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Channel: はぐれ遍路のひとりごと
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城ロマン:藤枝3城廻り(田中城趾)

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歩行記録                                                       H30-3-25(日)
歩行時間:5時間45分   休憩時間:1時間25分   延時間:7時間10分
出発時刻:6時30分     到着時刻:13時40分
歩  数: 29、058歩(推定距離20.05km)    GPS距離km
行程表
 西焼津駅 0:20> 田中城下屋敷 0:20> 田中城本丸跡 0:50> 青山八幡宮 0:30> 潮山登山口 0:20> 潮山 0:40>
 朝日山城趾 0:30> 新東名岡部IC 1:20> 龍勢発射場 0:05> 玉露の里 0:20> 朝比奈城趾 0:30>
 玉露の里BS
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                              藤枝3城概略図

  久し振りの城址廻りは地元藤枝の城跡を訪ねてきました。
藤枝市内の城址には今回の田中城、朝日山城、朝比奈城の他に今川の跡目相続で落城した葉梨城もあるが
一度に回るのは私にはきつ過ぎるので今回は3城址廻りにしました。

その内の田中城趾は過去何度も歩いていて概要は知っていますが、余り私の興味が湧く遺構は残っていません。
しかも住宅地の中の平城ですのでウォーキングや低山歩きの楽しみもなく、ただ回るだけとなりそうです。

一方、朝日山城と朝比奈城はまだ一度も歩いたこともなく、しかも山城ですので興味津々です。
朝日山城のある潮山は志太地区では目立つ山ですので、見るたびに行かなければと思うのですが、超低山で歩く人の
少ない道は虫や蜘蛛の巣に覆われていると思うと中々行く気になりませんでした。
朝比奈城も超低山ですが、こちらは藤枝市のハイキングコースに認定されていて、その全コース紹介しようと思っている
私としては必ず歩かなければならないコースです。なので今回の城址廻りは丁度良い機会になりました。

  因みに藤枝市のハイキングコースの紹介は、全20コースの内の17コースは紹介済みです。
このハイキングコースに興味がある方は一度覗いてみてください。
利用は方法は 本ブログの 「カテゴリー」 欄の 「メニュー」 を開き、 「藤枝市認定ハイキングコース」 開いてください。

 
              西焼津駅                                    潮 山

  山が近くに無い西焼津駅に下車したのは今回が初めてです。これで静岡から浜松の間の駅でウォーキングや低山歩きで
乗り降りした事のない駅は天竜川駅だけになりました。

  前方にはこれから行く潮山が見えています。潮山の山頂には無線のアンテナがあるので、山頂部分だけ樹木を伐採して
あって、歯抜けのような形ですのですぐ見分けがつきます。
今回初めて登る潮山ですが、多分アンテナの保守用の道がしっかり付いているのではないかと思っています。

 
                田中城下屋敷                               六間川

  田中城の下屋敷前に来たが冠木門はしっかり閉じられています。それもその筈で時間はまだ7時前でした。
潔く下屋敷は諦めて次に向かいます。しかし次と云っても順路が表示されているわけではないので適当に歩くしかありません。
9時を過ぎて下屋敷が開門していれば、案内図が載っているパンフレットを貰えるようですが仕方ありません。

  下屋敷の北に流れている六間川は、水源を国道1号線の藤枝警察署横の青池に取り、瀬戸川と朝比奈川が合流する地点まで
幅6間の運河を開通させ堀と水運に利用したようです。

          
                    田中城の様子(藤枝市郷土博物館『田中城絵図』より)

  ここで少し田中城の来歴の説明をしておきます。
田中城は瀬戸川に沿った微高地上に築城されており、四重の堀に囲まれ、「亀城」「亀甲城」 とも呼ばれる直径約600mの
円形の縄張りは全国的にも類例がないそうです。
上の図を見れば亀城などの名前の意味は一目で分かりますが縄張以外にも田中城には高い建物が無く、低い城郭だった
ことから亀の甲羅のようだと亀城と呼ぶようになったと聞いた事もあります。
更にこの地域は微高地以外は湿地帯が多く、四重の堀に加え湿地帯が亀(城)を守ってくれたのでしょう。

