歩行記録 H27-8-24(月)
歩行時間:4時間55分 休憩時間:1時間45分 延時間:6時間40分
出発時刻:9時25分 到着時刻:16時05分
歩 数: 31、745歩(推定距離23.8km) GPS距離24.5km
行程表
師崎港バス停 0:35> 番外 0:50> 40番 0:50> 43番 0:10> 番外 0:20> 42番 0:15> 41番 0:40> 44番
0:30> 45番 0:20> 46番 0:15> 47番 0:10> 内海駅
番外奥の院(石仏の宝庫)
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中之院の石仏 中之院の軍人像
岩屋寺の定規筋塀の前には、今は閉まっているが店舗らしき建物も有る。
知多半島と云えばエビセンが有名だが、その販売所の看板もある。どうやら岩屋寺はかっては参拝客が多く、門前市を成した
時代もあったようだ。
奥の院に向かう途中に道から石仏が見えたので寄ってみた。
寺とも見えないような建物の境内入口には、石の地蔵像と陶(?)の地蔵像が所狭しと置かれている。
更に奥には軍帽を被った兵士たちの像が、地の上や台座の上に立錐の余地も無く並んでいた。
寺の案内板によれば 『軍人像は昭和12年上海上陸作戦で戦死した名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達です。
軍人像はめいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。
戦後、進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が「国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない。あれを日本人の手で
壊すことはできない。どうしても壊すというなら我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろう」と頑張った。
おかげで像は壊されずに済んだということです。建立当初は名古屋市千種区にあったもので、当山には平成7年にお移しし、
この地で安住いただいております。天台宗大悲山中之院』
ところでこの中之院は岩屋寺の奥の院に対しての中之院と思うが、寺の宗派は天台宗とある。
確か岩屋寺も元は天台宗だったので、この案内板は改宗前の物なのか。いや違う。岩屋寺の改宗は昭和時代だが、この案内板は
平成になってから立てた物だ。と、なると中之院は岩屋寺と喧嘩別れでもしたのだろうか????
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弘法大師御開創霊場
奥の院は弘仁5年(814)弘法大師が百日の護摩修法をされたと伝えれる地で、「もし我を信ずるものあれば、病気災難等の
身代わりに立ちつかわさん」 と誓い、今でも身代大師の総本山としての信仰を集めているそうです。
石仏が立並び、いかにも霊場に向かう雰囲気が漂っている薄暗い参道を歩いていると期待感が湧いてきます。
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くるま六地蔵 石 仏
石仏が余りにあり過ぎ順不同になってしまうが、半跏像もあれば六地蔵や日間賀島で見た遍路の立像もある。
開山堂を背にして祀られているのは尼さんのようだ。六体の地蔵が祀られているお堂には 「くるま地蔵霊場」 の看板がある。
くるま地蔵は篠島で見たが、その時は篠島独自の地蔵と思ったがどうも違うようだ。調べてみると
「交通関係物故者の慰霊法要を念じ、交通安全祈願を求め、知多乗合株式会社の発起した知多半島くるま六地蔵めぐり」だ
そうです。六ヵ所の霊場と番外三ヶ所の霊場は知多四国八十八ヶ所に含まれてるそうです。
道理で覚えがあるはずだった。
阿弥陀如来や地蔵菩薩、不動明王の石像の前に小型の卒塔婆が置いてある。よく見るとそれには戒名が書かれていた。
この様に故人の霊を祀る風習があるのですね。
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三重塔
色彩の少ない林の中に突然現れたのは朱塗りの三重の塔。コンクリ製らしいが目に鮮やかな眺めだ。
白っぽい建物もあったが、それが本堂とは知らず写真を写さなかった。事前の知識では本堂は岩山の洞窟を覆うように
建っているとあったので、そればかりを探していて見損なった。本堂の中と思われる写真もあるが暗くてハッキリしていない。
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不動明王 何のお堂だったろう?
奥之院には不動明王の石仏が多く祀られていたが、中でも 「行場 初不動」 には不動明王が何体も纏めて祀られていた。
不動明王は弘法大師と縁が深いので多いのは当然だが、こうしてお詣りをしていると真言宗の札所と勘違いしそうだ。
お堂の格子に何枚もの前掛けが掛けられていて中が見難いお堂もあった。古くなった前掛けに黴でも生えていそうだった。
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身代大師? 廿五菩薩
浅く掘られた洞窟に鎮座するのは弘法大師像か。体に 「南無身代大師」 のお札が張られていた。
この石仏も古いが、貼られているお札はまだ新しい。これなら不潔感は無いので新しいお札を貼る気にもなるだろう。
時々お札を剥がしているのだろうか。
「廿五菩薩」 と扁額のあるお堂の中に、多分25体あるだろう石仏が祀られている。
このように奥之院には色々な石仏があり、他にも女人堂とか薄気味悪い池などもあり興味は尽きなかった。
43番岩屋寺から奥の院への道
歩行時間:4時間55分 休憩時間:1時間45分 延時間:6時間40分
出発時刻:9時25分 到着時刻:16時05分
歩 数: 31、745歩(推定距離23.8km) GPS距離24.5km
行程表
師崎港バス停 0:35> 番外 0:50> 40番 0:50> 43番 0:10> 番外 0:20> 42番 0:15> 41番 0:40> 44番
0:30> 45番 0:20> 46番 0:15> 47番 0:10> 内海駅
番外奥の院(石仏の宝庫)


