歩行記録 H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分 休憩時間:2時間15分 延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分 到着時刻:16時05分
歩 数: 40、707歩(推定距離28.9km) GPS距離29.4km
行程表
天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
(まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅
湖北五山概略図
天白遺跡から竜ヶ岩洞方面への地図
◎道案内7
・磐座遺跡から適宜南西の方角に下る。(正規は神社の横に下ってから、川沿いの道を行く)
・すぐ道が二手に別れるので、下に橋が見える左の道を下り学校の裏を進む。
・左より狭い橋(奥山線鉄橋跡)から来る道と合流するので右折してその道を道なりに進む。
軽便鉄道奥山線鉄橋跡 セメント工場?
天白磐座遺跡の見学が終えたら斜面を適宜川に向かって下れば道に出るので、その道を右に曲がっていく。
この川は井伊谷宮の横を流れていた神宮寺川で、奥山方広寺を過ぎ風越峠までは基本的にこの川を遡ることになる。
学校のの裏を歩いているとやけに立派な赤い鉄橋が見てきた。後で分かったのだがこの鉄橋は浜松と奥山を結んでいた遠州鉄道
奥山線の鉄橋を利用したものだった。
赤煉瓦の橋脚に赤いペンキが塗られ新品のように見える橋桁だが、 「大正12年東京石川島造船所製」 だった。
因みに奥山線は浜松から今回の出発地金指までは大正3年に開通されたが、そこから奥山までは難航して大正12年に開通している。
奥山まで延長した主目的は半僧坊大権現で知られた方広寺の参拝客が目当てだったようだが、昭和38年には気賀・奥山は廃止され、
翌年には全線廃止となったそうです。
今日歩く天白磐座遺跡の鉄橋から奥山までの道は、図らずもこの奥山線の跡を辿っていました。
西の方角に山を削っている工場が見えるが、採石場所にしては施設の規模が大きく、採掘している部分は白っぽく、しかも埃が
漂っているのが見える。多分石灰岩からセメントを作る工場なのだろう。
引佐には以前は大きなセメント工場があったらしいが、あれの事なのかな?
竜ヶ岩洞方面と方広寺への地図
◎道案内8
・県道303号に出たら県道を横断して竜ヶ岩洞入口の看板の指示方向に進む。
・竜ヶ岩洞入口を右に見ながら直進する。途中分岐があるが道なりに進む。
竜ヶ岩洞入口 竜ヶ岩洞
左の川沿いの広い空地の横の建物に 「竜ヶ岩洞 あゆ狩り園」 とあったが、やけに広い駐車場だった。
夏場はこの駐車場が車で一杯になるのだろうか?多分そんな事はないだろう。きっと竜ヶ岩洞の臨時駐車場も兼ねているのだろう。
その駐車場の右には公衆便所の看板と竜ヶ岩洞入口の看板がある。大きく立派だったように見えるトイレは今は閉鎖されている。
井の中に虎を描いた旗が一枚寂しげに揺れていた。こんな事じゃ観光客は喜ばない。
古い石垣も 新しい石垣も
引佐や三ケ日のいわゆる湖北地方を歩いていると石垣の多さに目を惹かれる。斜面が多いので石垣は必然的に多いのだろうが
その石垣に使われている石は赤っぽい石が多い。
以前気になって石垣のある家の人に石の種類を聞いたら 「近所の山石だ。」 と云っていた。
さらに調べると石垣に利用する 「三ケ日石」 なる物がある事は分ったが岩の種類などは分らないままだった。
話が後先になってしまうが三ケ日の 「ミカンの里博物館」 で 「三ケ日地方はチャートと呼ばれる石が多く、それがミカンを美味しく
させている秘密です。」 と聞いた。さらに天白磐座遺跡の巨岩はチャ-トという石だという事も分かった。
先ずはお得意のウイキペディアには 「チャートは、堆積岩の一種。主成分は二酸化ケイ素(石英)で、この成分を持つ放散虫・
海綿動物などの殻や骨片が海底に堆積してできた岩石。非常に硬い岩石で、色は赤色、緑色、淡緑灰色、淡青灰色、灰色、黒色
など様々な色のものがある。」
ウーン引佐には竜ヶ岩洞やセメント工場もあり、石灰岩の産地だと思っていたのだが、チャートと石灰岩は違う物なのか?
