歩行記録 H29-11-15(水)
歩行時間:7時間25分 休憩時間:1時間20分 延時間:8時間45分
出発時刻:7時50分 到着時刻:16時35分
歩 数: 歩(推定距離km) GPS距離18.7km
行程表
関方BS 0:40> 方の上城跡 1:30> 石脇登山口 0:15> 石脇城跡 0:45> 花沢城跡 1:40> 満観峰 1:00>
小坂堂 1:10> 持宗城跡 0:25> 用宗駅
十月の天候不順と体調不良でグズグズしている間に紅葉の十一月に入りました。
妻との久し振りのドライブ旅行も無事終わり、それでは安倍奥へ紅葉でも見に行こうかと思っていたら、何と今度は高校生の孫が
クラブ活動で足を骨折してしまいました。バスの便も悪く自転車通学をしていたので通学の足が必要になります。
そうなれば一番暇を持て余している私にその役が回ってくるのは仕方ありません。
気持よく引き受けたものの土日もクラブ活動を見学したいという事で休みの無い毎日になってしまいました。
そんな中、一日朝の送りを休ませてもらい歩きに出かける事ができました。
大崩山塊四城址(方の上・石脇・花沢・持宗)概略図
東遠の山城跡を廻った歩きが結構楽しく、他にも無いかと考えれば、すぐ思いつくのは大崩山塊の山城です。
南の山域には石脇、花沢、方の上、持宗の四城跡に、北の山域には丸子城跡もあります。
コースは方の上・石脇・花沢と歩いて満観峰に登り、そこから北に向きを変えて舟川に下ります。
そして丸子城址を見学したら芹が谷峠を越えて小坂集落へ下り、今度は赤坂峠を越えて海岸沿いを持宗城址に向かいます。
東遠の山城と違い低いながらも山越えを2回しなければならず、今の私には結構きつそうなコースですが何とかなるでしょう。
高草山関方登山口(関方バス停) 方の上城址登山口
最近ではすっかり恒例となってしまった登山口までのバス利用。今回も方の上(かたのかみ)城跡への他山口がある関方まで
バスを利用してしまいました。
バスを降りると石碑に 「高草山登山道 山の手口」 とあり、ここは潮見平経由で富士見峠から高草山に登る通称関方口の入口です。
他にもイラスト風地図や関方地区で行われる “山の神祭り” の案内板もあり、ついつい時間を取られてしまいました。
その案内板の近くには 「方の上城址登山口(狼煙台・幻の池)」 の標識もあり迷う事はありません。
石合山(方の上城址) 分 岐
登山道入口から北東に見える三角の山が、これから向かう方の上城址のある石合山です。この山の名前は先程のイラスト地図に
「いしやばい」 と書かれていたが “やばい” とは何の意味があるのでしょう。考えても分かりません。
登山口を入り最初の分岐に 「⇦方の上城址 狼煙台⇨」 の標識がある。最初これを見た時は城址と狼煙台は同じ場所にあるのに
何故行き先が違うのか理解できなかったが、多分ハイキングなら右の狼煙台に向かい、車なら左の城址に向かうのだろうと勝手に
解釈する事にしました。で、今回はハイキングですの右の狼煙台方向に向かいます。
猪の罠 山道入口
民家の場所から左程離れていない場所に猪の罠が仕掛けてありました。以前の罠は入口が片方向だったが、今の罠はどちらでも
猪が入る様に両方が開いて、檻の中には猪が好きだという薩摩芋の上に小糠を撒いてあるようです。
分岐から農道を10分も歩くと右に今度は 「方の上城址 狼煙台⇨」 と同一方向を指した標識が建っていて、ここからが山道の
始まりです。
網のフェンスがある道 林の中に入る
道は最草刈りをしてくれたのか歩きやく道の横には網のフェンスもあり至れり尽くせりです。
でも登山道のためのフェンスなのか、この先にあるミカン畑のフェンスなのだろうか? マーどちらにしてご丁寧な事です。
