
ただこの朝日山は単純な単独峰のため、複雑な曲輪の配置や堀も掘る事ができなかったのか単純な縄張だったようです。
城址の案内板もあったのでそれに沿って紹介します。
「朝日山城は潮山の支峰 朝日山(110m)頂上部を中心に増築された山城である。この山裾には土豪の岡部氏の本拠地で
あったので、岡部氏が今川氏の庇護の下、自領を護るため築いたとされている。
このように山頂に築城し、山麓に城主の居館地を伴う場合の城を根古屋式(詰城)と称し中世城郭の典型となっている。
今川氏に関係する城の多くは未完のまま残され、このうち重要な位置(海岸・街道・峠・国境)を占めるものは後に武田・徳川両氏の
手により修復されている。」
案内板にあった根古屋式と云う言葉は初めて聞いた言葉で、しかもそれが詰城との事。一応調べてみました。
「中世後期山城の麓にあった城主の館やその周辺の屋敷地。後に集落の地名となって根古屋などと書かれることもある。
城主が平時は麓に居住し、戦時に山城に詰めるという形は中世後期に全国的に共通していたので、根小屋の用語の使われなかった
地方も含め、このようなタイプの城郭を根小屋式と形容することがある。」
なるほどと思うが、根古屋とは城主の居住地で、根古屋式は山城と麓の居住地の事だと言っている。なら山城はやはり詰城なのだ。
因みに静岡の久能山の麓に根古屋という地名があります。これは久能山に武田信玄が城を築き、麓に居住地を設けたからでしょうね。
城のことは凡そ分かったが城主だった岡部氏の事があまり触れられていないので補足しておきます。
最近訪れた城では岡部氏の名前が時々出てきました。例えば焼津の方ノ上城や藤枝の花倉城。
そして遠州高天神城でも岡部氏の名前がありました。それも重要人物として。
まず方ノ上城と花倉城は今川家の跡目相続で起こった花倉の乱の舞台です。この話は何度も書いているので超簡単にしておきます。
今川義元の父親(氏親)が亡くなり、後を継いだ兄もすぐ亡くなったので、次の跡目に名を挙げたのが弟の義元と氏親の庶子の玄広恵探
の2人だった。氏親の正室など今川家の重臣たちが推した義元が優勢とみた惠探は、突如義元が住む駿府の館を襲うものの義元を
討つ事ができなかった。諦めた惠探は自分の城の花倉に引き上げ詰城の花倉城に籠った。
そのとき義元側だった岡部氏が唯一惠探側だった焼津の方の上城を撃破し、その勢いのまま花倉城も攻め落としてしまった。
間一髪城から逃れて遠州に逃げようとしたものの、惠探は瀬戸川を越えた瀬戸谷にて討ち取られてしまった。
これで名を挙げた岡部氏は今川家の主要な武将として重んじられるようになる。
次に岡部氏の名が出たのは、桶狭間で織田勢に打ち取られた義元の首を駿府に持ち帰った時です。
桶狭間の戦いの当時、岡部氏は尾張における今川の牙城も云える鳴海城の城将となっていたが、義元が桶狭間で信長の奇襲を
受けているときの岡部氏の行動には説は分れていた。
ある説は鳴海城にいた岡部氏の部隊は義元が討ち取られた時は無傷だったのに動かずいたが、この時岡部氏が行動していれば
義元は討取られても、痛手を受けていた織田勢を蹴散らし、信長の首印を挙げることができたはずだと云う。
またある説は、信長は鳴海城の岡部勢からの支援を恐れた信長は、手勢の一部に鳴海城を攻撃させ、岡部勢を城に釘付けに
させとも云われている。
何れにしても桶狭間の戦い後も鳴海城にいた岡部氏は、織田方と交渉して鳴海城と引き換えに義元の首を駿府に持ち帰っていた。
桶狭間の戦いでは鳴海城の近くに大高城と鷲頭城もあり、ここにも今川方の武将徳川家康と朝比奈氏がいた。どちらの城の兵も
無傷だったが打倒信長には動きませんでした。
これは今川方では義元の存在が大きく、義元が討たれた報で足がすくんでしまったのか、織田軍の勢力を過大評価した結果なのか
分かりませんが、この時3人の誰かが動いていれば日本の歴史は変わった事でしょう。
中でも徳川家康はこれを機会に駿府には戻らないで岡崎城に戻ったままで、織田方と手を結んで最後には天下を取るのですから
分からないものです。
今川が衰退し駿河に武田が侵攻してくると、真っ先に駿府を逃げ出したのが今川の当主となった氏真でした。
そのとき岡部氏は氏真には従わず、駿府に残り後始末をしたのち武田に降伏して武田信玄に仕えるようになる。
その後信玄が死去した後は、嗣子の勝頼に仕え、勝頼が遠江高天神城を落とすとその城将に任命された。
そうです。そうして徳川家康の高天神城攻めが行われ、最後に討死覚悟に城を打って出て討死してしまったのです。
長くなったのでこの辺で止めましょう。そんな勇将が多く育った岡部郷ですが、江戸時代になるとその一部は美濃岩村藩の
飛び地になってしまいます。その岩村藩がまた面白く興味が湧く所で一度は訪れてみたいと思っています。
長くなったと言いながらももう少しお付き合いをしてください。
時は戦国時代、美濃で武田と織田が争っていた頃です。岩村城は武田と織田の要衝にあったため、信長は城主に美人の叔母を
妻として娶らせ、一門として遇していました。
城主が後継ぎが無いまま病いで亡くなったため、未亡人となった信長の叔母は実質的に女城主となっていた。
その後信長の実子を後継ぎとして貰ったが、武田方に城を包囲されると敵将からの条件であった、敵将との婚姻を認めて開城し
信長の実子は人質として甲斐へ送ってしまった。
怒った信長は長篠の戦いで勝利すると岩村城に攻め入り、武田方城主を捕らえ逆さ磔の極刑に処してしまう。
更に信長は叔母のや城兵全員までをも処刑している。信長の凄まじい怒りが虐殺という形で現われたのでした。
ネッ! 面白そうでしょう。岩井三四二の「霧の城」を読んで一度は岩村城を訪れてみたくなりました。
これが竪堀? 竪堀の下
竪堀の案内板にはこんな説明が書いてあります。
「空堀跡(竪堀) この堀は朝日山城の中で、最も規模が大きく長いもの(全長約110m)です。山の斜面を通って敵が侵入するのを
妨げるためのものですが、このように山の斜面に竪に掘った堀を竪堀(たてぼり)といいます。」
確かに案内板の建っている先は凹んで抉れた状態になっている。だがそれが人工的に作ったものなのか、自然の地形なのは私には
判断できなかった。イエどちらかと云えば自然の地形ではないかとさえ思ってしまった。
私がこの城の縄張りをするなら、このような斜面を上から下に掘る竪堀よりも、斜面を遮断する堀切の方が効果が有ると思うのだが。
マーそれも素人判断ですが。
朝日山城跡 朝日稲荷神社
朝日山城は上から下への直線的で余り見る所もなく下ってしまったが、これ以外にも遊歩道や堀切もあるようです。
せめて見どころの配置図があればと、田中城址と同じ感想を持ちました。