南陽寺から大旅籠柏屋へ
歩行記録 H29-5-14(日)
歩行時間:2時間55分 休憩時間:1時間35分 延時間:4時間30分
出発時刻:7時50分 到着時刻:12時20分
歩 数:14、293歩(推定距離10.14km) GPS距離8.6km
行程表
神神社バス停 0:02> 神神社 0:18> 十輪寺 0:20> 興福寺 0:20> タンク 0:15> 常昌院 0:20> 南陽寺 0:15>
立石神社 0:10> 多福寺 0:15> 展望台 0:05> 光泰寺 0:10> 正応院 0:10> 大旅籠柏屋 0:15> 岡部観光案内所
岡部:山辺の道概略図2
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和田の地蔵尊 老人ホーム横の道
みかん山の四阿の横に石仏群が安置されていた。案内板を読むと、ここにはお地蔵さんや馬頭観音などが祀られていて、昔は
ここに農耕などに使われていた牛馬が葬られていたのではないかとあった。
当時貧しい農家では墓に石塔など無かったと思われるが、牛馬の墓に石仏が建つ。という事は、人の命より高かったのだろう。
そしてその横には疲れ果ていく所も無くなった年寄りがいる場所がある。私ももうすぐ入るのかな。
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南陽寺 南陽寺の鬼瓦
南陽寺の境内に置いてあった鬼瓦は、角こそないが鬼が睨みを利かせていた。更にその下には “神谷山” の山号も見える。
では現在の屋根はと見ると、何ともシンプルな屋根で鬼瓦も山号も付いていない。なら昔は大寺だったのかと門前の案内板を見たが、
これから行く光泰寺の末寺で、長い間無住で廃寺同然になっていたあった。
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不動明王の線刻石仏 石仏下の彫物
案内板にはこんな事も書いてあった。
「雨乞いのため線刻不動明王を山上に祀り、人々の信仰を集めたが、大正時代に境内に移した。」
その線刻不動明王は何とも風変わりで、初めて見る表情をしていたが、これはこれで面白く、これが150年前までは山の上に
置いてあったとはとても思えないぐらい保存状況はよかった。
境内の庚申塔の横にあった石塔の下部には、これまた風変わりな彫物があった。普通の庚申さんなら “見ざる、聞かざる、
言わざる” の三猿を彫ってあるが、ここのは座った人物が頭を垂れて合掌して必死に祈っているように見える。
上の文字は供養塔とは読めるが、その上の文字は分からない。何とも気になるお寺だったが人の気配はなかった。
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立石神社への道 紫 蘭
先程と同じような磨き石の石畳の道になった。多分山辺の道を制定するとき作ったのだろう。
旧岡部町は観光にはかなり力を入れていて、玉露の里や朝比奈大龍勢等もある。そうだ他にも旧東海道岡部宿の電線の地中化や
高草山ハイキングコースの石の標識もある。それが町村合併した後は陰りも見えてきたように感じるは私の思いすごしか・・・・・・
立石神社の前に紫蘭がかかたまって咲いていました。
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立石神社 本 殿
立石神社は北のピークの入口なので何度も来たことがある。同じように何度も行っていた神神社で新しい事が分かったが、ここでも
何かないかとキョロキョロしながら歩いたが何もない。
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石 祠 踏み跡がある
北のピークの入口は立石神社本殿の左奥からの浅い沢を登るのだが、今日は右側奥に行ってみた。
新しい注連縄を張った小さな祠の上に踏み跡が続いていたので覗き込んでみると、その先にはロープを張った細い道があった。
神社関係の道か、それとも登山道なのか。気にはなるが細い道の下は20mはありそうな絶壁になっている。
しかも細い道の一部は崩れているし、張ってあるロープも古そうで頼りなさそうだ。
それに例えこの道が登山道でも行先の上には農道があるので、ここを登るメリットはない。など言分けを考えて中止しました。
誰かこの道を歩いて、どうなっているか教えてくれないかな。
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ご神木 土公神様(じのかみさま)
帰りもキョロキョロしながら下りて行くと小さな祠の所にこんな案内が
「土公神様(じのかみさま) この場所は土公神の主護する所なり、すべての人間は土から生まれ土に還るのが原則なり、
人の一生はこの土公神に左右されるといわれています。神社仏閣も土公神に依って守られています。合掌」
でもね。その土公神様の横が古いお札やお飾りの集積場で、まるでゴミ箱でした。
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内谷の常夜灯 多福寺
ここにも常夜灯が建っていて、案内板には秋葉神社の常夜灯で天保14(1843)年建立とあるが、火口の中にはお札も電球も
見えなかった。
先週寄った多福寺が見えてきた。この方角から見ればすぐ分かるのだが先週は上から下ってきたので標識の文字を見るまで
分からなかった。
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地蔵尊 子安観音? 一国巡礼塔
特に見るべきものも無く、こんな物でお茶を濁します。
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農道のヤマブキ ハコネウツギ ユキノシタ
先週と同じようにバイパスを潜り高台に出たが、今日はそこから県道に下らず更に上にある金毘羅さんの展望台に向けて登る。
時季遅れだろうヤマブキが農道の上に散って彩りを添えていた。誰かが植えたようなハコネウツギやユキノシタの花も咲いていた。
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光泰寺 西国三十三観音菩薩
光泰寺の前身は高草山山上にあった修験者の道場の十楽院ともいわれている。十楽院が荒廃していた江戸時代の初めのころ、
十楽院を多福寺の辺りに移したが、東海道が賑わって来ると更に岡部宿に近い現在の地に移したそうです。
その読みが当たったのでしょう現在の光泰寺は中々の大寺です。
ここ光泰寺も微笑仏が二体祀られているが、残念ながら安置されている本堂の扉は鍵がかかっていて開きませんでした。