そのフェンスが終ると道は林の中に入りミカン畑の横に出る。
ミカン畑からの景色 古 墳
ミカン畑に出ると右に虚空蔵山や簡保の宿が見えたが霞んでいてはっきりは見えない。
道はミカン畑の横のモノラックのレールに沿って登り、終点の手前でまた林の中に入る。林の入口には標識もあり迷う事はありません。
林の中に入ると 「古墳」 と 「狼煙台」 の標識がある穴があり “一体どっちなのだ” と言いたくなります。
仕方ないので昔、古墳だった所を戦国時代に狼煙台にしたのだと思う事にしました。
石合山 狼煙台(穴)
古墳を過ぎて林を抜けるとそこが狼煙台で、自然石が組合っていて “石合山” の名前が納得できる場所です。
狼煙はどうやらこの組合っている石の穴辺りで揚げたようで、確かにここなら火も燃えやすそうだ。だが狼煙は煙が命なので余り
燃えすぎても良くないだろうから。水を掛けていぶらしたのだろうか。
それにしてもここの狼煙は何処に連絡していたのだろう。これから行く農道にある方の上城址の案内板には
「南北朝の初期に安部城主の狩野貞長によって築城されたと伝えられている。
明応2年に今川氏親により改修され、今川の遠州方面進出の連絡拠点として監視や警備を行っていた。」ある。
今は植林された木々で清々景色は見えないが、当時は当然邪魔な樹木は伐採してあったので西の遠州方面はよく見えただろう。
案内板では触れてないがこの方の上城が歴史の一端に登場した事がある。
「今川氏親の後を継いだ氏輝が急死すると今川家では跡目相続が起こった。嫡流の義元と腹違いの兄・玄広恵探による花倉の乱で
ある。駿府の義元の住む今川館を急襲した惠探だったが襲撃が失敗すると、方ノ上城と花倉城を拠点として抵抗したが、方の上城が
岡部の岡部氏の攻撃によって落城してしまう。勢いを得た義元側は惠探のいる花倉城も落とし惠探を自刃させ義元が今川当主となる。」
こうしてみるとこの狼煙台で狼煙を挙げたのは岡部氏に攻撃された時と、落城する時に花倉城に向けて揚げた時ぐらいで、本来の
目的であった遠州方面の監視でなく、跡目相続による近隣の岡部から攻撃だった。これには方の上城を整備した氏親もさぞ残念だろう。
確かに花倉城址からはこの方面は良く見えるので、花倉城では方の上城が落城した事は狼煙が挙がれば分っただろう。
尤も狼煙で方の上城の落城を知った花倉城の城兵は、必死の覚悟を持つのではなく、諦めてしまい花倉城も簡単に落城してしまった。
石合山山頂 経 塚
狼煙台の少し上に 「方の上城址・石合山頂上(標高230m)」 の標識が立っているが、平坦部は狭く城はおろか精々物見台の櫓が
建つぐらいの広さしかない。これで本当に山城があったのか疑問を生じてしまう。
ここに来る途中には山城に付き物の掘割らしき跡も無く、素直に考えれば農道の開始点辺りの平坦地に武将の館があり、石合山は
物見櫓と狼煙台があっただけではないか。なんて想像してしまう。
山頂には 「経塚」 の標識もあり石で囲んだ所がある。これが経塚跡? どちらかと言えば植物を植えて保護のため石で囲んだ
ようにも見える。ここに物見櫓を建てるにしても石は邪魔になったろうしな・・・・・ いやいやそうではない、この経塚は方ノ上城が
落城してから、その時の戦死者を悼んで造ったと思えば辻褄があいそうだ。
後ろに見える脚立はここで毎年11月3日年に狼煙を揚げるそうなので、その時のためのものだろう。
その狼煙が果たして花倉城址から確認できるかどうか一度確認してみたい気もします。
山頂から焼津方面 山頂から花倉城址方面
今日は空が霞んでいて景色は諦めるしかないが、山頂からの眺めは樹木さえ無ければ南東から北西の180度見る事ができる。
