歩行記録 H28-6-6(月)
歩行時間:5時間30分 休憩時間:2時間25分 延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分 到着時刻:15時50分
歩 数: 29、466歩(推定距離20.9km) GPS距離21.8km
行程表
掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅
3番・長谷寺
東陽山 長谷寺 (とうようざん ちょうこくじ)
宗 派 : 曹洞宗 本 尊 : 十一面観世音菩薩
ご詠歌 : 「西国も東も同じ長谷寺 詣る心は後の世のため」
住 所 : 掛川市長谷(ながや)1615⁻1 2番常楽寺から3番長谷寺への道
新 池 資生堂企業資料館
前回の遍路では2番から3番には新幹線と東海道線の線路を渡ってから西にある長谷寺に向かったが、今日は線路を越さずに
線路の南側を歩く事にした。
新幹線のガードの手前に延喜式内社でもある利神社が鎮座している。この神社は掛川祭りを構成するを七神社の一つとか。
境内にある神社の縁起書には 「1100年以前から当地に鎮座する由緒正しき神社」 とあり歴史ある事は分かるが、なじみの薄い
神様の名前や事柄が多くて読んでも殆ど理解できない。なので神社が見えても寄る事は少なくなってしまった。
今も境内入口にある縁起書だけを見て本殿には参拝もせず通過してしまった。
利神社の裏は溜池になっていた。掛川の南側にある小笠丘陵の麓にはこのような溜池が散在している。標高の低い小笠丘陵には
川らしい川が無いので昔は水不足に悩み溜池を彼方此方に造ったのだろう。ただこの辺りの溜池は入組んだ山裾に造ってあるので
一方を閉め切るだけで比較的に容易に作る事ができそうだ。そんな事もあって溜池が多いのか。
それが現在では大井川水系や天竜川水系の農業用水が完備されていて、蛇口を捻れば水が出る農地が多くなっている。
溜池の次に出て来たのは資生堂の企業資料館とアートハウスだった。ここでは無料の絵画展が行われると聞いた事があるがまだ
一度も来た事はない。今も入口はおろか建物が見える場所で写真を撮って引き返してしまった。
おかげで絵画展が行われるアートハウスかと思った写真の建物は企業資料館だった。
新幹線横の道を5・600m歩いただけで上り下りの新幹線が2本づつ走り去っていった。一方在来線の姿はみる事はなく、正に
静岡県は鉄道後進県です。
長谷神社の山門と地蔵堂 地蔵堂内部
前回の遍路ではこの札所に辿りつくのに大分苦労をしてしまった。寺の場所を聞くのに 「ハセ寺はどこでしょうか?」 と聞いて
しまったのだから分かるわけはない。寺の名前は長谷寺と書いて 「ちょうこくじ」 と読むのだから。
そこで寺の名前を思い出して今度は 「チョウコク寺はどこでしょうか?」 と聞いたがそれでも分からなかった。
その原因が今日やっと解明した。寺の名前はチョウコク寺だが、地元人たちは地名から 「ナガヤのお寺」 と呼んでいるようだ。
それだけでも十分紛らわしいのにナガヤのお寺の本尊は十一面観音で、その姿は奈良の長谷(はせ)寺の本尊を模した物だという。
更にあるブログには 「石柱には寺名がハセデラとなっていたが。その石柱は今は無い。」 とあったが本当かしら?