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穴地蔵入口 穴地蔵
薬師堂裏の小さな洞窟には、前列に修験道の開祖とされる役行者と地蔵尊。その後ろには釈迦如来が祀られています。
通称 「穴地蔵」 と呼ばれているが、これも高草山にあった十楽院の時代のものらしいです。
穴地蔵といえば穴の空いた自然石を奉納してある日本坂峠の穴地蔵を思い出すが、ここの穴地蔵にはそのような物は無かった。
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湯殿山供養塔 地蔵尊
薬師堂横に 「湯殿山 大峯 立山 富士 西國四國 秩父坂東 神仏順礼供養塔」 が建っていた。
何とも欲張った供養塔だが、間違いなく “神仏混交” だった。
これを昔一人の人がやったのなら見事なことだ、いや現代だってこれを一人で歩き通した人が居れば大したものだ。
私なんて8カ所の内3ヶ所しか歩いていない。これから全ては無理でも、先日読んだ小説の舞台だった湯殿山は歩いてみたい。
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正応院山門 正応院多宝塔
小締りしたお寺だが緑豊かで庭木も手入れが良く行き届いた気持ち良いお寺でした。
中でも駿河路ではここが唯一といわれる多宝塔は緑の中に良く映えていました。
ところで多宝塔って2階建てのように見えるが実際は1階建てだと書いてあるものがありましたが、本当はどうなのでしょう。
見てみたい気がします。ここの多宝塔は中が見えませんでした。
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本堂須弥壇 参 道
その代りに本堂の扉が少し開いていて中を覗く事ができました。正面の須弥壇には小さな多分日蓮上人と思われる仏像と、
その後ろには金色の字で 「南無妙法蓮華経」 (多分)と書かれた大きな板状の物が見えました。
兎も角気持ち良い寺でゆっくり休みたいがゴールは間近なので先に進みます。
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佐護神社 何でしょう?
正応院を過ぎた所に聞きなれない名前の佐護神社があった。さっきは西宮神社もあったがこちらは時折聞く名前なのでパスを
したが佐護神社には寄ってみた。参道の階段横の案内板を読むが理解できない。分かったのは佐護神社は立石神社の御旅所と
あるので立石神社の末社のようなものなのだろう。神社の別名を 「おしゃもつっつぁん」 といって、農耕の神、測量の神あるいは
安産の神と様々な説があると書いてある。
そんな事はどうでも良いがこの “おしゃもつっつぁん” はどこかで聞いた事がある。しばし考えて思い出した。確か大崩山塊の入口の
花沢の里の歯痛の神様がこんな名前だった気がする。
早速花沢の写真を調べると、有りました、有りました 「オシャモッツアン」 が。
こちらの説明には 「山際の大きな岩はオシャモッツアンとよばれています。歯痛や子供の病気にご利益があるといわれ、花沢の
人々が信仰してきました。」
同じ高草山の山麓なのに同じ言葉で違う意味で説明されているとは? 自分の記憶はまだ満更でもないと自画自賛するも、オシャ
モッツアンの事はそれ以上は分かりませんでした。
名前が分からないだけではなく、プレハブの小屋の中には地鎮祭のように盛り上げられ御幣が建てられていた。これも一体
何なのでしょうね。分からない事ばかりの神社でした。そうそう佐護神社もヒットするのは岡部だけで、他には無いのだろうか。
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姿見の橋 写してみました
旧岡部町の努力は買うが、この橋はやり過ぎで好きではない。
「小野小町は絶世の美人で歌人としても有名だった。晩年に東国へ下る途中、この岡部宿に泊まったという。小町はこの橋の上に
立ち止まり、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた
自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影をうしなってしまった老いの身を嘆き悲しんだという。
宿場の人はこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名付けたという。」
どぶに架かったような橋が小野小町の姿見の橋なら、その辺に石でも置いて “義経の腰掛石” にしてもいいし、太い木には
“◯◯の馬留の木” にしてもいい。要は何でも有りになってしまい歯止めがかからなくなる。やはり節度が必要だろう。
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岡部宿本陣址 内 部
一転してこのような施設は大歓迎です。数年前には無かった大旅籠柏屋の横には、歴史を感じさせるような門塀が再現されていた。
当時の本陣の間取りを平面表示してあり、建物が無い分その広さが実感できた。
横の無料ギャラリーでは、タイミング良く木喰上人の切り絵の展示も行われていたり、東海道の宿場の様子なども説明してあったので
思いもかけず時間を取られてしまった。
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水琴窟 大旅籠柏屋
本陣址と大旅籠とは繋がっていて裏から入る事ができる。いつもは街道から眺めるだけで過ごしていたが今日は内部も見る事が
できた。とはいえ有料の建物には上がりませんでした。
そうだ。最後に一言余計なことを。山辺の道ハイキングコースは多宝塔のある正応院がゴールになっているが、ここは矢張り
大旅籠柏屋をゴールにするべきだ。知っている人はここまで来るが、知らない人はゴールでバスに乗ってしまう。
印刷物はともかく正応院の入口に大旅籠か本陣址の標識を建てたらどうだろうか。
歩行記録 H29-5-14(日)
歩行時間:2時間55分 休憩時間:1時間35分 延時間:4時間30分
出発時刻:7時50分 到着時刻:12時20分
歩 数:14、293歩(推定距離10.14km) GPS距離8.6km
行程表
神神社バス停 0:02> 神神社 0:18> 十輪寺 0:20> 興福寺 0:20> タンク 0:15> 常昌院 0:20> 南陽寺 0:15>
立石神社 0:10> 多福寺 0:15> 展望台 0:05> 光泰寺 0:10> 正応院 0:10> 大旅籠柏屋 0:15> 岡部観光案内所
岡部:山辺の道概略図2



