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Channel: はぐれ遍路のひとりごと
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初歩き:湖北五山初詣3

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歩行記録   H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分   休憩時間:2時間15分   延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分     到着時刻:16時05分
歩  数: 40、707歩(推定距離28.9km)    GPS距離29.4km
行程表
 天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
 井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
 奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
 (まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅

                                     湖北五山概略図


           
                         龍胆寺から井伊谷宮までの地図
◎道案内5
 ・龍潭寺の井伊家歴代の墓を通り過ぎれば井伊谷宮の宗良皇子の御陵の前に出る(案内板有)
 ・井伊谷宮の参拝が済んだら鳥居を潜り県道に出る。

 
                宗良親王御墓入口1                          宗良親王御墓入口2

 龍潭寺の井伊家歴代の墓地をお参りして、そのまま進めばあっけなく井伊谷宮の境内に出る事ができる。
この道を知らないと龍潭寺からいったん県道に出て、井伊谷宮の鳥居を潜る正規な道になり、かなりの遠回りになってしまう。
何しろ信心心の無い俄か遍路の私ゆえ、正規な道より近い方が良いと、毎回この道を利用しています。

 井伊谷宮の境内に入るとまず目につくのは宮内庁管轄の宗良(むねなが)親王の墓の入口だが、いつもは必ず閉じられている
その門扉が何と開いていた! 掃除中かしら?と耳を澄ませても何の物音はしない。入口に建つ宮内庁の看板には
 「一、みだりに域内に入らぬこと 一、魚鳥等を取らぬこと 一、竹木等を切らぬこと 宮内庁」 と、どうでもない事を書いてある。
なら今はお墓にお参りするのだから “みだり” ではない。と勝手な言い訳を用意して中に入ることに。

 すると今度は鳥居を構えた入口がある。ここまで来たら当然中でお参りしないと・・・・

 
               宗良親王御墓入口3                            宗良親王墓碑(正面)

 更に鳥居の中にあった第3の扉は閉まっていたが、その先には井伊谷宮の本殿が見えていた。
最後の囲いの中には宝篋印塔の形をした石塔が建ち、そこには 「冷湛寺殿」 の文字が彫られているのが見えた。

 “冷湛寺殿” っていったい何なんだ? 読みは “れいたんじ” か、しかし読みようにっては “りょうたんじ” と読めないか。
仮に “りょうたんじ” なら龍潭寺と同じ読みになる。調べてみると
 「宗良親王は74歳の生涯を終え井伊谷の地蔵院に葬られた。法号の「冷湛寺殿」にちなみ地蔵院は冷湛寺と改称した。」 との
説を見つけた。だが伊井谷宮のHPには
 「当宮は、明治5年に明治天皇の思し召しにより御鎮座、翌6年には静岡県内でも数少ない官弊社(井伊谷宮は官弊中社)という
格式高い神社となりました。」 と明治時代に創建したとある。
一方先程歩いて来た龍潭寺にあった案内板には
 「龍潭寺は元井伊八幡宮の境内でしたが、五百年前井伊氏がこの地に龍泰寺(現龍潭寺)を造営しました。」 とあった。
更にウイキペディアによれば
  「龍潭寺の寺伝によれば、行基によって開かれ当初の寺号は地蔵寺であったが井伊共保が葬られた際に、その法号から
自浄寺と改められた。戦国時代に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。」

もうこれだけでも頭はパニック状態だが更にこれから行く渭伊神社に建つ縁起書には
 「風土記に延喜式神名帳中遠江国引佐郡渭伊神社とあり又・・・・・井伊家祖先共保寛弘七年其神井より出生以来産神として
信仰厚し。渭伊神社は往昔今の龍潭寺境内にありしも南北兵乱の時現今の地に移せりという。往今より渭伊二十七郷の
大産神なり、旧地頭近藤氏の崇敬厚し  井伊谷村誌より」

 これだけ種々の説があるなら私も参加して妄想的歴史観を披露してもかまわないだろう。
 「地蔵寺と渭伊神社が並び建っていた頃、渭伊神社の御手洗い井戸の脇に捨て子があった。捨て子は成長して井伊共保となり
井伊家の基礎を築き、亡くなるとその法号から地蔵寺を自浄寺と改められた。
南北朝の戦いが始まり後醍醐天皇の皇子、宗良親王が井伊谷に転戦してくると、渭伊神社付近を砦として整備するため神社を
天白に移転し、地蔵寺は砦としての機能を果たすようにした。
時は過ぎ戦国時代に入ると井伊家の当主直盛も桶狭間の戦いのあと殉死し、その法号から自淨寺を龍潭寺にと改名する。
明治に入り建武中興に尽力した人々を祀る神社が作られた中、彦根藩の知藩事・井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祭る神社の
創建を出願し、井伊家の菩提寺の横に井伊谷宮を設立した。奇しくもその場所はかって渭伊神社が建っていた場所であった。」