チャートは “非常に硬い岩石” とあるが、石灰といえば畑の苦土石灰や運動場のライン引きの石灰の粉を思い浮かべる。
また石灰岩でできた鍾乳洞は水にも溶けるので柔らかい岩石と思っていたのだが・・・・・
石灰岩を調べてみると、チャートと同じように生物の死骸などが固まった堆積岩だが、岩の成分が石灰岩は炭酸カルシウムで
チャートは二酸化ケイ素だった。その違いが何だか理解はできないが、同じような生物の死骸からできているのに違う岩石になると
いう事は生物の種類が違うのか? それにしてもチャートに該当する日本語が無いのは何故なんだろう。
結局私の知能では理解できない事のようで棚上げにするしかなかった。
露岩しているチャート?石灰岩? 崩れてもいた
奥山方広寺への道
◎道案内9
・前方に県道が見えてくる所にある、下の写真分岐1を右折する。
・右折したら分岐2の写真の場所を左折する。
(分りにくければ点線のように県道を横断しても合流すれば分かりやすい)
・奥山神社を過ぎて下に見える県道の信号を横断する。
・川を渡り点線の道と合流した所には奥山線の案内板が建っている。そこを右折して川を右に見ながら進む。
・道なりに歩いていくと川を渡る橋との分岐に出るが、橋を渡らずそのまま直進する。
分岐点1 分岐点2
この分岐を曲がっても何が有るわけでもないので道なりに進み県道を横断した方が分かりやすい。
ただ細い道は奥山方広寺に続く遍路道だったのではないかと思う。
神宮寺川を渡る 浜松軽便鉄道奥山線の案内板
神宮寺川を渡ったコミュニティーセンター “小斎藤(こざいとう)会館” の横に建つ 「浜松軽便鉄道奥山線の案内板」 を見ると、
天白磐座遺跡からは奥山線の廃線跡を辿ったようで、交通量が少なく歩くのにはよい道で助かった。この会館近くにかっての
“小斎藤駅” があったようです。
岩場に立つお地蔵さん 戦没者慰霊塔
道の分岐にお地蔵さんが祀られていた。白っぽい露岩の上だが、これはチャートか石灰岩か。どうも気になっていけない。
隣にある戦没者慰霊塔の階段も現地調達の岩で造ったようだが、造作が雑なのか崩れかけている。
危ないので上に行くのは止めよう。
奥山方広寺への道
◎道案内10
・道なりに歩いて行き二か所目の名倉製作所の前で右折して橋を渡る。
・橋を渡って合流した道を左折する。
奥山方広寺への道(道が一部青くなってしまいました)
◎道案内11
・左折して少し行った所に半僧坊の道標があるので、それに従い右の道を登る。
・坂を登っていくと広い駐車場がありトイレもあるので昼飯場所に丁度良い。
県道には駐車場左の階段を登っても良い。
・県道に出たら左に進むと右に鳥居があり、参道の門前街を通っていけば方広寺の総門に出る。
駐車場とトイレ 県道のバス停に立つ石塔
広い駐車場を後はトイレが無いのでここで昼飯にすると便利です。尤も拝観料を払って境内に入ればトイレはあるでしょうが
ゴールの時間が気になる行程なので当然有料区間には入りません。
昼食が終り階段を登ると斜め右のバス停の後ろに常夜灯と石塔があるのだが、案内がないので何の石塔かもわからない。この上に
東隠院という寺があるのでその関係か。立派な石塔なのだから案内してくれると嬉しいのだが。
奥山名物大あん巻 小倉あんと苺あん
奥山名物は大あん巻と油揚げ。まだ油揚げは買った事はないが大あん巻は奥山に来た時は土産に買って帰っている。
甘い物はあまり好きではないが何故かあんこ物は好きで、今も大あん巻を食べながらブログの更新をしている。
あんこは小栗、苺、白の3種類があり白あんは確か50円安かったように記憶している。今回は小倉と苺を買ったが千円だったかな?
