仲間ウォーク:直虎の郷 井の国散策 2
歩行記録 H29-3-5(日)
歩行時間:3時間20分 休憩時間:2時間40分 延時間:6時間00分
出発時刻:8時00分 到着時刻:14時00分
歩 数: 21、902歩(推定距離15.53km) GPS距離16.2km
行程表
天浜線金指駅 0:15> 初山宝林寺 0:30> 実相寺 0:40> 龍潭寺 0:30> 井伊谷城跡 0:20> 天白磐座遺跡 0:40>
細江神社 0:25> 獄門畷 0:10> 気賀の関 0:10> 天浜線気賀駅
井の国散策ルート
磐座遺跡を下り神宮司川の土手に座って昼飯にする。三々五々と言うか皆別々の所に座って昼飯を食べる。
特段昼飯を隠して食べたいわけではないが、いつの間にかこんな食事風景になってしまった。
午後は川に架かる軽便鉄道の廃線跡を辿り気賀に向かうのだが、途中で県道に合流して面白みのない道になりそうなのが心配だ。
秋葉神社鞘堂 旧引佐町のマンホール
秋葉さんの鞘堂があったので近づいて見ると “秋葉神社” の杭と案内板があった。説明は秋葉神社の事だけで、鞘堂の事には
何も触れられていない。これでは読んでも詰まらない。
中を覗くと木製の常夜灯があり、祠やお札などは見えなかったが、地図にも秋葉神社の名称になっていた。
マンホールの蓋の模様が銅鐸になっていて、その銅鐸の中に動物が描かれていた。左の角のある動物は鹿のだろうと全員が
一致したが、右側の2匹は鹿の子供説と鳥説に分かれた。
更に動物に上に書かれている丸の中にメスのマーク(♀)のような物は見当も付かなかった。
結論が出ないままだったが、後でたまたま歴史資料館に寄ったとき、何の絵か聞いてみた。すると係の人は
「サー何でしょうね? あの絵が貴重で本物は国立博物館で展示しているのですがねぇ。勉強不足で済みません」 だって。
メスのマーク(♀)の事は聞くのは忘れたが、この後、関所か何処かでこのマークと細江町と書かれた物を見たような気がした。
その時は何気なしだったので気にも留めなかったが、家に帰り気になって調べてみると、あのマークは旧細江町の町章で澪標
(みおつくし)を図案化したものだった。澪標とは舟の航路を示す標識の事で、これが建っている所は安全だと表示したようです。
中々いい町章なのに廃止になったのは惜しいですね。
道 標 無事カエル
思った通り県道歩きは面白くなかった。途中に4階建てアパート4棟が空家になっていて売りに出されていた。
売主は財務局(?)なので国の関係なのだろう。それにしても一度に全ての宿舎を売りに出すとは、建てたこと自体が無駄ではなかったのか。
そんな話をしながら20分ほど歩くと国道362号線に合流した。
県道と国道の合流地点の清水橋袂のポケットパークに、古い石の道標が建っていた。
「右 半僧坊 伊平 左 豊川 三ケ日 道」 、 「右 秋葉 二俣 金指 左 半僧坊 井伊谷 信州 道」 、 「右 浜松 見附 左 秋葉 金指 宮口 道」 と
彫られている道標は、明治なってから建てられたものだそうです。
見慣れない地名などがあるが、半僧坊は奥山方広寺のことで、二俣は天竜、見附は磐田、宮口は浜北の事です。
道標の横の案内板には 「気賀はかって、本坂道(姫街道)の関所が置かれた宿場町で、浜名湖湖岸の東西交通の要衝でした。
国鉄二俣線が開通するまでの気賀は、浜名湖の舟運を利用した物資の流通の中継地として重要な位置を占め、経済的、文化的発展を
遂げてきました。」
かっては栄えていた気賀だが、中山間地域の狭い土地のせいか、二俣線(天竜浜名湖線)の開通で舟運と共に衰退し始め、今はその
二俣線(天浜線)自体も第三セクターに移行され赤字に喘いでいる。
細江町自身も浜松市の政令指定都市移行に伴い吸収合併されたが、それも仕方ない趨勢だったろう。
たが途中で見た売り出し中のアパートで、合併後も気賀の勢いは取り戻せていないように感じた。
ところで 「気賀」 と云う地名は、私が歩きを始める数年前までは馴染みがなく、この辺りは 「細江」 と思っていた。
だが駅の名前は気賀駅だし、関所も気賀の関所。何故かと思い調べてみたら、以前は気賀町だったが昭和30年に隣の村と
合併して細江町になったようだ。なので地元では細江より気賀の方に馴染んでいたようです。
だが気賀から離れた所に住む者にとっては、町名である細江は知っていたが、地名の気賀は知る由もなかった。