  城は今川氏の命を受けた土地の土豪が築城したのが初めで、その後今川義元が桶狭間で敗れて今川家が衰退すると
駿河に手を伸ばしてきたのが甲斐の武田信玄です。
信玄は義元が討死し勢いを失った駿河の田中城や持舟城、丸子城、花沢城など駿河の城を次々と攻略してしまいます。
田中城は武田方が攻略後大幅に手を加えたのも東海道の要所にある事や防御に適していたからではないでしょうか。
だが一時は駿河で勢力をふるった武田勢も、信玄が病没し長篠の戦いで敗れるとその勢いを失っていきます。
遠州高天神城が家康に攻撃されても既に援軍を送る力を失った武田は、打つ手も無く高天神を見殺しにしてしまった。
これで完全に武田は駿河での力を失い、各城で敗北を繰返して甲斐に去って行きました。

  武田が去った後も徳川も田中城を重要地点と捉え、田中藩を設置して明治になるまで存続させました。
そんな田中城ですが日本史に残る事件も発生しています。
元和2年(1616)徳川家康は田中城に立ち寄った際、焼津で獲れた鯛の天ぷらを食べて死んだとされています。
そのため江戸城内ではテンプラ料理は禁止された等の話もあるようですが、家康が死亡したのは1月の夕食に食べて、
死去したのは4月だったことから食中毒ではなく胃癌が死因だったという説もあるようです。
地元の住民としてはテンプラ死亡説の方が面白いのですがね。

    
               小学校の田中城模型                           小学校の田中城模型

  田中城の本丸跡は現在は藤枝市立西益津小学校になっています。その校庭の中には田中城の模型が設置されているので
関係者ではないですが清々と開いた校門を入り写真を写させてもらいました。
堀を幾重にも廻らわせた中に天守閣が建っています。オッとこれでは田中城には高い建物が無かったことで亀城と呼んで
いた根拠が無くなってしまいます。
どちらが正しいのか調べてみると、ウイキペディアにこんなことが紹介されていました。
  「田中城には天守閣は無く、2層2階の物見櫓が建っていたが、明治時代に払い下げ移築して住居として利用されいたが、
寄贈され、史跡田中城下屋敷の整備にあわせ移築された。」
へーそうなると最初に見た下屋敷の建物が天守閣代わりの物見櫓だったのか。初めて知りました。

    
               三日月堀標識                               三日月堀

  武田流築城術の特徴というか代名詞の丸馬出と三日月堀の跡もありますが、素人の私には余り魅力を感じられません。

    
               大手二の丸跡                               三日月堀

  大手二の門跡の案内はあるがこちらも面白味を感じません。ここには堀の一部や復元された橋もあるのですがね。

 
               家老屋敷跡                                土 塁

  住宅地の中に遺跡が残っている場所も、たんなる空地や土手としか見えません。
どうやら私が好きなのは山城であって平城は理解の範囲外のようです。
その山城も歩く事が主であって、遺跡はあくまでも従の関係ですが。

    
             青山八幡宮と潮山                        須賀神社の大クスノキ                           
  そんな田中城址にはサッサと別れて次の潮山に向かいます。
道は適当に北の方角に見える潮山を目指すのですが、潮山に近づくにつれ手前の山が大きくなってきます。
この低い山は旧国道1号の所ある八幡神社だろうと見当をつけて先ずはそこに行ってみる事にします。

