歩行記録 H29-1-31(火)
歩行時間:1時間50分 休憩時間:0時間20分 延時間:2時間10分
出発時刻:12時50分 到着時刻:15時00分
歩 数: 7、150歩(推定距離5.08km) GPS距離km
行程表
清水山 0:20> 登り口 0:05> 経塚山 0:35> 清水寺 0:30> 藤の里トンネル分岐 0:35> 金吹橋 0:35> 勝草橋
経塚山概念図
最初に断っておかなければならないのは、山の名前が地図には “京塚山” とあるのに、私は 「経塚山」 と称している事です。
その理由を以下に紹介します。
「清水寺は戦国時代ころまでは、現在地の清水寺より約二キロ西北の元清水の山頂(経塚山)にあって、十二院の諸堂を有し、
塔平と呼ばれている所には五重塔も建ち、大伽藍を誇り多くの人々に信仰されていた。
今川義元が桶狭間の戦いで没すると、駿河攻略をねらっていた武田信玄は、大軍を率いて駿河に侵攻し、駿府城、田中城等を
次々に攻略。この戦いの時、清水寺にも兵火に遭い、さしもの大伽藍も悉く焼失したのです。
信玄は駿河を平定すると直ちに寺領安堵状を清水寺に発給し、今まであった境内を現在地に移し、堂宇を新築しました。」
かって大寺院のあった場所の地名なら “京” より “経” の方が自然だし、寺の境内には経本を埋葬した経塚もあった事だろう。
まして清水寺は真言宗なので本山は高野山なのだから京の都は関係ない。
そんな訳で地理院の地図には “京塚山” とあるが、今回は “経塚山” を使います。
大師堂裏の石仏 清水山と経塚山の分岐
清水寺の大師堂裏から近道を通れば清水山と経塚山の分岐に出ます。
ただ分岐には 「⇦助宗 蓮華寺池公園➩」 の表示で、ハイキングコースではない経塚山の名前はありません。
名前が分かりません。教えてください
お年寄りが二人何かを見ていたので 「何を見ているのですか」 と声を掛けると、女性の方が
「イエネ。この木の名前は何て言うのかと思ってね。知ってますか?」 と逆に聞かれてしまった。
「実が二つ左右に広がっていて、ヘリコプターの羽根みたいなのでパソコンで調べたけど分からなかった。」
見れば確かに細長い実が左右に付いていて、ヘリコプターや竹トンボの羽根のように見えない事もない。
名前が分かりません。教えてください
実の長さは10cmほどで、太さは太い所で2cmほどだ。葉は細長く鋸歯のようなギザギザはなく全縁で対生です。
榊(サカキ)や樒(シキミ)と似ているがそれよりは細長く見える。木は藪状で太い幹は見えなかった。
名前が分かりません。教えてください
私が余り興味を示さないので女性が
「ほらお父さん。写真を見せてあげてよ」 と男性を催促すると、男性がタブレット端末を取り出して見せてくれたのが上の写真です。
「前回ここに来たときは実が割れていて、中から白いレースのような物が見ていたので興味を感じて家に持っていったの。」
と示したのが1枚目の写真。
「家で瓶に挿しておいたら次の日に実が綺麗に割れて、白いファファした物が沢山出ていたの。」
2枚目の写真は確かに “へェー何だろう?” と感じる写真だったので 「カメラで撮っていい?」 と聞いてから写させてもらった。
名前が分かりません。教えてください
私が興味を示したことに女性は気を良くして、開きかけている実を探していたが 「今日は開きそうな実はないのね。」 と言って
一つの実を手に取ると 「ほらここに線があるでしょ。ここが割れるの」 と爪を立て始めた。
どうやらこの女性は口も達者だが手の方も達者、開いてくれた実が1枚目の写真です。
「ほらこの黒いのが種で白いものが下に延びているでしょう。今は折りたたまれていてふんわりとは見えないけど」 と言いながら
種を取り出し、 「この白いのが広がって種を風にのせるのでしょうね。」と白い物を広げようとするが開かない。
「駄目だわ。でもね本当に変わっていて綺麗なの」 と今度は新しい茎を折って私に 「家で水に挿しておくと開くわよ。」 と差し
出した。断るのも悪いし白いレース状の物も見て見たいと思い貰っておきました。