チョッと記憶は薄れてしまった。大あん巻の土産物屋は奥山バス停の前ですぐ分かります。
奥山方広寺入口 門前通り
“淋しさにまけた~ イエ世間にまけた~♬” と大正ロマンを感じさせる佇まいの門前通りだが、実際は平成のシャッター通りだった。
開いていたのは総門前の土産物屋兼ソバ屋と油揚げを売る店だけだった。
大正時代に開通した軽便鉄道は、この方広寺の参拝客を見込んで開通したようだが今ではこのていたらく。
無信心が増えた世の中を方広寺の守り本尊・半僧坊はさぞかし嘆いている事だろう。
総 門 弁天池と山門
総門は通称黒門と云うようだが法多山の黒門に比べ黒門のイメージは湧きにくい。それより門に掛かった扁額の文字は何と読む
のだろう。HPを調べたが載っていなかった。
方広寺は通称 「奥山方広寺」 とか 「奥山半僧坊」 と呼ぶが、正式には 「深奥山(じんのうざん)方広寺」 と称する臨済宗方広寺派の
大本山です。
開山は無文元選(むもんげんせん)禅師と聞いた事はない人ですが、後醍醐天皇の皇子で井伊谷宮に祀られている宗良親王とは
腹違いの弟になるようです。ならば頼朝・義経の “黄瀬川の対面” のように兄弟の顔合わせが井伊谷でも行われたのではないか。
早速調べてみたが宗良親王が井伊谷に来たのが1338年で無文元選は1371年と大分開きがあった。
1371年頃と云えばすでに宗良親王の南朝方は敗色寸前で、親王自身も各地を逃げ回るようになっていた。
こんな状態では兄弟の対面は難しいだろうが、ウイキペディアにこんな説があった。
「宗良親王は1385年に遠江国井伊城で薨去。」 なら近くに住む弟なら兄のお見舞いに当然行く。だがそんな説は無いようだ。
更に遠州には後醍醐天皇の皇子伝説は他にもある。
今年の夏に歩いて挫折してしまった “遠江33観音霊場巡り” の7番慈眼寺にはこんな話が伝えられていた。
「1335年に後醍醐天皇の皇子が天竜川河口に上陸して、この地にお堂を立て亡くなるまでの17年間を住まわれた。その従者が
皇子の逝去を嘆いて観音堂を建て霊を慰めたのが慈眼寺の始まりです。」
1335年に慈眼寺に祀られた皇子が遠州に来た。その3年年後の1338年に宗良親王も天竜川河口に上陸している。更に30年後に
方広寺の開山も遠州に来ている。
年代だけで追えば、慈眼寺の皇子と宗良親王は当然顔を合わせていると思われ、方広寺の皇子と宗良親王も顔合わせのチャンスは
あった。なのにそんな説を見つからない。
ただ、慈眼寺の皇子は名前も分からず真偽のほどは定かでないので、遍路のブログにはこんな妄想的歴史観を書いていた。
「天竜川河口で座礁した皇子の船には、京から連れてきた宗良親王の側室も乗っていた。側室は座礁の際の衝撃で怪我をしてしまい、
これ以上一緒に連れ歩く事もままならず、親王はやむを得ずその地にお堂を建てて側室を住まわせることにした。
生活の面倒を見させるため家来のを残し、自らは伊井谷を目指して進軍をした。
残された愛人は怪我のため歩く事もままならぬ身になり、いつもお堂の中でひっそり暮らしていた。そのため村人はお堂に住む人の
正体が分からなかったが、お堂を建てたり家来もかしずいているので、きっと皇子に違いないと思うようになった。」
どうですか、慈眼寺の皇子と宗良親王は同一人物にして、慈眼寺祀られたのは親王の側室とした私の説は。
そうそう後醍醐天皇から子供を調べようとしたら、何と関係を持った女性は30人以上で、もうけた子供33人もいた。
これは歴代の天皇の中でベスト2の多さだという。因みにNO1は醍醐天皇だそうですが、正に英雄色を好むで羨ましいー。
総門を潜ると駐車場があり新しい拝観受付が出来ていた。以前は拝観受付が山門の先にあったので五百羅漢の少しと山門も
見る事ができたのに、何ともマー世知辛い事をするものだと自分ケチを棚に上げ愚痴る私でした。
歩行時間:6時間40分 休憩時間:2時間15分 延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分 到着時刻:16時05分
歩 数: 40、707歩(推定距離28.9km) GPS距離29.4km
行程表
天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
(まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅
湖北五山概略図
天白遺跡から竜ヶ岩洞方面への地図
◎道案内7
・磐座遺跡から適宜南西の方角に下る。(正規は神社の横に下ってから、川沿いの道を行く)
・すぐ道が二手に別れるので、下に橋が見える左の道を下り学校の裏を進む。
・左より狭い橋(奥山線鉄橋跡)から来る道と合流するので右折してその道を道なりに進む。
軽便鉄道奥山線鉄橋跡 セメント工場?
