仲間ウォーク:直虎の郷 井の国散策 1
歩行記録 H29-3-5(日)
歩行時間:3時間20分 休憩時間:2時間40分 延時間:6時間00分
出発時刻:8時00分 到着時刻:14時00分
歩 数: 21、902歩(推定距離15.53km) GPS距離16.2km
行程表
天浜線金指駅 0:15> 初山宝林寺 0:30> 実相時 0:40> 龍潭寺 0:30> 井伊谷城跡 0:20> 天白磐座遺跡 0:40>
細江神社 0:25> 獄門畷 0:10> 気賀の関 0:10> 天浜線気賀駅
井の国散策ルート
2月の仲間ウォークが私の都合で3月にずれ込んでしまい、慌てて計画したのが初詣で歩いた 「井の国散策」 だった。
このコースは前回の仲間ウォークの時に、油山寺に置いてあった 「遠州路 戦国歴史めぐりの旅 スタンプ帳」 に仲間がスタンプを
押しているのを見て私が提案したが、良いでもなく嫌でもなく何の反応も無かった。
マーこれはいつもの事なので気にせず、たまにはミーちゃんハーちゃんになって若返ることも必要だろうと計画した。
それに大河ドラマファンの女性が大挙して押し寄せているかもしれないので、若しかして・・・・・ そんな事はないか。
初山宝林寺仏殿 仏殿内部
直虎とは直接関係は無いが金指に来た以上は、ここいに寄らなければと先ず初山宝林寺に向かう。
山門の工事はまだ続いていて垂れ幕が下がって中は見えない。矢張り寺は “直虎なんて関係ない” と思っているのだろう。
開門時間は10時なので人けが無い境内を見学させてもらう。
初山宝林寺方丈 弥勒菩薩半跏思惟像
写真では同じように見える屋根だが、仏殿の屋根は杉の板材を葺いた「こけら葺き」で、方丈の屋根は 「かや葺き」 だそうです。
矢張りこの寺はいつ見ても恰好がいいと思う。いつか内部も見学したいものです。
実相寺鐘楼門 実相寺庭園
実相寺の庭園では無料の録音再生装置で寺の説明を聞いていると、石の名前や配置の意味が良く分かる。
仲間も 「無料はいいよね。」 と神妙に聞いていた。
シャクヤク(芍薬)畑 柿 園
前回初詣で歩いたときは気が付かなかったが、マルチの穴から茶色の勢いのいい芽がニョキニョキと突き出ていた。
何となくシャクヤクに似ていたが自信がなかったが、仲間が 「多分芍薬で漢方薬の原料にするのだろう」 と言う。
そこで畑で作業をしていて女性に聞くと 「シャクヤクの花を栽培しています」 との事だった。
柿畑で 「我家の柿は、これより低いが今年は90個ほど収穫した」 と自慢すると 「家には届かなかった」 と即座に反撃されてしまった。
井伊家発祥の井戸 新野馬之助の墓
「エ~ あれが発祥の井戸なの?」 と 「女城主 直虎」 を見ていた仲間が井戸が近づくと声を上げた。
さもありなんです。TVだとこの井戸は林の中の神秘的な場所に設定されているので、これを見ると幻滅しますよね。
ここで議論になったのは “祖霊之地” の石碑の裏にある木の種類。皆は 「キンカンだ」 と言うので、私が
「キンカンじゃなくて彦根の紋にあるタチバナ(橘)だ。」 と近くにある彦根藩の紋を指して説明するが
「いや これは実も成っているのでキンカンだ。」 と言い張る。
「キンカンにしては実が一回り大きいのでタチバナだ。」 と言っても納得しない。どうやら私の植物知識は信用されていないようだ。
因みに師匠の意見もキンカンでした。
私には植物学上の判断はできないが 「2006年5月20日に彦根から移植した橘」 との記述も読んだ記憶があるのですがねぇ。
龍潭寺には直虎の墓だけではなく 「新野左馬助」 の墓もある。
彼は御前崎の新野新城の城主で今川家の家臣だったが、今川家の命により井伊谷へ目付家老として送り込まれた。
そこで井伊家と血縁関係を結んだ左馬助は以後井伊家を助け、初代彦根藩主直政の逃亡をも助けたとも言われている。
その恩に報いるためか、幕末になって井伊家の子孫が新野家の養子となり新野家を再興させたという。
この話が本当なら、彦根城に左馬助を祀る社か何かがあると思うのだが。
井伊谷城跡への道 ア~ 観光地
井伊谷城跡は今回が初めてなので期待を持っていた。