次の2枚目3枚目の写真は経塚山の帰りに女性が割った実の写真で、実から白くて細い綿毛が顔を出していました。
さてさてこの植物の名前は何と言うのでしょうね。女性が別れ際に
「これからこの木を見る楽しみができたのでウォーキングも張合いがあるし、花も見て見たい。」と言っていました。
それなら私も名前を調べてみて、分かったら小さな名札を付けておこうと思い、調べたのですが分かりませんでした。
切り通し 石 仏
タンクからの清水寺の農道と違い、こちらの農道は古い街道のような風情があります。
このような場所にある石仏は馬頭観音や青面金剛像が多いが判別できなかった。でもあるだけでも嬉しくなる。
2ヶ所目の分岐 大正時代の道標
ハイキングコースの案内は 「⇦助宗 清水寺➩」 とあるだけで右の道は案内が無かった。
だがその後ろにある石の道標には 「右 花倉ニ通ズ 左 助宗ニ通ズ」 とある。
初めてこの道を歩いたのは7年前の駿河一国三十三観音霊場巡りの時で、清水寺から花倉の補陀落寺に行くときだった。
道は清水寺で聞いてきたのでこの道に入ったのだが、太い道はすぐ終わり、後は踏跡程度の道を辿った先はタンクに続く農道でした。
結局花倉の里に行くには山越えの遠回りに道になってしまった。
石の道標は大正14年に建てたものだが、今は新東名に遮断されるなどして廃道になってしまったようです。
清水山(東)から見た経塚山 勝草橋(南)から見た経塚山
経塚山の登山道は何の知識もないが、山自体は四方から見ているのである程度の見当は付けてある。
今日歩いた清水山から経塚山を見れば、手前側からはなだらかな稜線が伸びていて途中には小屋も見えている。
地理院の地図には農道も西に向かっていて、その農道からピークまでの距離は短く、たとえ道は無くても何とかなりそうだ。
山頂から左に向かって尾根が続くが、あの辺りに塔平と呼ばれた五重塔や大伽藍が建っていた所なのか。少し歩いてみるのもいい。
今朝の勝草橋からも経塚山は見えていたが、これだと左の方が楽そうに見える。だがあの下には瀬戸川が流れているので
タイミング良く橋があるかどうかが問題だ。
峠に地蔵(西)から見た経塚山 助宗(北)から見た経塚山
一枚目は心岳寺上の峠の地蔵から写した写真ですが、ここには新東名も写っていて全体的にこんもりした山で、踏み跡さえあれば
どこからでも容易に登れそうです。
最後の写真は経塚山を北側から見た写真です。ここから見る姿は他の方向とは一変した山容で、とても私には手に負えそうも
ありません。
こうして四方から経塚山を見比べると、下から登るなら西の瀬戸川側が一番妥当だろうとは思う。
だがその前に清水山側の農道を確認しておこうと思っていたので、今日はその調査も兼ねて清水山の帰りに寄ることにしました。
3ヶ所目の分岐 4ヶ所目の分岐
3ヶ所目の分岐にもハイキングコースの案内があり、右は助宗となっていたが左の道は表示されていない。
だがこの農道が経塚山下に続く道なので、今日はこの農道を確認してみます。
表示のない方向の農道を行くとまた分岐に出た。ここは既にハイキングコースを外れているの標識は無いが、下る方向に行く事は
ないので当然右の登りを進んだ。
この農道を歩いていての注意点は、農道は経塚山の下を過ぎても西に向かっているので、途中から山道に入らなければならない。
ただその山道が余り右(北)に向ったり、下るようなら止めようと思っていた。
何故なら経塚山の北側は私には手に余る斜面なので近づかない方が良さそうです。
太くなった農道は続く 目印は無いが気になる
農道は稜線に沿って延びているので左右共に高い所は無く迷わず歩く事ができた。
そうして清水寺から20分も来た所で、農道の正面に上に続く斜面が出てきた。しかも農道はそこから下り坂になっている。
ウン!ここに間違いはないと、登り口付近に何か目印はないかと探すが、汚れた軍手が木の根に挿してあるだけだった。
まさかこれが目印とも思えないが無いよりはいいだろう。
太い木の右を巻いて上に上がると、左は自然林で右はまばらに竹が生えている。以前は茶畑だったのか茶の木も少しある。
林と畑跡の境には踏み跡が上に延びている。OK!これで間違いはない。
兎の雨宿り石か 蟻地獄?