中之院の石仏 中之院の軍人像
岩屋寺の定規筋塀の前には、今は閉まっているが店舗らしき建物も有る。
知多半島と云えばエビセンが有名だが、その販売所の看板もある。どうやら岩屋寺はかっては参拝客が多く、門前市を成した
時代もあったようだ。
奥の院に向かう途中に道から石仏が見えたので寄ってみた。
寺とも見えないような建物の境内入口には、石の地蔵像と陶(?)の地蔵像が所狭しと置かれている。
更に奥には軍帽を被った兵士たちの像が、地の上や台座の上に立錐の余地も無く並んでいた。
寺の案内板によれば 『軍人像は昭和12年上海上陸作戦で戦死した名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達です。
軍人像はめいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。
戦後、進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が「国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない。あれを日本人の手で
壊すことはできない。どうしても壊すというなら我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろう」と頑張った。
おかげで像は壊されずに済んだということです。建立当初は名古屋市千種区にあったもので、当山には平成7年にお移しし、
この地で安住いただいております。天台宗大悲山中之院』
ところでこの中之院は岩屋寺の奥の院に対しての中之院と思うが、寺の宗派は天台宗とある。
確か岩屋寺も元は天台宗だったので、この案内板は改宗前の物なのか。いや違う。岩屋寺の改宗は昭和時代だが、この案内板は
平成になってから立てた物だ。と、なると中之院は岩屋寺と喧嘩別れでもしたのだろうか????



弘法大師御開創霊場
奥の院は弘仁5年(814)弘法大師が百日の護摩修法をされたと伝えれる地で、「もし我を信ずるものあれば、病気災難等の
身代わりに立ちつかわさん」 と誓い、今でも身代大師の総本山としての信仰を集めているそうです。
石仏が立並び、いかにも霊場に向かう雰囲気が漂っている薄暗い参道を歩いていると期待感が湧いてきます。


くるま六地蔵 石 仏
石仏が余りにあり過ぎ順不同になってしまうが、半跏像もあれば六地蔵や日間賀島で見た遍路の立像もある。
開山堂を背にして祀られているのは尼さんのようだ。六体の地蔵が祀られているお堂には 「くるま地蔵霊場」 の看板がある。
くるま地蔵は篠島で見たが、その時は篠島独自の地蔵と思ったがどうも違うようだ。調べてみると
「交通関係物故者の慰霊法要を念じ、交通安全祈願を求め、知多乗合株式会社の発起した知多半島くるま六地蔵めぐり」だ
そうです。六ヵ所の霊場と番外三ヶ所の霊場は知多四国八十八ヶ所に含まれてるそうです。
道理で覚えがあるはずだった。
阿弥陀如来や地蔵菩薩、不動明王の石像の前に小型の卒塔婆が置いてある。よく見るとそれには戒名が書かれていた。
この様に故人の霊を祀る風習があるのですね。



三重塔
色彩の少ない林の中に突然現れたのは朱塗りの三重の塔。コンクリ製らしいが目に鮮やかな眺めだ。
白っぽい建物もあったが、それが本堂とは知らず写真を写さなかった。事前の知識では本堂は岩山の洞窟を覆うように
建っているとあったので、そればかりを探していて見損なった。本堂の中と思われる写真もあるが暗くてハッキリしていない。


不動明王 何のお堂だったろう?
奥之院には不動明王の石仏が多く祀られていたが、中でも 「行場 初不動」 には不動明王が何体も纏めて祀られていた。
不動明王は弘法大師と縁が深いので多いのは当然だが、こうしてお詣りをしていると真言宗の札所と勘違いしそうだ。
お堂の格子に何枚もの前掛けが掛けられていて中が見難いお堂もあった。古くなった前掛けに黴でも生えていそうだった。


身代大師? 廿五菩薩
浅く掘られた洞窟に鎮座するのは弘法大師像か。体に 「南無身代大師」 のお札が張られていた。
この石仏も古いが、貼られているお札はまだ新しい。これなら不潔感は無いので新しいお札を貼る気にもなるだろう。
時々お札を剥がしているのだろうか。
「廿五菩薩」 と扁額のあるお堂の中に、多分25体あるだろう石仏が祀られている。
このように奥之院には色々な石仏があり、他にも女人堂とか薄気味悪い池などもあり興味は尽きなかった。
43番岩屋寺から奥の院への道