  旧東海道に合流し 「史跡 鐙ヶ淵」 に寄ります。
ここには何が有るというわけではないが、十返舎一九の東海道中膝栗毛のなかで
 「ここもとは鞍の鐙が淵なれば」 と詠んだことで知られています。
鐙ヶ淵とは東に流れていた葉梨川が、ここで90度近く向きを北に変えているため、その恰好が馬に乗るときの鐙に似ている
事から付いたのでしょう。
この様に川が急に向きを変えれば当然大水の時は氾濫したので、この辺りの地名は 「水守」 です。
少ない貴重の水をお守りした 水守 に対し、ここでは川から水が出ないように水を守ったなんて説は強引すぎますかね。

  淵から東海道を少し行くと須賀神社の大クスノキがある。推定樹齢500年とかで中々立派です。

  
        東海道脇の鳥居                    葉梨川                  青山八幡宮の鳥居

  須賀神社の先に鳥居が立っているが神社は見えない。ただ鳥居の先には八幡宮がある山が見えていますが、ここから
200mはあるでしょうか。途中には葉梨川があり旧国道1号も走っています。
東海道から離れているのに直線で参道をこしらえるほど由緒のある神社なのか、鳥居横の縁起書を読んでみました。

 
               青山八幡宮拝殿                               青山八幡宮本殿

  「源頼義、義家親子が奥羽征討祈願のため勧請した社で、源氏が五里毎に八幡の社を建てた五里八幡の一社という。
創立当時の神領千石との口碑があるが定かではない。豊臣秀吉公は百七十石五斗の神領を寄せ、徳川幕府も亦これにならった。
武門の守護神として田中城主の崇敬篤く、神器具その他が寄進された。」
  まず驚いたのが創建当時の神領が千石もあったとの事。のちの江戸時代でも1万石で小大名で千石でも高級旗本とか、
それが鎌倉時代ならもっと価値があっただろう。マ~ “口碑だけで定かではない” と断ってあるのでいいでしょう。

次に気になったのは今回初めて聞く 「五里八幡」 と言う言葉。鎌倉時代に一里塚のような物があったのかと調べてみると
 「源頼義が勅を奉じ、奥州の安倍一族平定の時、通行する街道筋に鎌倉の鶴岡八幡宮を起点として五里毎に石清水八幡宮を
勧請したことによる。」 とか 「鎌倉鶴岡八幡宮を起点として陸奥に向かって五里ごとに八幡を創建した。」 等が出てきた。
いずれも鎌倉を起点として陸奥に向かって八幡宮を建ててとなっていて、逆の京に向っての記述は出てこない。

疑っては悪いが本当の話なのでしょうか、今後八幡宮に寄った時は縁起書で “五里八幡” を注意したいと思います。
それは兎角、青山八幡宮は武家の信仰が厚く田中城の城主も度々参詣しているようだが、この山に登って辺りを見渡せば
田中城の物見櫓から見張るより、ここのが東・西・南が一望できることは一目瞭然な事です。
ならばここに見張台を設け、城と手旗信号なり狼煙などで連絡を取りあえるようにしなかったのでしょうか?
 (ネットに八幡山砦なる記事も載っているが真偽のほどは分かりません。)

  神社の裏は今は急な斜面で下にある小道に下っているが、少し前までは潮山からの山脈に繋がっていたという。
新幹線か東名高速の盛土に使うため掘削をしたと何かで読んだ記憶があったので、今回探したが分からなかった。
それでも若しかして道が残っているかと思い、神社裏に立ち入ってみたが踏み跡らしき物すら無かった。

            
                ウラシマソウ                       ウラシマソウの葉

  マムシグサが咲いていると何気なく下なく見ると、アレ~釣り糸がある。
慌ててしゃがみ込んで確認すると、苞の中から黒い蔓が延びている。2年ぶりのウラシマソウとの再会です。
同種のマムシグサはどの山に行っても目にするが、ウラシマソウは花沢山で一度見ただけです。
今後は葉を見ただけで判別できるように写真を写しておきました。

  青山八幡宮では思わぬ拾い物を幾つかした。これだから観歩は楽しい。

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