途中には左に向かう細く平らな道のように見えるものが何ヶ所もあったが、多分昔の畑の畝跡だろうと無視して上に向かう。
平らな石を屋根のように石の上に被せた物があったがなんだろう? 人工物なら古墳の入口かもしれない。
一瞬緊張したが、まさか最近までは茶畑があって、戦国時代までは大寺院があった場所で古墳がそのままの訳はない。
たまたま自然の妙でこうなったのだろう。
それでも気になり覗いてみると、中の石の一部は火で焼いたように煤で黒くなっていた。畑を耕作しながらたき火でもしたのかな。
イヤイヤそれよりもっと珍しいものを見つけた。
擂鉢状の円錐の穴が5ヶ所もあるが、多分蟻地獄の住処、いや罠なのだろう。今まで見た事はないがイメージ的には合ってている。
辺りに虫でもいないかと探したがこの時期にいるはずはない。では指でもと思ったが止めた。何となく怖い。
ウイキペディアには
「捕らえた獲物には消化液を注入し、体組織を分解した上で口器より吸汁する。生きているアリジゴクのそ嚢には、多数の昆虫
病原菌が共生しており、殺虫活性はフグ毒のテトロドトキシンの130倍といわれている。」 良く分からないが触らないで良かった。
経塚山の三等三角点 点の記より
山頂には標高245.14m 基準点名 堀之内の三等三角点がある。
一見したところ三角点の標石の位置より、後ろの杉の木のある場所の方が高そうだったので、点の記を見ると、
案の定山頂より4m程離れた場所に三角点はあった。何故わざわざそんな事をするのだろう?
基準点名の堀之内とは経塚山から南の藤枝総合グランド辺りの地名ですが、何となく気になりますよね。
城やお堀がないのに堀之内なんて。
山頂は周りは木や竹に覆われていて景色は見えない。以前藤枝の夜景スポットの紹介で
「経塚山から見る夜景は、焼津市、藤枝市、島田市、大井川辺りまで見渡せる非常にスケールの大きい夜景が楽しめます。」 とあり
農業タンクと共に写した夜景がアップされていた。
どうやら清水山と経塚山を取り違えたようだが、何故マイナーな “経塚山” の名前を使ったのか、疑問を感じて追いかけてみました。
すると藤枝市の発行した “市街地を見下ろす眺望地” の中に経塚山が入っていて、清水山(タンク)は入っていませんでした。
夜景スポットの管理者は多分この文章を読み、夜間に車で現地に行ったため勘違いをしたのでしょう。
ただ、この展望地の中には他にも烏帽子形山、高尾山、潮山、藤枝総合運動場等も入っているのであてになりません。
山頂北側の道 山頂の茶畑跡
山頂から北に延びる平坦な尾根を少し歩いて、かっての五重塔の礎石でも探してみようとザックを置いて出かけた。
尾根には北に下る道が続いていて、左(西)側には放置茶畑がある。何となく広い区間もあり昔ここに寺院があった事も頷ける。
大分行っても同じような感じで、そのうち道が下りだした所で止めにした。道を辿っても礎石等見つかる筈はないと。
山頂に戻り下るとき気付いたのは茶畑の跡です。普通生産を止めた茶畑はそのまま放置され、茶の木は人の背よりも高くなり
間を歩けなくなる厄介物です。それがここでは茶の木を根元で切断して、その切った茶の木もここにはありません。
この農家の人が何を思ってこうしたのか分かりませんが有難い事です。また来てみようかとの思いも湧いてきます。
ただ例により竹の浸食が始まっているので、いつかは薄暗い竹林の山頂になりそうです。
そこで提案。清水寺ではかって寺院があったこの地に奥の院を建てたらどうだろう。そして周りの木や竹を伐採すれば、藤枝市の
文章も嘘ではなくなる展望地になる。