そして浜松市になった現在の細江町気賀の地名は、 “浜松市北区細江町気賀” と、仕方ないが安易な名付けになっています。
細江神社のご神木 ご神木の洞
国道は20mほど歩いただけで細江神社に向かう道に入った。
細江神社は津波に御利益がある神社で、その謂れが社務所の壁に書いてあった。
「元は新居町に御鎮座。明応7年(1498)に大地震、大海嘯がおこり、神殿、建造物がことごとく流没したが、奇跡的にご神体は
村櫛に漂着、里人仮宮を建てて祀った。
しかし12年後再び地震による大津波のため、気賀のへと漂着された。気賀の里人はこの地に仮宮を建てて祀り、翌月今の地に
社殿を建て、牛頭天王社と称え祀 ることとなった。明治元年社名を細江神社と改め、明治6年郷社に列せられました。」
アレーではこの神社は2度も津波に遭って流されている。なのに津波除けの神様?
良く分からないが中々立派な神社です。
ご神木のクスノキの洞では、かって大蛇と大蝙蝠が三日三晩、棲家争いをして血だらけになって戦ったという。
結局両者ともに力尽きてしまったそうですが、洞の中にはそのとき流した血の痕があるそうです。
興味のある人は覗いてみてください。
藺草(いぐさ)神社 琉球藺(りゅうきゅうい)
境内社の一つに 「藺草(いぐさ)神社」 とルビを振ってなければ読めない神社があった。
案内板を見ると 「宝永4年(1707)の大地震があり、押寄せた高潮で沿岸の田には塩が入り稲は全滅になった。当時の気賀の
領主は豊後国(大分県)から琉球藺の苗を取り寄せ領内の田に植えさせた。
これが浜名湖一帯の名産物琉球藺の始まりです。神社の祭神は、その時の領主の近藤縫殿助用隨公です。」
神社も色々見てきたが植物の名前がそのまま付いた神社は初めてだった。普通なら “近藤神社” とか “用隨神社” になりそうだが。
そうそうここに書かれている領主の近藤家は、湖北五山で紹介した初代彦根藩主井伊直政と仲たがいした近藤氏の一族です。
近藤氏はこの付近一帯の領地を持ち一万石以上の大名になったが、主筋に当たる井伊直政との対立を避け、領地を三分割して
気賀近藤家、井伊谷近藤家、金指近藤家を設立して大名の位を返上している。
今日寄ってきた宝林寺も実相寺も近藤一族が建てた寺です。
銅 鐸
細江神社の横には “姫街道歴史民俗資料館” が建っていいる。普段なら決して入ることのない我々だが、入口に貼ってある
「入場無料」 の文字に誘われ入ることにした。
受付で早速尋ねたのは例の銅鐸の模様の事だったが、それはもう紹介済みだ。
この資料館には以前も入った事があり、そのとき銅鐸が発見された銅鐸の谷や銅鐸公園に行こうと思ったが実現していない。
歩いて行きたいが銅鐸だけでここまで来る気には中々なれないでいる。そうこうしているうちにわが歩き人生は終ってしまうのだが。
犬潜り道 犬潜り道から見た浜名湖
歴史資料館の裏から「犬くぐり道」 は延びていた、少し上にはその入口を再現した柵?がある。 “犬潜り道” とは
『徳川時代、気賀の関所は新居関所と並んで浜名湖の南北の二大関所だった。しかし、気賀の人は隣村、自分の畑に行くにも
関所を通らねばならず、通行手形がないと役人に帰されてしまい、大変不便が多かった。
それで村人は相談して、時の殿様・近藤縫殿助に穏便な措置を願い出た。殿様は、国の法は曲げられぬ、としたものの、情の
厚い人でもあり 「では、犬の通る道を作ってやれ」 と命じてくれた。
そこで関所の裏側の山すそに沿って、細いうねうねとした粗末な道を作り、途中筵を垂らして下を五十センチほど開け、これは
犬の通る道である、という建前の村人の道とした。村人たちは領主の慈悲に感謝し、村人以外が関所を破り通ろうとするときは、
これを突き出し、関所の役人に協力したという。(『細江町史 資料編』より要約)』
多分箱根の関所や新居、鈴鹿の関所にも、こんな抜け道があったと思うが、実際歩いてもそんな道は見当たらなかった。
ここだけの道なのだろうか? もしそうなら気賀近藤さんは大したものだ。
姫地蔵 獄門畷(なわて)
獄門畷(なわて)には犬潜り道とされる細い道を辿り 「姫地蔵」 の横を下るコースを歩いてみた。
姫地蔵に行くには、犬潜り道から太い道に出て、天理教の教会を過ぎた所にある下りの道から行く。
地蔵の祠の上に四阿を建てたような感じで上を覆っていて何とも丁寧なことをしてある。屋根の下は板を張ってあるので集会所として
使っているのかな?