井伊谷宮から引佐の街中を歩いているとゾロゾロと人の歩いているのが見える。宝林寺や実相寺には観光客はいなかったが、
発祥の井戸には三々五々、龍潭寺と井伊谷宮にはゾロゾロいた。だが城跡には約100mの上りがあるので観光客は少ないだろうと
思っていたが外れでした。
道は新しく整備され手摺も付けられ、途中にはお休み処と2ヶ所にベンチも設けられていた。だが我々はザックも担いだ歩きの恰好。
途中で休んでは沽券に係わると一気に山頂まで歩き通した。あ~ 恰好を付けるのも疲れるものだ。
井伊谷城跡 井伊谷城跡展望地
本丸があった場所なのだろうか山頂は広場になっていて井伊谷が一望できた。
井伊谷城は井伊家の居城なのか詰城なのか二つの説があり、この城の下に井伊館がありここは山城だったと言う説と、詰城は
遥か彼方の三岳城でここは居城だったという説がある。
三岳城は南北朝時代、後醍醐天皇の宗良親王が井伊家に保護を求めてこの城で戦ったが、北朝方に責められ落城した記録がある。
一方井伊谷城は一時は直虎も住んでいたが、家老小野政次に攻められて龍潭寺に逃れた事もあったという。
井伊谷城跡の展望台から井の国一望
今見てきた龍潭寺や井伊谷宮の森も、これから行く天白磐座遺跡の森も見えている。遠くにはアクトタワーや浜名湖の東名の
橋も見える。今日は遠くは霞んでいるがこのくらい見えればヨシとしよう。俄か直虎ファンは満足してくれたかな?
四等三角点 三岳山
井伊谷城の最高点には 「四等三角点 北神宮寺」 が設置されている。標高は114.9mで、設置場所は “井伊谷字城山” とある
ので、この山は “城山” と地元では呼んでいるのだろうか?
北東の少し開けた所から三岳城のあった三岳山が見えている、ここから見れば山の形で三岳山の名前の謂れが理解できる。
真中の頂が御岳山の山頂で二等三角点あり、点名は “三岳村” とあるので、かっては三岳村があったのだろう。
設置場所の住所は “引佐町三岳字城山” となっているのが分からない。何故 “字三岳山” ではないのか?
渭伊神社の瓦 渭伊神社本殿
井伊谷城跡を下って次は天白磐座遺跡に向かうのに、来た道を歩くのでは面白くないと山の中腹の道を行くことにした。
途中で農作業をしていた中年の男性に 「この道は天白磐座遺跡に行けますか?」 と聞くと
「渭伊神社に行くなら戻って街の中を行った方が分かりやすいよ。」 と言う。
「その道は今歩いて来たので別の道を歩こうと思って。この道は抜けれますか?」
「抜けれるけど途中で下った方がいいよ。行き過ぎてしまうから」 そうかな? 納得はしなかったが一応お礼を言って先に進んだ。
確かに途中に下る道はあったが、方向が今来た方に戻りそうなので、そのまま前進すると仲間の不安げな感じが伝わってくる。
でも多分大丈夫! 事前に遍路の時と同じ手法で道は調べてある。この先では県道に合流して中学校がある筈だ。
で、結果はその通り! 仲間の信頼はさらに増したようだ。尤もそれは道に関してだけだが。
直接磐座に行く道はあるが、一応神社にお参りしてからと神社の境内に行くと、相変わらずゲートボールをやっていた。
「今時ゲートボールなんて珍しいねぇ。」 と仲間が声を掛けると 「グランドゴルフもやっているよ。」 と返ってきた。
「この前来た時もゲートボールをやっていたけど?」 と私が聞くと
「アーそれはここが狭いのでグランドゴルフは出来ないからだよ。グランドゴルフは別の会場でやっているよ。」
前回ゲートボールをやっているのを見て、私が勝手に “地元のボスがグランドゴルフが嫌いだから” と判断したのが間違いだと
分かった。ご免なさい。思い込みと独断が強いのが私に悪い癖だと分かっているのですが・・・・・・・・
何でも聞いてみなければ分からないものだ。とあらためて認識しました。
天白磐座遺跡
今まで何回も来ている渭伊神社と磐座だが、見学者がいた事はなかった。それが今日は何組かの見学者がパンフレットや冊子を
手に見学していた。関係者にとってはまさにNHK様様だろうが、これが来年も続くかは疑問でしょうね。
私は気に入っている磐座だが、仲間の反応はいま一つ。