更に辺りを調査すれば必ず三重塔などの礎石も見つかるし、蟻地獄のあった石も実際は古墳かもしれない。
また勝手な妄想が始まってしまった。止めます。
林道合流部 清水山
あっという間に林道の合流部に着いてしまい本日の冒険は終了。
山頂に三角点があるので三角点ハンターの踏み跡はあるだろうと思ってはいたが、少しの藪漕は覚悟していた。
それが想定以上に簡単なコースで、少々ガッカリしたのは自惚れだろうか。
行きでは気づかなかったが清水山が見えていて、耕作地の横には小屋もある。多分山の上から見えた小屋だろう。
この辺りも平地があり古清水寺の十二院の諸堂があった地かもしれない。
藤枝市街も見えた 清水山からの合流部
約1時間で清水寺に戻ってきました。
後は歩き慣れた道を勝草橋まで歩くだけです。
清水寺参道 不動尊
藤枝総合グラウンド場 桜トンネル
勝草橋 勝草橋から経塚山と清水山
3時丁度に勝草橋に到着。今日はここに自転車を置いてあるので帰りは楽だ。
で、どうしよう。このまま帰るべきか、もう一つ行くべきか。ここは思案のしどころだ。
歩行時間:1時間50分 休憩時間:0時間20分 延時間:2時間10分
出発時刻:12時50分 到着時刻:15時00分
歩 数: 7、150歩(推定距離5.08km) GPS距離km
行程表
清水山 0:20> 登り口 0:05> 経塚山 0:35> 清水寺 0:30> 藤の里トンネル分岐 0:35> 金吹橋 0:35> 勝草橋
経塚山概念図
最初に断っておかなければならないのは、山の名前が地図には “京塚山” とあるのに、私は 「経塚山」 と称している事です。
その理由を以下に紹介します。
「清水寺は戦国時代ころまでは、現在地の清水寺より約二キロ西北の元清水の山頂(経塚山)にあって、十二院の諸堂を有し、
塔平と呼ばれている所には五重塔も建ち、大伽藍を誇り多くの人々に信仰されていた。
今川義元が桶狭間の戦いで没すると、駿河攻略をねらっていた武田信玄は、大軍を率いて駿河に侵攻し、駿府城、田中城等を
次々に攻略。この戦いの時、清水寺にも兵火に遭い、さしもの大伽藍も悉く焼失したのです。
信玄は駿河を平定すると直ちに寺領安堵状を清水寺に発給し、今まであった境内を現在地に移し、堂宇を新築しました。」
かって大寺院のあった場所の地名なら “京” より “経” の方が自然だし、寺の境内には経本を埋葬した経塚もあった事だろう。
まして清水寺は真言宗なので本山は高野山なのだから京の都は関係ない。
そんな訳で地理院の地図には “京塚山” とあるが、今回は “経塚山” を使います。
大師堂裏の石仏 清水山と経塚山の分岐
清水寺の大師堂裏から近道を通れば清水山と経塚山の分岐に出ます。
ただ分岐には 「⇦助宗 蓮華寺池公園➩」 の表示で、ハイキングコースではない経塚山の名前はありません。
名前が分かりません。教えてください
お年寄りが二人何かを見ていたので 「何を見ているのですか」 と声を掛けると、女性の方が
「イエネ。この木の名前は何て言うのかと思ってね。知ってますか?」 と逆に聞かれてしまった。
「実が二つ左右に広がっていて、ヘリコプターの羽根みたいなのでパソコンで調べたけど分からなかった。」
見れば確かに細長い実が左右に付いていて、ヘリコプターや竹トンボの羽根のように見えない事もない。
名前が分かりません。教えてください
実の長さは10cmほどで、太さは太い所で2cmほどだ。葉は細長く鋸歯のようなギザギザはなく全縁で対生です。
榊(サカキ)や樒(シキミ)と似ているがそれよりは細長く見える。木は藪状で太い幹は見えなかった。
名前が分かりません。教えてください