天白磐座遺跡の見学が終えたら斜面を適宜川に向かって下れば道に出るので、その道を右に曲がっていく。
この川は井伊谷宮の横を流れていた神宮寺川で、奥山方広寺を過ぎ風越峠までは基本的にこの川を遡ることになる。
学校のの裏を歩いているとやけに立派な赤い鉄橋が見てきた。後で分かったのだがこの鉄橋は浜松と奥山を結んでいた遠州鉄道
奥山線の鉄橋を利用したものだった。
赤煉瓦の橋脚に赤いペンキが塗られ新品のように見える橋桁だが、 「大正12年東京石川島造船所製」 だった。
因みに奥山線は浜松から今回の出発地金指までは大正3年に開通されたが、そこから奥山までは難航して大正12年に開通している。
奥山まで延長した主目的は半僧坊大権現で知られた方広寺の参拝客が目当てだったようだが、昭和38年には気賀・奥山は廃止され、
翌年には全線廃止となったそうです。
今日歩く天白磐座遺跡の鉄橋から奥山までの道は、図らずもこの奥山線の跡を辿っていました。
西の方角に山を削っている工場が見えるが、採石場所にしては施設の規模が大きく、採掘している部分は白っぽく、しかも埃が
漂っているのが見える。多分石灰岩からセメントを作る工場なのだろう。
引佐には以前は大きなセメント工場があったらしいが、あれの事なのかな?
竜ヶ岩洞方面と方広寺への地図
◎道案内8
・県道303号に出たら県道を横断して竜ヶ岩洞入口の看板の指示方向に進む。
・竜ヶ岩洞入口を右に見ながら直進する。途中分岐があるが道なりに進む。
竜ヶ岩洞入口 竜ヶ岩洞
左の川沿いの広い空地の横の建物に 「竜ヶ岩洞 あゆ狩り園」 とあったが、やけに広い駐車場だった。
夏場はこの駐車場が車で一杯になるのだろうか?多分そんな事はないだろう。きっと竜ヶ岩洞の臨時駐車場も兼ねているのだろう。
その駐車場の右には公衆便所の看板と竜ヶ岩洞入口の看板がある。大きく立派だったように見えるトイレは今は閉鎖されている。
井の中に虎を描いた旗が一枚寂しげに揺れていた。こんな事じゃ観光客は喜ばない。
古い石垣も 新しい石垣も
引佐や三ケ日のいわゆる湖北地方を歩いていると石垣の多さに目を惹かれる。斜面が多いので石垣は必然的に多いのだろうが
その石垣に使われている石は赤っぽい石が多い。
以前気になって石垣のある家の人に石の種類を聞いたら 「近所の山石だ。」 と云っていた。
さらに調べると石垣に利用する 「三ケ日石」 なる物がある事は分ったが岩の種類などは分らないままだった。
話が後先になってしまうが三ケ日の 「ミカンの里博物館」 で 「三ケ日地方はチャートと呼ばれる石が多く、それがミカンを美味しく
させている秘密です。」 と聞いた。さらに天白磐座遺跡の巨岩はチャ-トという石だという事も分かった。
先ずはお得意のウイキペディアには 「チャートは、堆積岩の一種。主成分は二酸化ケイ素(石英)で、この成分を持つ放散虫・
海綿動物などの殻や骨片が海底に堆積してできた岩石。非常に硬い岩石で、色は赤色、緑色、淡緑灰色、淡青灰色、灰色、黒色
など様々な色のものがある。」
ウーン引佐には竜ヶ岩洞やセメント工場もあり、石灰岩の産地だと思っていたのだが、チャートと石灰岩は違う物なのか?