歩行記録 H29-3-5(日)
歩行時間:3時間20分 休憩時間:2時間40分 延時間:6時間00分
出発時刻:8時00分 到着時刻:14時00分
歩 数: 21、902歩(推定距離15.53km) GPS距離16.2km
行程表
天浜線金指駅 0:15> 初山宝林寺 0:30> 実相時 0:40> 龍潭寺 0:30> 井伊谷城跡 0:20> 天白磐座遺跡 0:40>
細江神社 0:25> 獄門畷 0:10> 気賀の関 0:10> 天浜線気賀駅
井の国散策ルート
2月の仲間ウォークが私の都合で3月にずれ込んでしまい、慌てて計画したのが初詣で歩いた 「井の国散策」 だった。
このコースは前回の仲間ウォークの時に、油山寺に置いてあった 「遠州路 戦国歴史めぐりの旅 スタンプ帳」 に仲間がスタンプを
押しているのを見て私が提案したが、良いでもなく嫌でもなく何の反応も無かった。
マーこれはいつもの事なので気にせず、たまにはミーちゃんハーちゃんになって若返ることも必要だろうと計画した。
それに大河ドラマファンの女性が大挙して押し寄せているかもしれないので、若しかして・・・・・ そんな事はないか。
初山宝林寺仏殿 仏殿内部
直虎とは直接関係は無いが金指に来た以上は、ここいに寄らなければと先ず初山宝林寺に向かう。
山門の工事はまだ続いていて垂れ幕が下がって中は見えない。矢張り寺は “直虎なんて関係ない” と思っているのだろう。
開門時間は10時なので人けが無い境内を見学させてもらう。
初山宝林寺方丈 弥勒菩薩半跏思惟像
写真では同じように見える屋根だが、仏殿の屋根は杉の板材を葺いた「こけら葺き」で、方丈の屋根は 「かや葺き」 だそうです。
矢張りこの寺はいつ見ても恰好がいいと思う。いつか内部も見学したいものです。
実相寺鐘楼門 実相寺庭園
実相寺の庭園では無料の録音再生装置で寺の説明を聞いていると、石の名前や配置の意味が良く分かる。
仲間も 「無料はいいよね。」 と神妙に聞いていた。
シャクヤク(芍薬)畑 柿 園
前回初詣で歩いたときは気が付かなかったが、マルチの穴から茶色の勢いのいい芽がニョキニョキと突き出ていた。
何となくシャクヤクに似ていたが自信がなかったが、仲間が 「多分芍薬で漢方薬の原料にするのだろう」 と言う。
そこで畑で作業をしていて女性に聞くと 「シャクヤクの花を栽培しています」 との事だった。
柿畑で 「我家の柿は、これより低いが今年は90個ほど収穫した」 と自慢すると 「家には届かなかった」 と即座に反撃されてしまった。
井伊家発祥の井戸 新野馬之助の墓
「エ~ あれが発祥の井戸なの?」 と 「女城主 直虎」 を見ていた仲間が井戸が近づくと声を上げた。
さもありなんです。TVだとこの井戸は林の中の神秘的な場所に設定されているので、これを見ると幻滅しますよね。
ここで議論になったのは “祖霊之地” の石碑の裏にある木の種類。皆は 「キンカンだ」 と言うので、私が
「キンカンじゃなくて彦根の紋にあるタチバナ(橘)だ。」 と近くにある彦根藩の紋を指して説明するが
「いや これは実も成っているのでキンカンだ。」 と言い張る。
「キンカンにしては実が一回り大きいのでタチバナだ。」 と言っても納得しない。どうやら私の植物知識は信用されていないようだ。
因みに師匠の意見もキンカンでした。
私には植物学上の判断はできないが 「2006年5月20日に彦根から移植した橘」 との記述も読んだ記憶があるのですがねぇ。
龍潭寺には直虎の墓だけではなく 「新野左馬助」 の墓もある。
彼は御前崎の新野新城の城主で今川家の家臣だったが、今川家の命により井伊谷へ目付家老として送り込まれた。
そこで井伊家と血縁関係を結んだ左馬助は以後井伊家を助け、初代彦根藩主直政の逃亡をも助けたとも言われている。
その恩に報いるためか、幕末になって井伊家の子孫が新野家の養子となり新野家を再興させたという。
この話が本当なら、彦根城に左馬助を祀る社か何かがあると思うのだが。
井伊谷城跡への道 ア~ 観光地
井伊谷城跡は今回が初めてなので期待を持っていた。