        
           宗良親王墓碑(裏)                              本殿(裏)

 “冷湛寺” の法号から変な方向に話がいってしまったので元に戻します。
実はこの宝篋印塔を見て不自然に感じた事がある。確かに墓の入口から入ってきたのだから、墓碑の正面が入口側を向いて
いるのは分る(墓碑の裏側から写した写真には鳥居が写っている)。
しかし御墓入口3の写真を見てください。墓碑の後ろに本殿が見えています。この写真は墓碑の正面側から写したものですので
墓と本殿が背中合わせの状態になっているのです。
要はお寺の本堂の裏に建つ墓が後ろ向きに建っている状態です。これでは僧の勤行を後ろ向きで聞く状態です。
不思議に思い井伊谷宮のHPを見るとこんな事が書いてありました。
 「宗良親王御墓は、京都(西)に向いてたてられております。」
成程な、それで本殿と墓が背中合わせなのか。なら井伊谷宮自体を西向きにすればとも思ったが、それも何となく不自然かな。

        
               ご神木                                    拝 殿

 ご神木の周りに結ばれているおみくじは、初詣の参拝者が今年の運勢を占った残骸ともいえる。
おみくじは “大吉” が出ればお守りとして持ち帰る人が多いと聞くが、そうなるとこのおみくじは “凶” や “大凶” ばかりのカスなのか。
先日新聞に面白い事が書いてあった。おみくじの吉や凶の順番について定まったものはなく、神社によって違うという。
例えば 「大吉➜中吉➜小吉➜吉➜末吉➜凶➜大凶」 があると思えば 「大吉➜吉➜中吉➜小吉➜末吉➜凶➜大凶」 もあるという。
その理由は色々だが、中吉が吉の上なのは 「大吉と吉の中間が中吉」 との判断で、中吉が吉の下は 「吉と凶の間」 となるらしい。
しかもこれらの呼名の種類も神社により違い、大凶は勿論 凶や中吉などもない神社もあるという。
私のおみくじは何だったのかって・・・・ 私は他力本願的なおみくじや宝くじはやりません。と、建前では言いますが、お金を払って悪い
結果になるのが嫌なだけです。

 
                  拝殿を望む                                    参 道

 時間は丁度9時、まだ早すぎるのか参拝者はホンの少々で写真には、入り込まなかった。
寺に比べ神社の正月は派手に衣替えするので初詣が多いのだろうか。だが例年行っていた遠州三山は、お寺なのに参拝者は
多かった。尤も小笠山を越えて行っていたので時間が11時を過ぎていたのも影響しただろう。ここだって11時ごろになれば
参拝客で溢れる事だろう。

   
                         井伊谷宮から渭伊神社までの地図
◎道案内6
 ・井伊谷宮の正面から県道に出る。県道を北に向かい神宮寺川を渡ったらすぐ団地に入る道を左折する。
 ・新しい太い道に合流したら右折する。(井伊谷宮の横の道をから新しい道に出る事もできる)
 ・2本目の角にある寺が妙雲寺。
 ・妙雲寺を出たら西に向かい丁字路を右折すれば渭伊神社の境内が見える。
 ・神社の左側に2本の道があるので、1本目の道を上に登るとすぐ磐座遺跡がある。

 
                  妙心寺                                   妙心寺案内板

 妙心寺は今までは寺の裏を歩いていたが寄った事はなかった。それが今回の直虎ブームで、妙心寺が直虎の菩提寺で位牌が
安置されていると紹介されたので寄ってみる事にした。
だが妙心寺は無住の寺のようで中には入れ無かったが、入口に新しい案内板が掲げられていた。
読んでみたが直虎に関しては、妙心寺の寺号が直虎の “妙心院殿”ち因むという事ぐらいだった。それよりこんな記述が気になった 。
 「妙心寺周辺は “北神宮司遺跡” という井伊谷でも最大級の遺跡の所在地です。発掘調査を行い縄文時代から江戸時代にかけて
人々がこの地に住み続けた事が明らかになりました。」 だが案内板の写真には甕や皿などで期待した銅鐸は写っていなかった。
実は井伊谷より少し南の旧細江町には銅鐸が6基も発見された 「銅鐸の谷」 があり、そこには銅鐸が出土した様子を再現した
レプリカが展示されているそうです。細江町では他の場所でも銅鐸が発見されており、天白遺跡があるここでも発掘されたのかと
期待したのですが・・・・・