姫地蔵は、天和2年(1682)に建立されたもので、気賀領主・近藤家のお姫様ができものができて困っている時に、この地蔵にお参り
したところ、できものが治ったという御利益のあるお地蔵さんだそうです。
ここでも近藤家が出てきますが、近藤家は気賀の村人に慕われていたのでしょう。
姫街道に下った所は獄門畷より少し西に来すぎているので東に戻る。
この辺りは犬潜り道、姫地蔵、獄門畷と見物箇所は多いが、多分仲間は余り興味は示さないだろうと、事前に配布するチラシには
「木の枠や石の地蔵と記念碑があるだけです」 と断り書きをしておいた。その所為か文句も出ず静に案内板を読んでくれた。
獄門畷の案内文を紹介します。
「永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、徳川軍の遠州侵攻を防ごうと気賀の人々は領主今川氏のために
堀川城を築き、最後まで戦った。
永禄12年(1569)堀川城に立て籠もった2千人の男女は、3千余の徳川軍に攻められ落城したといわれる。
大久保彦左衛門の記録には 「男女共になで切りにした」 とあり、その後に捕らえられた約700人の人も、この付近で首を打たれた。
その首をこの小川に沿った土手にさらしたので 「ごくもんなわて」 と云われるようになった。」
この惨殺事件は徳川家康の汚点とされるが、何故気賀の住民は城に立て籠もってまで家康に抵抗したのだろうか、
家康もまた何故そこまで徹底的に住民を惨殺したのだろうか。疑問は溶けない。
旧東海道を歩いていると “畷(なわて)” と付く地名が時々出てきた。例えば袋井には “木原畷” 、浜松には “八丁畷” があった。
だが、その場合の 畷 は 「長い直線の道」 と云う意味だった。
だが、ここは気賀の宿場内で枡形などもあり、とても直線道路とは言えない。実は 畷 にはもう一つ 「堤のように高く築き上げてある道」
との意味があるようです。なのでここの場合をその土手にさらし首を並べたのでしょう。
家康は信長に負けないくらい残酷な一面があったようです。
「好々爺のイメージだった大久保彦左衛門が本当かなぁ?」 と感想も出たが、確かに一心太助と共に出たTVドラマのイメージとは
ほど遠い大久保彦左衛門ですね。
川と線路を渡って気賀の関所に向かった。ここまでも有料施設には入っていないが、ここでも有料なら当然入る気はなかった。
以前歩こう会の主催で湖北五山を歩いたとき、ある寺の人が 「歩きの人は金を落とさない」 と言っていたが、正にその通りだ。
しかし家に帰って今日の事を奥さんに話したら 「私も直虎のところに行ってみたい」 と言うかもしれない。そうなれば大蔵省付きの
旅行となり、入場料や食堂、土産などでお金を落とすかもしれない。なので歩きの人間も余り無下に扱わないでください。
無駄話はともかく関所に行くと 「大河ドラマ館が開館中は関所は無料です。」 と貼紙がしてあった。
ラッキーと中に入ったが特に興味を引く物は無い。無料だからいいが、これで金を払ったならブツブツ言いたくなるような物だった。
そんなこんなですぐ出てきてしまい時計を見ると1時53分。次の電車は1時58分でまだ5分ある。その次は1時間後だ。
それからの忙しい事と云ったらなかった。70過ぎの年寄り4人がヨタヨタしながら小走りで駅に向かう姿はさぞ滑稽な姿だったろう。
当然ドラマ館は立ち寄りませんでした。
歩行記録 H29-3-5(日)
歩行時間:3時間20分 休憩時間:2時間40分 延時間:6時間00分
出発時刻:8時00分 到着時刻:14時00分
歩 数: 21、902歩(推定距離15.53km) GPS距離16.2km
行程表
天浜線金指駅 0:15> 初山宝林寺 0:30> 実相寺 0:40> 龍潭寺 0:30> 井伊谷城跡 0:20> 天白磐座遺跡 0:40>
細江神社 0:25> 獄門畷 0:10> 気賀の関 0:10> 天浜線気賀駅
井の国散策ルート
磐座遺跡を下り神宮司川の土手に座って昼飯にする。三々五々と言うか皆別々の所に座って昼飯を食べる。
特段昼飯を隠して食べたいわけではないが、いつの間にかこんな食事風景になってしまった。
午後は川に架かる軽便鉄道の廃線跡を辿り気賀に向かうのだが、途中で県道に合流して面白みのない道になりそうなのが心配だ。