チャートは “非常に硬い岩石” とあるが、石灰といえば畑の苦土石灰や運動場のライン引きの石灰の粉を思い浮かべる。
また石灰岩でできた鍾乳洞は水にも溶けるので柔らかい岩石と思っていたのだが・・・・・
石灰岩を調べてみると、チャートと同じように生物の死骸などが固まった堆積岩だが、岩の成分が石灰岩は炭酸カルシウムで
チャートは二酸化ケイ素だった。その違いが何だか理解はできないが、同じような生物の死骸からできているのに違う岩石になると
いう事は生物の種類が違うのか? それにしてもチャートに該当する日本語が無いのは何故なんだろう。
結局私の知能では理解できない事のようで棚上げにするしかなかった。
露岩しているチャート?石灰岩? 崩れてもいた
奥山方広寺への道
◎道案内9
・前方に県道が見えてくる所にある、下の写真分岐1を右折する。
・右折したら分岐2の写真の場所を左折する。
(分りにくければ点線のように県道を横断しても合流すれば分かりやすい)
・奥山神社を過ぎて下に見える県道の信号を横断する。
・川を渡り点線の道と合流した所には奥山線の案内板が建っている。そこを右折して川を右に見ながら進む。
・道なりに歩いていくと川を渡る橋との分岐に出るが、橋を渡らずそのまま直進する。
分岐点1 分岐点2
この分岐を曲がっても何が有るわけでもないので道なりに進み県道を横断した方が分かりやすい。
ただ細い道は奥山方広寺に続く遍路道だったのではないかと思う。
神宮寺川を渡る 浜松軽便鉄道奥山線の案内板
神宮寺川を渡ったコミュニティーセンター “小斎藤(こざいとう)会館” の横に建つ 「浜松軽便鉄道奥山線の案内板」 を見ると、
天白磐座遺跡からは奥山線の廃線跡を辿ったようで、交通量が少なく歩くのにはよい道で助かった。この会館近くにかっての
“小斎藤駅” があったようです。
岩場に立つお地蔵さん 戦没者慰霊塔
道の分岐にお地蔵さんが祀られていた。白っぽい露岩の上だが、これはチャートか石灰岩か。どうも気になっていけない。
隣にある戦没者慰霊塔の階段も現地調達の岩で造ったようだが、造作が雑なのか崩れかけている。
危ないので上に行くのは止めよう。
奥山方広寺への道
◎道案内10
・道なりに歩いて行き二か所目の名倉製作所の前で右折して橋を渡る。
・橋を渡って合流した道を左折する。
奥山方広寺への道(道が一部青くなってしまいました)
◎道案内11
・左折して少し行った所に半僧坊の道標があるので、それに従い右の道を登る。
・坂を登っていくと広い駐車場がありトイレもあるので昼飯場所に丁度良い。
県道には駐車場左の階段を登っても良い。
・県道に出たら左に進むと右に鳥居があり、参道の門前街を通っていけば方広寺の総門に出る。
駐車場とトイレ 県道のバス停に立つ石塔
広い駐車場を後はトイレが無いのでここで昼飯にすると便利です。尤も拝観料を払って境内に入ればトイレはあるでしょうが
ゴールの時間が気になる行程なので当然有料区間には入りません。
昼食が終り階段を登ると斜め右のバス停の後ろに常夜灯と石塔があるのだが、案内がないので何の石塔かもわからない。この上に
東隠院という寺があるのでその関係か。立派な石塔なのだから案内してくれると嬉しいのだが。
奥山名物大あん巻 小倉あんと苺あん
奥山名物は大あん巻と油揚げ。まだ油揚げは買った事はないが大あん巻は奥山に来た時は土産に買って帰っている。
甘い物はあまり好きではないが何故かあんこ物は好きで、今も大あん巻を食べながらブログの更新をしている。
あんこは小栗、苺、白の3種類があり白あんは確か50円安かったように記憶している。今回は小倉と苺を買ったが千円だったかな?