井伊谷宮から引佐の街中を歩いているとゾロゾロと人の歩いているのが見える。宝林寺や実相寺には観光客はいなかったが、
発祥の井戸には三々五々、龍潭寺と井伊谷宮にはゾロゾロいた。だが城跡には約100mの上りがあるので観光客は少ないだろうと
思っていたが外れでした。
道は新しく整備され手摺も付けられ、途中にはお休み処と2ヶ所にベンチも設けられていた。だが我々はザックも担いだ歩きの恰好。
途中で休んでは沽券に係わると一気に山頂まで歩き通した。あ~ 恰好を付けるのも疲れるものだ。
井伊谷城跡 井伊谷城跡展望地
本丸があった場所なのだろうか山頂は広場になっていて井伊谷が一望できた。
井伊谷城は井伊家の居城なのか詰城なのか二つの説があり、この城の下に井伊館がありここは山城だったと言う説と、詰城は
遥か彼方の三岳城でここは居城だったという説がある。
三岳城は南北朝時代、後醍醐天皇の宗良親王が井伊家に保護を求めてこの城で戦ったが、北朝方に責められ落城した記録がある。
一方井伊谷城は一時は直虎も住んでいたが、家老小野政次に攻められて龍潭寺に逃れた事もあったという。
井伊谷城跡の展望台から井の国一望
今見てきた龍潭寺や井伊谷宮の森も、これから行く天白磐座遺跡の森も見えている。遠くにはアクトタワーや浜名湖の東名の
橋も見える。今日は遠くは霞んでいるがこのくらい見えればヨシとしよう。俄か直虎ファンは満足してくれたかな?
四等三角点 三岳山
井伊谷城の最高点には 「四等三角点 北神宮寺」 が設置されている。標高は114.9mで、設置場所は “井伊谷字城山” とある
ので、この山は “城山” と地元では呼んでいるのだろうか?
北東の少し開けた所から三岳城のあった三岳山が見えている、ここから見れば山の形で三岳山の名前の謂れが理解できる。
真中の頂が御岳山の山頂で二等三角点あり、点名は “三岳村” とあるので、かっては三岳村があったのだろう。
設置場所の住所は “引佐町三岳字城山” となっているのが分からない。何故 “字三岳山” ではないのか?
渭伊神社の瓦 渭伊神社本殿
井伊谷城跡を下って次は天白磐座遺跡に向かうのに、来た道を歩くのでは面白くないと山の中腹の道を行くことにした。
途中で農作業をしていた中年の男性に 「この道は天白磐座遺跡に行けますか?」 と聞くと
「渭伊神社に行くなら戻って街の中を行った方が分かりやすいよ。」 と言う。
「その道は今歩いて来たので別の道を歩こうと思って。この道は抜けれますか?」
「抜けれるけど途中で下った方がいいよ。行き過ぎてしまうから」 そうかな? 納得はしなかったが一応お礼を言って先に進んだ。
確かに途中に下る道はあったが、方向が今来た方に戻りそうなので、そのまま前進すると仲間の不安げな感じが伝わってくる。
でも多分大丈夫! 事前に遍路の時と同じ手法で道は調べてある。この先では県道に合流して中学校がある筈だ。
で、結果はその通り! 仲間の信頼はさらに増したようだ。尤もそれは道に関してだけだが。
直接磐座に行く道はあるが、一応神社にお参りしてからと神社の境内に行くと、相変わらずゲートボールをやっていた。
「今時ゲートボールなんて珍しいねぇ。」 と仲間が声を掛けると 「グランドゴルフもやっているよ。」 と返ってきた。
「この前来た時もゲートボールをやっていたけど?」 と私が聞くと
「アーそれはここが狭いのでグランドゴルフは出来ないからだよ。グランドゴルフは別の会場でやっているよ。」
前回ゲートボールをやっているのを見て、私が勝手に “地元のボスがグランドゴルフが嫌いだから” と判断したのが間違いだと
分かった。ご免なさい。思い込みと独断が強いのが私に悪い癖だと分かっているのですが・・・・・・・・
何でも聞いてみなければ分からないものだ。とあらためて認識しました。
天白磐座遺跡
今まで何回も来ている渭伊神社と磐座だが、見学者がいた事はなかった。それが今日は何組かの見学者がパンフレットや冊子を
手に見学していた。関係者にとってはまさにNHK様様だろうが、これが来年も続くかは疑問でしょうね。
私は気に入っている磐座だが、仲間の反応はいま一つ。