私が余り興味を示さないので女性が
「ほらお父さん。写真を見せてあげてよ」 と男性を催促すると、男性がタブレット端末を取り出して見せてくれたのが上の写真です。
「前回ここに来たときは実が割れていて、中から白いレースのような物が見ていたので興味を感じて家に持っていったの。」
と示したのが1枚目の写真。
「家で瓶に挿しておいたら次の日に実が綺麗に割れて、白いファファした物が沢山出ていたの。」
2枚目の写真は確かに “へェー何だろう?” と感じる写真だったので 「カメラで撮っていい?」 と聞いてから写させてもらった。
名前が分かりません。教えてください
私が興味を示したことに女性は気を良くして、開きかけている実を探していたが 「今日は開きそうな実はないのね。」 と言って
一つの実を手に取ると 「ほらここに線があるでしょ。ここが割れるの」 と爪を立て始めた。
どうやらこの女性は口も達者だが手の方も達者、開いてくれた実が1枚目の写真です。
「ほらこの黒いのが種で白いものが下に延びているでしょう。今は折りたたまれていてふんわりとは見えないけど」 と言いながら
種を取り出し、 「この白いのが広がって種を風にのせるのでしょうね。」と白い物を広げようとするが開かない。
「駄目だわ。でもね本当に変わっていて綺麗なの」 と今度は新しい茎を折って私に 「家で水に挿しておくと開くわよ。」 と差し
出した。断るのも悪いし白いレース状の物も見て見たいと思い貰っておきました。
次の2枚目3枚目の写真は経塚山の帰りに女性が割った実の写真で、実から白くて細い綿毛が顔を出していました。
さてさてこの植物の名前は何と言うのでしょうね。女性が別れ際に
「これからこの木を見る楽しみができたのでウォーキングも張合いがあるし、花も見て見たい。」と言っていました。
それなら私も名前を調べてみて、分かったら小さな名札を付けておこうと思い、調べたのですが分かりませんでした。
切り通し 石 仏
タンクからの清水寺の農道と違い、こちらの農道は古い街道のような風情があります。
このような場所にある石仏は馬頭観音や青面金剛像が多いが判別できなかった。でもあるだけでも嬉しくなる。
2ヶ所目の分岐 大正時代の道標
ハイキングコースの案内は 「⇦助宗 清水寺➩」 とあるだけで右の道は案内が無かった。
だがその後ろにある石の道標には 「右 花倉ニ通ズ 左 助宗ニ通ズ」 とある。
初めてこの道を歩いたのは7年前の駿河一国三十三観音霊場巡りの時で、清水寺から花倉の補陀落寺に行くときだった。
道は清水寺で聞いてきたのでこの道に入ったのだが、太い道はすぐ終わり、後は踏跡程度の道を辿った先はタンクに続く農道でした。
結局花倉の里に行くには山越えの遠回りに道になってしまった。
石の道標は大正14年に建てたものだが、今は新東名に遮断されるなどして廃道になってしまったようです。
清水山(東)から見た経塚山 勝草橋(南)から見た経塚山
経塚山の登山道は何の知識もないが、山自体は四方から見ているのである程度の見当は付けてある。
今日歩いた清水山から経塚山を見れば、手前側からはなだらかな稜線が伸びていて途中には小屋も見えている。
地理院の地図には農道も西に向かっていて、その農道からピークまでの距離は短く、たとえ道は無くても何とかなりそうだ。
山頂から左に向かって尾根が続くが、あの辺りに塔平と呼ばれた五重塔や大伽藍が建っていた所なのか。少し歩いてみるのもいい。
今朝の勝草橋からも経塚山は見えていたが、これだと左の方が楽そうに見える。だがあの下には瀬戸川が流れているので
タイミング良く橋があるかどうかが問題だ。