秋葉神社鞘堂 旧引佐町のマンホール
秋葉さんの鞘堂があったので近づいて見ると “秋葉神社” の杭と案内板があった。説明は秋葉神社の事だけで、鞘堂の事には
何も触れられていない。これでは読んでも詰まらない。
中を覗くと木製の常夜灯があり、祠やお札などは見えなかったが、地図にも秋葉神社の名称になっていた。
マンホールの蓋の模様が銅鐸になっていて、その銅鐸の中に動物が描かれていた。左の角のある動物は鹿のだろうと全員が
一致したが、右側の2匹は鹿の子供説と鳥説に分かれた。
更に動物に上に書かれている丸の中にメスのマーク(♀)のような物は見当も付かなかった。
結論が出ないままだったが、後でたまたま歴史資料館に寄ったとき、何の絵か聞いてみた。すると係の人は
「サー何でしょうね? あの絵が貴重で本物は国立博物館で展示しているのですがねぇ。勉強不足で済みません」 だって。
メスのマーク(♀)の事は聞くのは忘れたが、この後、関所か何処かでこのマークと細江町と書かれた物を見たような気がした。
その時は何気なしだったので気にも留めなかったが、家に帰り気になって調べてみると、あのマークは旧細江町の町章で澪標
(みおつくし)を図案化したものだった。澪標とは舟の航路を示す標識の事で、これが建っている所は安全だと表示したようです。
中々いい町章なのに廃止になったのは惜しいですね。
道 標 無事カエル
思った通り県道歩きは面白くなかった。途中に4階建てアパート4棟が空家になっていて売りに出されていた。
売主は財務局(?)なので国の関係なのだろう。それにしても一度に全ての宿舎を売りに出すとは、建てたこと自体が無駄ではなかったのか。
そんな話をしながら20分ほど歩くと国道362号線に合流した。
県道と国道の合流地点の清水橋袂のポケットパークに、古い石の道標が建っていた。
「右 半僧坊 伊平 左 豊川 三ケ日 道」 、 「右 秋葉 二俣 金指 左 半僧坊 井伊谷 信州 道」 、 「右 浜松 見附 左 秋葉 金指 宮口 道」 と
彫られている道標は、明治なってから建てられたものだそうです。
見慣れない地名などがあるが、半僧坊は奥山方広寺のことで、二俣は天竜、見附は磐田、宮口は浜北の事です。
道標の横の案内板には 「気賀はかって、本坂道(姫街道)の関所が置かれた宿場町で、浜名湖湖岸の東西交通の要衝でした。
国鉄二俣線が開通するまでの気賀は、浜名湖の舟運を利用した物資の流通の中継地として重要な位置を占め、経済的、文化的発展を
遂げてきました。」
かっては栄えていた気賀だが、中山間地域の狭い土地のせいか、二俣線(天竜浜名湖線)の開通で舟運と共に衰退し始め、今はその
二俣線(天浜線)自体も第三セクターに移行され赤字に喘いでいる。
細江町自身も浜松市の政令指定都市移行に伴い吸収合併されたが、それも仕方ない趨勢だったろう。
たが途中で見た売り出し中のアパートで、合併後も気賀の勢いは取り戻せていないように感じた。
ところで 「気賀」 と云う地名は、私が歩きを始める数年前までは馴染みがなく、この辺りは 「細江」 と思っていた。
だが駅の名前は気賀駅だし、関所も気賀の関所。何故かと思い調べてみたら、以前は気賀町だったが昭和30年に隣の村と
合併して細江町になったようだ。なので地元では細江より気賀の方に馴染んでいたようです。
だが気賀から離れた所に住む者にとっては、町名である細江は知っていたが、地名の気賀は知る由もなかった。
そして浜松市になった現在の細江町気賀の地名は、 “浜松市北区細江町気賀” と、仕方ないが安易な名付けになっています。
細江神社のご神木 ご神木の洞
国道は20mほど歩いただけで細江神社に向かう道に入った。
細江神社は津波に御利益がある神社で、その謂れが社務所の壁に書いてあった。
「元は新居町に御鎮座。明応7年(1498)に大地震、大海嘯がおこり、神殿、建造物がことごとく流没したが、奇跡的にご神体は
村櫛に漂着、里人仮宮を建てて祀った。
しかし12年後再び地震による大津波のため、気賀のへと漂着された。気賀の里人はこの地に仮宮を建てて祀り、翌月今の地に
社殿を建て、牛頭天王社と称え祀 ることとなった。明治元年社名を細江神社と改め、明治6年郷社に列せられました。」
アレーではこの神社は2度も津波に遭って流されている。なのに津波除けの神様?