城を建てるのはともかく、遠州方面の物見台としての役目は十分果たせただろう。
掘 割 掘 割
山頂から北東に延びる細尾根を行くと少し凹んだ場所がある。そこには 「掘割」 の標識がある。
自然の地形なのか人工の凹みなのか私には判断しにくいが、標識があるのだから掘割なのだろう。
そうなると敵の攻撃は今登ってきた下からではなく、上からの攻撃を想定したのだろうか。分からない。
幻の池 作業小屋横の入口
標識に従い尾根を外れ少し下に行くと平坦地になる。今は植林された林の中だが館を建てる広さは十分にある。
勝手に想像するなら、物見役の城兵が寝泊まりしていた建物か、麓にあった館に敵が攻めてきたら重役が逃げ込む詰城的建物が
有ったとも想像できる。
その場所にある水溜りに 「幻の池」 の標識が建っている。ここが方の上城の井戸跡なのかもしれないな。
農道先の入口 農道にある案内板 案内板の場所
他山口にあったイラスト風マップには、方の上城址の入口付近から高草山山頂に向けてハイキングコースが書かれていたので、
以前農道終点の標識の所の踏み跡から北に向かって登った事がある。しかしすぐ放置茶畑に遭遇し前に進めなくなってしまった。
この方の上城址を見た後、直接高草山に登るコースがあれば、利用者はあると思うのだが、城址を整備してくれている地元の
「山の手未来の会」 で再整備してくれないだろうか。
そうそうこの山の手未来の会が建ててくれた城の案内板には石合山に 「いしあいやま」 とルビが振ってあった。一方登山口の
イラストマップには 「いしやばい」 とあった。地元ではどちらが名前を使っているのだう。
疑問の多い方の上城址だが、それだけ空想も広がり楽しく観歩できます。是非一度歩いてみてください。
(春の夜の夢より)
ネットに方の上城址の鳥観図があったので無断コピーをしました。ご免なさい。
歩行時間:7時間25分 休憩時間:1時間20分 延時間:8時間45分
出発時刻:7時50分 到着時刻:16時35分
歩 数: 歩(推定距離km) GPS距離18.7km
行程表
関方BS 0:40> 方の上城跡 1:30> 石脇登山口 0:15> 石脇城跡 0:45> 花沢城跡 1:40> 満観峰 1:00>
小坂堂 1:10> 持宗城跡 0:25> 用宗駅
十月の天候不順と体調不良でグズグズしている間に紅葉の十一月に入りました。
妻との久し振りのドライブ旅行も無事終わり、それでは安倍奥へ紅葉でも見に行こうかと思っていたら、何と今度は高校生の孫が
クラブ活動で足を骨折してしまいました。バスの便も悪く自転車通学をしていたので通学の足が必要になります。
そうなれば一番暇を持て余している私にその役が回ってくるのは仕方ありません。
気持よく引き受けたものの土日もクラブ活動を見学したいという事で休みの無い毎日になってしまいました。
そんな中、一日朝の送りを休ませてもらい歩きに出かける事ができました。
大崩山塊四城址(方の上・石脇・花沢・持宗)概略図
東遠の山城跡を廻った歩きが結構楽しく、他にも無いかと考えれば、すぐ思いつくのは大崩山塊の山城です。
南の山域には石脇、花沢、方の上、持宗の四城跡に、北の山域には丸子城跡もあります。
コースは方の上・石脇・花沢と歩いて満観峰に登り、そこから北に向きを変えて舟川に下ります。
そして丸子城址を見学したら芹が谷峠を越えて小坂集落へ下り、今度は赤坂峠を越えて海岸沿いを持宗城址に向かいます。
東遠の山城と違い低いながらも山越えを2回しなければならず、今の私には結構きつそうなコースですが何とかなるでしょう。
高草山関方登山口(関方バス停) 方の上城址登山口