和田の地蔵尊 老人ホーム横の道
みかん山の四阿の横に石仏群が安置されていた。案内板を読むと、ここにはお地蔵さんや馬頭観音などが祀られていて、昔は
ここに農耕などに使われていた牛馬が葬られていたのではないかとあった。
当時貧しい農家では墓に石塔など無かったと思われるが、牛馬の墓に石仏が建つ。という事は、人の命より高かったのだろう。
そしてその横には疲れ果ていく所も無くなった年寄りがいる場所がある。私ももうすぐ入るのかな。


南陽寺 南陽寺の鬼瓦
南陽寺の境内に置いてあった鬼瓦は、角こそないが鬼が睨みを利かせていた。更にその下には “神谷山” の山号も見える。
では現在の屋根はと見ると、何ともシンプルな屋根で鬼瓦も山号も付いていない。なら昔は大寺だったのかと門前の案内板を見たが、
これから行く光泰寺の末寺で、長い間無住で廃寺同然になっていたあった。


不動明王の線刻石仏 石仏下の彫物
案内板にはこんな事も書いてあった。
「雨乞いのため線刻不動明王を山上に祀り、人々の信仰を集めたが、大正時代に境内に移した。」
その線刻不動明王は何とも風変わりで、初めて見る表情をしていたが、これはこれで面白く、これが150年前までは山の上に
置いてあったとはとても思えないぐらい保存状況はよかった。
境内の庚申塔の横にあった石塔の下部には、これまた風変わりな彫物があった。普通の庚申さんなら “見ざる、聞かざる、
言わざる” の三猿を彫ってあるが、ここのは座った人物が頭を垂れて合掌して必死に祈っているように見える。
上の文字は供養塔とは読めるが、その上の文字は分からない。何とも気になるお寺だったが人の気配はなかった。