        
                     渭伊神社                                      ご神木

 渭伊神社の境内の一部を整地した場所でゲートボールをやっていた。最近はグランドゴルフが盛んでゲートボールは見かけ
なくなって久しいが、何故ここではゲートボールが残っているのだろう? と、すぐ余計なことを考えるのが私の悪い癖。
でも考える。
二つの競技の違いはゲートボールは5人一組の団体競技で、ゲーム性が高くルールがゲートボールに比べ若干複雑だが、
その分奥深いスポーツらしい。それに比べグランドゴルフは個人競技で、ルールは単純で複雑な技術も必要ないらしい。
こうなれば協調性の低い都会の住民はグランドゴルフに靡き、周りの動向に気を使う田舎ではゲートボールを捨てきれない。
多分ここにはゲートボールの上手なボスがいるのだろう。
私は当面どちらもやる気はないが、やるなら当然グランドゴルフだと思う。強調性が無く、なんでも人のせいにするので、チームの
仲間に嫌われてしまうと思うから。

 
        摂社の社の裏に磐座らしき物が見えた                        矢張り磐座だった

 小さな社の裏山の上に大きな岩が見えている。前回までは気が付かずに磐座まで参道を登っていたが、よく見れば踏み跡もある。
ならばここから登っても罰も当たらないだろうと踏み跡を登り、あっけなく着いた岩場は矢張り磐座だった。

 
               天白磐座遺跡                            磐座の後ろは住宅地だった

 岩場を左に回り込むとそこが磐座の正面で注連縄も張ってある。岩の間を通り磐座の後ろに出ると林の先には住宅が見えていた。
前回来た時はこの丘全体に低い藪があったが、今は綺麗に切り取られている。これも直虎ブームの影響だろうか。

    
                           渭伊神社境内にある「磐座」の解説図

 磐座を簡単に言うなら 「神が降臨する岩石」 なのだろうか。なので山上の巨岩が磐座になると思っていた。
今まで見た静岡県の磐座で、ここ天白磐座遺跡と粟ヶ岳の磐座巨石群は、正しく 「神が降臨する岩石」 と思われた。
だが島田金谷巌室稲荷神社の巨石や島田波田の立石稲荷の巨石は、巨石であるのは違いないが、山の麓で神がこの降臨する
岩石を見つけるのは難しそうだ。
更に焼津石脇の旗掛石や静岡日本坂峠下の巨石は大きな平らな一つの岩で、降臨する岩と云うより神座、要は神の座る場所と
いった風情だった。

 私としては当然山上の磐座が好きなので、ここ天白の磐座も気に入っているのだが、そんな思いを壊すような説を見つけた。
 「天白遺跡の発掘(昭和59年)が行われる以前は、ここは地元では 「おがみ所」 と呼ばれていたという。拝み所とは聖なる山を
仰ぎみる遙拝所であり、祖霊を祀る祭祀の場であったので、天白遺跡が拝み所とすることは十分に考えられる。
更に古代遺跡の正面には必ず三角形の神山があり、神山は死者の魂が山に帰ると信じる「祖霊信仰」に基づくものでもある。
ここ天白遺跡も、今は杉林に隠れて見ることができないが、北東約3kmの地点に三岳山(みたけやま・467m)がある。三岳は
御嶽(みたけ、おんたけ、うたき)に通じることから、古代から信仰対象(神山信仰)の聖なる山であったと思われる。」
ウーン! 説得力があるなぁ。となるとここの巨岩は、聖なる山、高草を仰ぎ見る神神(みわ)神社の三つ鳥居のような物か。
完全には納得しないものの頭の隅に入れておこう。ここ天白遺跡が祖霊信仰の拝み所だった可能性があるという事を。

  
           天白磐座遺跡の測量図(『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』新泉社より)

 「もっとも大きい西側の【A石】は、高さ7.39m、南北10.3m、東西6.8m。石の種類は、チャートと呼ばれる堆積岩の一種。
東側の【B石】は、高さ5.2m、幅約7m×4.1m。北側の【C石】は、高さ2.7m、底辺3.5mである。
巨石が織りなす超自然的な配置の妙は、じつに隙なく、みごとなコンポジションとしておさまっている。
また、A石の西側直下からは、手づくね土器や鉄矛、滑石製勾玉(まがたま)などの祭祀に用いられた遺物が出土し、
古墳時代の祭祀場として限定された。」

 色々な説がある事は納得したが、不可解なのはこの天白遺跡の傍には縄文時代から江戸時代にかけて人が住んでいた
 “北神宮司遺跡” があることだ。なのにこの遺跡が発見されたのが昭和の後期。
人々の記憶は簡単に無くなるのかもしれないが、当然この丘にも薪を取りに住民は入り込んだだろう。
それとも禁忌の言い伝えが残され、この丘には人は入らなかったのか。新しい疑問は湧いてくる。

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