最近ではすっかり恒例となってしまった登山口までのバス利用。今回も方の上(かたのかみ)城跡への他山口がある関方まで
バスを利用してしまいました。
バスを降りると石碑に 「高草山登山道 山の手口」 とあり、ここは潮見平経由で富士見峠から高草山に登る通称関方口の入口です。
他にもイラスト風地図や関方地区で行われる “山の神祭り” の案内板もあり、ついつい時間を取られてしまいました。
その案内板の近くには 「方の上城址登山口(狼煙台・幻の池)」 の標識もあり迷う事はありません。
石合山(方の上城址) 分 岐
登山道入口から北東に見える三角の山が、これから向かう方の上城址のある石合山です。この山の名前は先程のイラスト地図に
「いしやばい」 と書かれていたが “やばい” とは何の意味があるのでしょう。考えても分かりません。
登山口を入り最初の分岐に 「⇦方の上城址 狼煙台⇨」 の標識がある。最初これを見た時は城址と狼煙台は同じ場所にあるのに
何故行き先が違うのか理解できなかったが、多分ハイキングなら右の狼煙台に向かい、車なら左の城址に向かうのだろうと勝手に
解釈する事にしました。で、今回はハイキングですの右の狼煙台方向に向かいます。
猪の罠 山道入口
民家の場所から左程離れていない場所に猪の罠が仕掛けてありました。以前の罠は入口が片方向だったが、今の罠はどちらでも
猪が入る様に両方が開いて、檻の中には猪が好きだという薩摩芋の上に小糠を撒いてあるようです。
分岐から農道を10分も歩くと右に今度は 「方の上城址 狼煙台⇨」 と同一方向を指した標識が建っていて、ここからが山道の
始まりです。
網のフェンスがある道 林の中に入る
道は最草刈りをしてくれたのか歩きやく道の横には網のフェンスもあり至れり尽くせりです。
でも登山道のためのフェンスなのか、この先にあるミカン畑のフェンスなのだろうか? マーどちらにしてご丁寧な事です。
そのフェンスが終ると道は林の中に入りミカン畑の横に出る。
ミカン畑からの景色 古 墳
ミカン畑に出ると右に虚空蔵山や簡保の宿が見えたが霞んでいてはっきりは見えない。
道はミカン畑の横のモノラックのレールに沿って登り、終点の手前でまた林の中に入る。林の入口には標識もあり迷う事はありません。
林の中に入ると 「古墳」 と 「狼煙台」 の標識がある穴があり “一体どっちなのだ” と言いたくなります。
仕方ないので昔、古墳だった所を戦国時代に狼煙台にしたのだと思う事にしました。
石合山 狼煙台(穴)
古墳を過ぎて林を抜けるとそこが狼煙台で、自然石が組合っていて “石合山” の名前が納得できる場所です。
狼煙はどうやらこの組合っている石の穴辺りで揚げたようで、確かにここなら火も燃えやすそうだ。だが狼煙は煙が命なので余り
燃えすぎても良くないだろうから。水を掛けていぶらしたのだろうか。
それにしてもここの狼煙は何処に連絡していたのだろう。これから行く農道にある方の上城址の案内板には
「南北朝の初期に安部城主の狩野貞長によって築城されたと伝えられている。
明応2年に今川氏親により改修され、今川の遠州方面進出の連絡拠点として監視や警備を行っていた。」ある。
今は植林された木々で清々景色は見えないが、当時は当然邪魔な樹木は伐採してあったので西の遠州方面はよく見えただろう。
案内板では触れてないがこの方の上城が歴史の一端に登場した事がある。
「今川氏親の後を継いだ氏輝が急死すると今川家では跡目相続が起こった。嫡流の義元と腹違いの兄・玄広恵探による花倉の乱で
ある。駿府の義元の住む今川館を急襲した惠探だったが襲撃が失敗すると、方ノ上城と花倉城を拠点として抵抗したが、方の上城が
岡部の岡部氏の攻撃によって落城してしまう。勢いを得た義元側は惠探のいる花倉城も落とし惠探を自刃させ義元が今川当主となる。」