良く分からないが中々立派な神社です。
ご神木のクスノキの洞では、かって大蛇と大蝙蝠が三日三晩、棲家争いをして血だらけになって戦ったという。
結局両者ともに力尽きてしまったそうですが、洞の中にはそのとき流した血の痕があるそうです。
興味のある人は覗いてみてください。
藺草(いぐさ)神社 琉球藺(りゅうきゅうい)
境内社の一つに 「藺草(いぐさ)神社」 とルビを振ってなければ読めない神社があった。
案内板を見ると 「宝永4年(1707)の大地震があり、押寄せた高潮で沿岸の田には塩が入り稲は全滅になった。当時の気賀の
領主は豊後国(大分県)から琉球藺の苗を取り寄せ領内の田に植えさせた。
これが浜名湖一帯の名産物琉球藺の始まりです。神社の祭神は、その時の領主の近藤縫殿助用隨公です。」
神社も色々見てきたが植物の名前がそのまま付いた神社は初めてだった。普通なら “近藤神社” とか “用隨神社” になりそうだが。
そうそうここに書かれている領主の近藤家は、湖北五山で紹介した初代彦根藩主井伊直政と仲たがいした近藤氏の一族です。
近藤氏はこの付近一帯の領地を持ち一万石以上の大名になったが、主筋に当たる井伊直政との対立を避け、領地を三分割して
気賀近藤家、井伊谷近藤家、金指近藤家を設立して大名の位を返上している。
今日寄ってきた宝林寺も実相寺も近藤一族が建てた寺です。
銅 鐸
細江神社の横には “姫街道歴史民俗資料館” が建っていいる。普段なら決して入ることのない我々だが、入口に貼ってある
「入場無料」 の文字に誘われ入ることにした。
受付で早速尋ねたのは例の銅鐸の模様の事だったが、それはもう紹介済みだ。
この資料館には以前も入った事があり、そのとき銅鐸が発見された銅鐸の谷や銅鐸公園に行こうと思ったが実現していない。
歩いて行きたいが銅鐸だけでここまで来る気には中々なれないでいる。そうこうしているうちにわが歩き人生は終ってしまうのだが。
犬潜り道 犬潜り道から見た浜名湖
歴史資料館の裏から「犬くぐり道」 は延びていた、少し上にはその入口を再現した柵?がある。 “犬潜り道” とは
『徳川時代、気賀の関所は新居関所と並んで浜名湖の南北の二大関所だった。しかし、気賀の人は隣村、自分の畑に行くにも
関所を通らねばならず、通行手形がないと役人に帰されてしまい、大変不便が多かった。
それで村人は相談して、時の殿様・近藤縫殿助に穏便な措置を願い出た。殿様は、国の法は曲げられぬ、としたものの、情の
厚い人でもあり 「では、犬の通る道を作ってやれ」 と命じてくれた。
そこで関所の裏側の山すそに沿って、細いうねうねとした粗末な道を作り、途中筵を垂らして下を五十センチほど開け、これは
犬の通る道である、という建前の村人の道とした。村人たちは領主の慈悲に感謝し、村人以外が関所を破り通ろうとするときは、
これを突き出し、関所の役人に協力したという。(『細江町史 資料編』より要約)』
多分箱根の関所や新居、鈴鹿の関所にも、こんな抜け道があったと思うが、実際歩いてもそんな道は見当たらなかった。
ここだけの道なのだろうか? もしそうなら気賀近藤さんは大したものだ。
姫地蔵 獄門畷(なわて)
獄門畷(なわて)には犬潜り道とされる細い道を辿り 「姫地蔵」 の横を下るコースを歩いてみた。
姫地蔵に行くには、犬潜り道から太い道に出て、天理教の教会を過ぎた所にある下りの道から行く。
地蔵の祠の上に四阿を建てたような感じで上を覆っていて何とも丁寧なことをしてある。屋根の下は板を張ってあるので集会所として
使っているのかな?