立石神社への道 紫 蘭
先程と同じような磨き石の石畳の道になった。多分山辺の道を制定するとき作ったのだろう。
旧岡部町は観光にはかなり力を入れていて、玉露の里や朝比奈大龍勢等もある。そうだ他にも旧東海道岡部宿の電線の地中化や
高草山ハイキングコースの石の標識もある。それが町村合併した後は陰りも見えてきたように感じるは私の思いすごしか・・・・・・
立石神社の前に紫蘭がかかたまって咲いていました。


立石神社 本 殿
立石神社は北のピークの入口なので何度も来たことがある。同じように何度も行っていた神神社で新しい事が分かったが、ここでも
何かないかとキョロキョロしながら歩いたが何もない。


石 祠 踏み跡がある
北のピークの入口は立石神社本殿の左奥からの浅い沢を登るのだが、今日は右側奥に行ってみた。
新しい注連縄を張った小さな祠の上に踏み跡が続いていたので覗き込んでみると、その先にはロープを張った細い道があった。
神社関係の道か、それとも登山道なのか。気にはなるが細い道の下は20mはありそうな絶壁になっている。
しかも細い道の一部は崩れているし、張ってあるロープも古そうで頼りなさそうだ。
それに例えこの道が登山道でも行先の上には農道があるので、ここを登るメリットはない。など言分けを考えて中止しました。
誰かこの道を歩いて、どうなっているか教えてくれないかな。


ご神木 土公神様(じのかみさま)
帰りもキョロキョロしながら下りて行くと小さな祠の所にこんな案内が
「土公神様(じのかみさま) この場所は土公神の主護する所なり、すべての人間は土から生まれ土に還るのが原則なり、
人の一生はこの土公神に左右されるといわれています。神社仏閣も土公神に依って守られています。合掌」
でもね。その土公神様の横が古いお札やお飾りの集積場で、まるでゴミ箱でした。


内谷の常夜灯 多福寺
ここにも常夜灯が建っていて、案内板には秋葉神社の常夜灯で天保14(1843)年建立とあるが、火口の中にはお札も電球も
見えなかった。
先週寄った多福寺が見えてきた。この方角から見ればすぐ分かるのだが先週は上から下ってきたので標識の文字を見るまで
分からなかった。



地蔵尊 子安観音? 一国巡礼塔
特に見るべきものも無く、こんな物でお茶を濁します。



農道のヤマブキ ハコネウツギ ユキノシタ
先週と同じようにバイパスを潜り高台に出たが、今日はそこから県道に下らず更に上にある金毘羅さんの展望台に向けて登る。
時季遅れだろうヤマブキが農道の上に散って彩りを添えていた。誰かが植えたようなハコネウツギやユキノシタの花も咲いていた。


光泰寺 西国三十三観音菩薩
光泰寺の前身は高草山山上にあった修験者の道場の十楽院ともいわれている。十楽院が荒廃していた江戸時代の初めのころ、
十楽院を多福寺の辺りに移したが、東海道が賑わって来ると更に岡部宿に近い現在の地に移したそうです。
その読みが当たったのでしょう現在の光泰寺は中々の大寺です。
ここ光泰寺も微笑仏が二体祀られているが、残念ながら安置されている本堂の扉は鍵がかかっていて開きませんでした。


穴地蔵入口 穴地蔵
薬師堂裏の小さな洞窟には、前列に修験道の開祖とされる役行者と地蔵尊。その後ろには釈迦如来が祀られています。
通称 「穴地蔵」 と呼ばれているが、これも高草山にあった十楽院の時代のものらしいです。
穴地蔵といえば穴の空いた自然石を奉納してある日本坂峠の穴地蔵を思い出すが、ここの穴地蔵にはそのような物は無かった。


湯殿山供養塔 地蔵尊
薬師堂横に 「湯殿山 大峯 立山 富士 西國四國 秩父坂東 神仏順礼供養塔」 が建っていた。
何とも欲張った供養塔だが、間違いなく “神仏混交” だった。
これを昔一人の人がやったのなら見事なことだ、いや現代だってこれを一人で歩き通した人が居れば大したものだ。
私なんて8カ所の内3ヶ所しか歩いていない。これから全ては無理でも、先日読んだ小説の舞台だった湯殿山は歩いてみたい。