こうしてみるとこの狼煙台で狼煙を挙げたのは岡部氏に攻撃された時と、落城する時に花倉城に向けて揚げた時ぐらいで、本来の
目的であった遠州方面の監視でなく、跡目相続による近隣の岡部から攻撃だった。これには方の上城を整備した氏親もさぞ残念だろう。
確かに花倉城址からはこの方面は良く見えるので、花倉城では方の上城が落城した事は狼煙が挙がれば分っただろう。
尤も狼煙で方の上城の落城を知った花倉城の城兵は、必死の覚悟を持つのではなく、諦めてしまい花倉城も簡単に落城してしまった。
石合山山頂 経 塚
狼煙台の少し上に 「方の上城址・石合山頂上(標高230m)」 の標識が立っているが、平坦部は狭く城はおろか精々物見台の櫓が
建つぐらいの広さしかない。これで本当に山城があったのか疑問を生じてしまう。
ここに来る途中には山城に付き物の掘割らしき跡も無く、素直に考えれば農道の開始点辺りの平坦地に武将の館があり、石合山は
物見櫓と狼煙台があっただけではないか。なんて想像してしまう。
山頂には 「経塚」 の標識もあり石で囲んだ所がある。これが経塚跡? どちらかと言えば植物を植えて保護のため石で囲んだ
ようにも見える。ここに物見櫓を建てるにしても石は邪魔になったろうしな・・・・・ いやいやそうではない、この経塚は方ノ上城が
落城してから、その時の戦死者を悼んで造ったと思えば辻褄があいそうだ。
後ろに見える脚立はここで毎年11月3日年に狼煙を揚げるそうなので、その時のためのものだろう。
その狼煙が果たして花倉城址から確認できるかどうか一度確認してみたい気もします。
山頂から焼津方面 山頂から花倉城址方面
今日は空が霞んでいて景色は諦めるしかないが、山頂からの眺めは樹木さえ無ければ南東から北西の180度見る事ができる。
城を建てるのはともかく、遠州方面の物見台としての役目は十分果たせただろう。
掘 割 掘 割
山頂から北東に延びる細尾根を行くと少し凹んだ場所がある。そこには 「掘割」 の標識がある。
自然の地形なのか人工の凹みなのか私には判断しにくいが、標識があるのだから掘割なのだろう。
そうなると敵の攻撃は今登ってきた下からではなく、上からの攻撃を想定したのだろうか。分からない。
幻の池 作業小屋横の入口
標識に従い尾根を外れ少し下に行くと平坦地になる。今は植林された林の中だが館を建てる広さは十分にある。
勝手に想像するなら、物見役の城兵が寝泊まりしていた建物か、麓にあった館に敵が攻めてきたら重役が逃げ込む詰城的建物が
有ったとも想像できる。
その場所にある水溜りに 「幻の池」 の標識が建っている。ここが方の上城の井戸跡なのかもしれないな。
農道先の入口 農道にある案内板 案内板の場所
他山口にあったイラスト風マップには、方の上城址の入口付近から高草山山頂に向けてハイキングコースが書かれていたので、
以前農道終点の標識の所の踏み跡から北に向かって登った事がある。しかしすぐ放置茶畑に遭遇し前に進めなくなってしまった。
この方の上城址を見た後、直接高草山に登るコースがあれば、利用者はあると思うのだが、城址を整備してくれている地元の
「山の手未来の会」 で再整備してくれないだろうか。
そうそうこの山の手未来の会が建ててくれた城の案内板には石合山に 「いしあいやま」 とルビが振ってあった。一方登山口の
イラストマップには 「いしやばい」 とあった。地元ではどちらが名前を使っているのだう。
疑問の多い方の上城址だが、それだけ空想も広がり楽しく観歩できます。是非一度歩いてみてください。
(春の夜の夢より)
ネットに方の上城址の鳥観図があったので無断コピーをしました。ご免なさい。