チョッと記憶は薄れてしまった。大あん巻の土産物屋は奥山バス停の前ですぐ分かります。
奥山方広寺入口 門前通り
“淋しさにまけた~ イエ世間にまけた~♬” と大正ロマンを感じさせる佇まいの門前通りだが、実際は平成のシャッター通りだった。
開いていたのは総門前の土産物屋兼ソバ屋と油揚げを売る店だけだった。
大正時代に開通した軽便鉄道は、この方広寺の参拝客を見込んで開通したようだが今ではこのていたらく。
無信心が増えた世の中を方広寺の守り本尊・半僧坊はさぞかし嘆いている事だろう。
総 門 弁天池と山門
総門は通称黒門と云うようだが法多山の黒門に比べ黒門のイメージは湧きにくい。それより門に掛かった扁額の文字は何と読む
のだろう。HPを調べたが載っていなかった。
方広寺は通称 「奥山方広寺」 とか 「奥山半僧坊」 と呼ぶが、正式には 「深奥山(じんのうざん)方広寺」 と称する臨済宗方広寺派の
大本山です。
開山は無文元選(むもんげんせん)禅師と聞いた事はない人ですが、後醍醐天皇の皇子で井伊谷宮に祀られている宗良親王とは
腹違いの弟になるようです。ならば頼朝・義経の “黄瀬川の対面” のように兄弟の顔合わせが井伊谷でも行われたのではないか。
早速調べてみたが宗良親王が井伊谷に来たのが1338年で無文元選は1371年と大分開きがあった。
1371年頃と云えばすでに宗良親王の南朝方は敗色寸前で、親王自身も各地を逃げ回るようになっていた。
こんな状態では兄弟の対面は難しいだろうが、ウイキペディアにこんな説があった。
「宗良親王は1385年に遠江国井伊城で薨去。」 なら近くに住む弟なら兄のお見舞いに当然行く。だがそんな説は無いようだ。
更に遠州には後醍醐天皇の皇子伝説は他にもある。
今年の夏に歩いて挫折してしまった “遠江33観音霊場巡り” の7番慈眼寺にはこんな話が伝えられていた。
「1335年に後醍醐天皇の皇子が天竜川河口に上陸して、この地にお堂を立て亡くなるまでの17年間を住まわれた。その従者が
皇子の逝去を嘆いて観音堂を建て霊を慰めたのが慈眼寺の始まりです。」
1335年に慈眼寺に祀られた皇子が遠州に来た。その3年年後の1338年に宗良親王も天竜川河口に上陸している。更に30年後に
方広寺の開山も遠州に来ている。
年代だけで追えば、慈眼寺の皇子と宗良親王は当然顔を合わせていると思われ、方広寺の皇子と宗良親王も顔合わせのチャンスは
あった。なのにそんな説を見つからない。
ただ、慈眼寺の皇子は名前も分からず真偽のほどは定かでないので、遍路のブログにはこんな妄想的歴史観を書いていた。
「天竜川河口で座礁した皇子の船には、京から連れてきた宗良親王の側室も乗っていた。側室は座礁の際の衝撃で怪我をしてしまい、
これ以上一緒に連れ歩く事もままならず、親王はやむを得ずその地にお堂を建てて側室を住まわせることにした。
生活の面倒を見させるため家来のを残し、自らは伊井谷を目指して進軍をした。
残された愛人は怪我のため歩く事もままならぬ身になり、いつもお堂の中でひっそり暮らしていた。そのため村人はお堂に住む人の
正体が分からなかったが、お堂を建てたり家来もかしずいているので、きっと皇子に違いないと思うようになった。」
どうですか、慈眼寺の皇子と宗良親王は同一人物にして、慈眼寺祀られたのは親王の側室とした私の説は。
そうそう後醍醐天皇から子供を調べようとしたら、何と関係を持った女性は30人以上で、もうけた子供33人もいた。
これは歴代の天皇の中でベスト2の多さだという。因みにNO1は醍醐天皇だそうですが、正に英雄色を好むで羨ましいー。
総門を潜ると駐車場があり新しい拝観受付が出来ていた。以前は拝観受付が山門の先にあったので五百羅漢の少しと山門も
見る事ができたのに、何ともマー世知辛い事をするものだと自分ケチを棚に上げ愚痴る私でした。