正応院山門 正応院多宝塔
小締りしたお寺だが緑豊かで庭木も手入れが良く行き届いた気持ち良いお寺でした。
中でも駿河路ではここが唯一といわれる多宝塔は緑の中に良く映えていました。
ところで多宝塔って2階建てのように見えるが実際は1階建てだと書いてあるものがありましたが、本当はどうなのでしょう。
見てみたい気がします。ここの多宝塔は中が見えませんでした。


本堂須弥壇 参 道
その代りに本堂の扉が少し開いていて中を覗く事ができました。正面の須弥壇には小さな多分日蓮上人と思われる仏像と、
その後ろには金色の字で 「南無妙法蓮華経」 (多分)と書かれた大きな板状の物が見えました。
兎も角気持ち良い寺でゆっくり休みたいがゴールは間近なので先に進みます。


佐護神社 何でしょう?
正応院を過ぎた所に聞きなれない名前の佐護神社があった。さっきは西宮神社もあったがこちらは時折聞く名前なのでパスを
したが佐護神社には寄ってみた。参道の階段横の案内板を読むが理解できない。分かったのは佐護神社は立石神社の御旅所と
あるので立石神社の末社のようなものなのだろう。神社の別名を 「おしゃもつっつぁん」 といって、農耕の神、測量の神あるいは
安産の神と様々な説があると書いてある。
そんな事はどうでも良いがこの “おしゃもつっつぁん” はどこかで聞いた事がある。しばし考えて思い出した。確か大崩山塊の入口の
花沢の里の歯痛の神様がこんな名前だった気がする。
早速花沢の写真を調べると、有りました、有りました 「オシャモッツアン」 が。
こちらの説明には 「山際の大きな岩はオシャモッツアンとよばれています。歯痛や子供の病気にご利益があるといわれ、花沢の
人々が信仰してきました。」
同じ高草山の山麓なのに同じ言葉で違う意味で説明されているとは? 自分の記憶はまだ満更でもないと自画自賛するも、オシャ
モッツアンの事はそれ以上は分かりませんでした。
名前が分からないだけではなく、プレハブの小屋の中には地鎮祭のように盛り上げられ御幣が建てられていた。これも一体
何なのでしょうね。分からない事ばかりの神社でした。そうそう佐護神社もヒットするのは岡部だけで、他には無いのだろうか。


姿見の橋 写してみました
旧岡部町の努力は買うが、この橋はやり過ぎで好きではない。
「小野小町は絶世の美人で歌人としても有名だった。晩年に東国へ下る途中、この岡部宿に泊まったという。小町はこの橋の上に
立ち止まり、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた
自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影をうしなってしまった老いの身を嘆き悲しんだという。
宿場の人はこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名付けたという。」
どぶに架かったような橋が小野小町の姿見の橋なら、その辺に石でも置いて “義経の腰掛石” にしてもいいし、太い木には
“◯◯の馬留の木” にしてもいい。要は何でも有りになってしまい歯止めがかからなくなる。やはり節度が必要だろう。


岡部宿本陣址 内 部
一転してこのような施設は大歓迎です。数年前には無かった大旅籠柏屋の横には、歴史を感じさせるような門塀が再現されていた。
当時の本陣の間取りを平面表示してあり、建物が無い分その広さが実感できた。
横の無料ギャラリーでは、タイミング良く木喰上人の切り絵の展示も行われていたり、東海道の宿場の様子なども説明してあったので
思いもかけず時間を取られてしまった。


水琴窟 大旅籠柏屋
本陣址と大旅籠とは繋がっていて裏から入る事ができる。いつもは街道から眺めるだけで過ごしていたが今日は内部も見る事が
できた。とはいえ有料の建物には上がりませんでした。
そうだ。最後に一言余計なことを。山辺の道ハイキングコースは多宝塔のある正応院がゴールになっているが、ここは矢張り
大旅籠柏屋をゴールにするべきだ。知っている人はここまで来るが、知らない人はゴールでバスに乗ってしまう。
印刷物はともかく正応院の入口に大旅籠か本陣址の標識を建てたらどうだろうか。