姫地蔵は、天和2年(1682)に建立されたもので、気賀領主・近藤家のお姫様ができものができて困っている時に、この地蔵にお参り
したところ、できものが治ったという御利益のあるお地蔵さんだそうです。
ここでも近藤家が出てきますが、近藤家は気賀の村人に慕われていたのでしょう。
姫街道に下った所は獄門畷より少し西に来すぎているので東に戻る。
この辺りは犬潜り道、姫地蔵、獄門畷と見物箇所は多いが、多分仲間は余り興味は示さないだろうと、事前に配布するチラシには
「木の枠や石の地蔵と記念碑があるだけです」 と断り書きをしておいた。その所為か文句も出ず静に案内板を読んでくれた。
獄門畷の案内文を紹介します。
「永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、徳川軍の遠州侵攻を防ごうと気賀の人々は領主今川氏のために
堀川城を築き、最後まで戦った。
永禄12年(1569)堀川城に立て籠もった2千人の男女は、3千余の徳川軍に攻められ落城したといわれる。
大久保彦左衛門の記録には 「男女共になで切りにした」 とあり、その後に捕らえられた約700人の人も、この付近で首を打たれた。
その首をこの小川に沿った土手にさらしたので 「ごくもんなわて」 と云われるようになった。」
この惨殺事件は徳川家康の汚点とされるが、何故気賀の住民は城に立て籠もってまで家康に抵抗したのだろうか、
家康もまた何故そこまで徹底的に住民を惨殺したのだろうか。疑問は溶けない。
旧東海道を歩いていると “畷(なわて)” と付く地名が時々出てきた。例えば袋井には “木原畷” 、浜松には “八丁畷” があった。
だが、その場合の 畷 は 「長い直線の道」 と云う意味だった。
だが、ここは気賀の宿場内で枡形などもあり、とても直線道路とは言えない。実は 畷 にはもう一つ 「堤のように高く築き上げてある道」
との意味があるようです。なのでここの場合をその土手にさらし首を並べたのでしょう。
家康は信長に負けないくらい残酷な一面があったようです。
「好々爺のイメージだった大久保彦左衛門が本当かなぁ?」 と感想も出たが、確かに一心太助と共に出たTVドラマのイメージとは
ほど遠い大久保彦左衛門ですね。
川と線路を渡って気賀の関所に向かった。ここまでも有料施設には入っていないが、ここでも有料なら当然入る気はなかった。
以前歩こう会の主催で湖北五山を歩いたとき、ある寺の人が 「歩きの人は金を落とさない」 と言っていたが、正にその通りだ。
しかし家に帰って今日の事を奥さんに話したら 「私も直虎のところに行ってみたい」 と言うかもしれない。そうなれば大蔵省付きの
旅行となり、入場料や食堂、土産などでお金を落とすかもしれない。なので歩きの人間も余り無下に扱わないでください。
無駄話はともかく関所に行くと 「大河ドラマ館が開館中は関所は無料です。」 と貼紙がしてあった。
ラッキーと中に入ったが特に興味を引く物は無い。無料だからいいが、これで金を払ったならブツブツ言いたくなるような物だった。
そんなこんなですぐ出てきてしまい時計を見ると1時53分。次の電車は1時58分でまだ5分ある。その次は1時間後だ。
それからの忙しい事と云ったらなかった。70過ぎの年寄り4人がヨタヨタしながら小走りで駅に向かう姿はさぞ滑稽な姿だったろう。
当然ドラマ館は立ち寄りませんでした。