峠に地蔵(西)から見た経塚山 助宗(北)から見た経塚山
一枚目は心岳寺上の峠の地蔵から写した写真ですが、ここには新東名も写っていて全体的にこんもりした山で、踏み跡さえあれば
どこからでも容易に登れそうです。
最後の写真は経塚山を北側から見た写真です。ここから見る姿は他の方向とは一変した山容で、とても私には手に負えそうも
ありません。
こうして四方から経塚山を見比べると、下から登るなら西の瀬戸川側が一番妥当だろうとは思う。
だがその前に清水山側の農道を確認しておこうと思っていたので、今日はその調査も兼ねて清水山の帰りに寄ることにしました。
3ヶ所目の分岐 4ヶ所目の分岐
3ヶ所目の分岐にもハイキングコースの案内があり、右は助宗となっていたが左の道は表示されていない。
だがこの農道が経塚山下に続く道なので、今日はこの農道を確認してみます。
表示のない方向の農道を行くとまた分岐に出た。ここは既にハイキングコースを外れているの標識は無いが、下る方向に行く事は
ないので当然右の登りを進んだ。
この農道を歩いていての注意点は、農道は経塚山の下を過ぎても西に向かっているので、途中から山道に入らなければならない。
ただその山道が余り右(北)に向ったり、下るようなら止めようと思っていた。
何故なら経塚山の北側は私には手に余る斜面なので近づかない方が良さそうです。
太くなった農道は続く 目印は無いが気になる
農道は稜線に沿って延びているので左右共に高い所は無く迷わず歩く事ができた。
そうして清水寺から20分も来た所で、農道の正面に上に続く斜面が出てきた。しかも農道はそこから下り坂になっている。
ウン!ここに間違いはないと、登り口付近に何か目印はないかと探すが、汚れた軍手が木の根に挿してあるだけだった。
まさかこれが目印とも思えないが無いよりはいいだろう。
太い木の右を巻いて上に上がると、左は自然林で右はまばらに竹が生えている。以前は茶畑だったのか茶の木も少しある。
林と畑跡の境には踏み跡が上に延びている。OK!これで間違いはない。
兎の雨宿り石か 蟻地獄?
途中には左に向かう細く平らな道のように見えるものが何ヶ所もあったが、多分昔の畑の畝跡だろうと無視して上に向かう。
平らな石を屋根のように石の上に被せた物があったがなんだろう? 人工物なら古墳の入口かもしれない。
一瞬緊張したが、まさか最近までは茶畑があって、戦国時代までは大寺院があった場所で古墳がそのままの訳はない。
たまたま自然の妙でこうなったのだろう。
それでも気になり覗いてみると、中の石の一部は火で焼いたように煤で黒くなっていた。畑を耕作しながらたき火でもしたのかな。
イヤイヤそれよりもっと珍しいものを見つけた。
擂鉢状の円錐の穴が5ヶ所もあるが、多分蟻地獄の住処、いや罠なのだろう。今まで見た事はないがイメージ的には合ってている。
辺りに虫でもいないかと探したがこの時期にいるはずはない。では指でもと思ったが止めた。何となく怖い。
ウイキペディアには
「捕らえた獲物には消化液を注入し、体組織を分解した上で口器より吸汁する。生きているアリジゴクのそ嚢には、多数の昆虫
病原菌が共生しており、殺虫活性はフグ毒のテトロドトキシンの130倍といわれている。」 良く分からないが触らないで良かった。
経塚山の三等三角点 点の記より
山頂には標高245.14m 基準点名 堀之内の三等三角点がある。
一見したところ三角点の標石の位置より、後ろの杉の木のある場所の方が高そうだったので、点の記を見ると、
案の定山頂より4m程離れた場所に三角点はあった。何故わざわざそんな事をするのだろう?
基準点名の堀之内とは経塚山から南の藤枝総合グランド辺りの地名ですが、何となく気になりますよね。
城やお堀がないのに堀之内なんて。
山頂は周りは木や竹に覆われていて景色は見えない。以前藤枝の夜景スポットの紹介で
「経塚山から見る夜景は、焼津市、藤枝市、島田市、大井川辺りまで見渡せる非常にスケールの大きい夜景が楽しめます。」 とあり
農業タンクと共に写した夜景がアップされていた。
どうやら清水山と経塚山を取り違えたようだが、何故マイナーな “経塚山” の名前を使ったのか、疑問を感じて追いかけてみました。
すると藤枝市の発行した “市街地を見下ろす眺望地” の中に経塚山が入っていて、清水山(タンク)は入っていませんでした。
夜景スポットの管理者は多分この文章を読み、夜間に車で現地に行ったため勘違いをしたのでしょう。
ただ、この展望地の中には他にも烏帽子形山、高尾山、潮山、藤枝総合運動場等も入っているのであてになりません。
山頂北側の道 山頂の茶畑跡
山頂から北に延びる平坦な尾根を少し歩いて、かっての五重塔の礎石でも探してみようとザックを置いて出かけた。
尾根には北に下る道が続いていて、左(西)側には放置茶畑がある。何となく広い区間もあり昔ここに寺院があった事も頷ける。
大分行っても同じような感じで、そのうち道が下りだした所で止めにした。道を辿っても礎石等見つかる筈はないと。
山頂に戻り下るとき気付いたのは茶畑の跡です。普通生産を止めた茶畑はそのまま放置され、茶の木は人の背よりも高くなり
間を歩けなくなる厄介物です。それがここでは茶の木を根元で切断して、その切った茶の木もここにはありません。
この農家の人が何を思ってこうしたのか分かりませんが有難い事です。また来てみようかとの思いも湧いてきます。
ただ例により竹の浸食が始まっているので、いつかは薄暗い竹林の山頂になりそうです。
そこで提案。清水寺ではかって寺院があったこの地に奥の院を建てたらどうだろう。そして周りの木や竹を伐採すれば、藤枝市の
文章も嘘ではなくなる展望地になる。
更に辺りを調査すれば必ず三重塔などの礎石も見つかるし、蟻地獄のあった石も実際は古墳かもしれない。
また勝手な妄想が始まってしまった。止めます。
林道合流部 清水山
あっという間に林道の合流部に着いてしまい本日の冒険は終了。
山頂に三角点があるので三角点ハンターの踏み跡はあるだろうと思ってはいたが、少しの藪漕は覚悟していた。
それが想定以上に簡単なコースで、少々ガッカリしたのは自惚れだろうか。
行きでは気づかなかったが清水山が見えていて、耕作地の横には小屋もある。多分山の上から見えた小屋だろう。
この辺りも平地があり古清水寺の十二院の諸堂があった地かもしれない。
藤枝市街も見えた 清水山からの合流部
約1時間で清水寺に戻ってきました。
後は歩き慣れた道を勝草橋まで歩くだけです。
清水寺参道 不動尊
藤枝総合グラウンド場 桜トンネル
勝草橋 勝草橋から経塚山と清水山
3時丁度に勝草橋に到着。今日はここに自転車を置いてあるので帰りは楽だ。
で、どうしよう。このまま帰るべきか、もう一つ行くべきか。ここは思案のしどころだ。