3番札所の寺号は地名の長谷を取って名付けたとあるが、読み方を変えてチョウコク寺にしたのはまだ理解できる。だが漢字が同じ
だからと云って奈良の長谷寺の本尊を真似するとはチョッと安易すぎないか。何となく寺の品格を疑りたくなる。
山門の正面に地蔵堂があり、あたかもこの山門はその地蔵堂の山門に相応しいくらい質素だ。
長谷寺は元来この地蔵堂の堂守だったと掛川誌稿にあり、安産祈願の地蔵として祀られていたようだ。
お堂の中を覗くと正面には座像の地蔵尊が安置され、両側の桟には鎌と包丁の絵を描いた半紙が貼られていた。半紙をよく見ると
「健康でやさしい子に育ちますように」 とか 「無事生まれました。ありがとうございました」 「安産御礼」 とか書いてある。
更によく見れば鎌の半紙には 「楓太・守道・諒・憲次」 などと男名があり、包丁の半紙には 「あすか・結衣・和花」 等の女名が書いて
あった。
どうや男の子が生まれると農作業に従事できるようにと鎌の絵を、女の子は料理上手になりますようにと包丁の絵を奉納したようだ。
何とも微笑ましく何時までも続いてほしい風習だが、そのうち子供の名前がキラキラネームになってしまうのか少々不安だ。
いやそんな事はない。このような風習を守る人たちはキラキラネームなぞ我子に付けるわけがない。そう思いたい。
鯖大師 如意輪観音 スイリュウヒバ
「寺の正面のお堂の横に赤い色が残った石碑がある。絵が彫ってあって図柄は旅の和尚が魚を手にしている。字も書いてあるが
読めるのは 「大坂・八坂・鯖ひとつ・大師・馬」 などだが、風化して読めないのでなく知識が無くて読めないのだから情けない。
だが絵と分かった字で判断するなら、きっと四国遍路のとき立ち寄った阿波の鯖大師の事だと思う。そこの伝説は弘法大師が倒れた
馬や塩漬の鯖に薬をやると馬や鯖が生き返ったとか、それ以来3年鯖断をして願い事をすると願いが叶うようになったと言う。」
と6年前のブログには書いている。
今でも読解力は同じよう、いやそれより下がっているが、調査力は向上している。読み取れた文字で調べるとこんな事が分かった。
「弘法大師が四国を巡錫してこの地を訪れた際、鯖を馬に背負わせた馬追が通りがかった。大師が鯖を所望したところ馬追はこれを
断った。大師はこれに対し 「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師ににくれで馬の腹や(病)む」 と歌を詠んだ。
すると、馬は急に腹痛で動かなくなった。困った馬追は大師に鯖を差し出した。
大師は今度は「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれて馬の腹や(止)む」と詠むだけで、馬の苦しみは治まった。」 そうです。
境内に植えられている木に 「掛川市保存樹木スイリュウヒバ」 とあった。ヒバは何となくわかるがスイリュウは見当がつかない。
これも早速調べてみると 「スイリュウヒバ(垂柳檜葉): ヒノキの園芸品種。紐状の細長い枝が垂れ下がり、葉先が余りとがらない。
枝葉が下垂してヤナギに似ていることから 『垂柳檜葉』 の名が付いた。」 と分かった。
それなら 「シダレヒバ(枝垂檜葉)」 のが分かりやいと思うが・・・・・・・・・・このスイリュウヒバは6年前に比べ樹勢が衰えていた。
3番長谷寺 長谷寺本堂
庫裏の呼び鈴を押したが応答がない。仕方ないの本堂の扉を曳いてみるとここもスーと開いた。
今までの遍路では無断で本堂に入る事はしなかったが、今回はご朱印を貰いたいので無礼を承知の行為だ。
本堂の中にはご朱印のセットが置いてあり自分で押印すればよいようになっていた。アー助かった。
こんな事なら入口に 「ご朱印は中で押してください」 と書いてくれてあると助かるが、と思ったが、そうなると不審者が気安く出入り
する可能性がある。矢張り少しは遠慮しいしい本堂に入るしかないだろう。
奈良の長谷寺と同じ形態の十一面観音を期待していたが、須弥壇には幕が垂れ下がっていて中を拝む事はできなかった。
歩行時間:5時間30分 休憩時間:2時間25分 延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分 到着時刻:15時50分
歩 数: 29、466歩(推定距離20.9km) GPS距離21.8km
行程表
掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅
3番・長谷寺
東陽山 長谷寺 (とうようざん ちょうこくじ)
宗 派 : 曹洞宗 本 尊 : 十一面観世音菩薩
ご詠歌 : 「西国も東も同じ長谷寺 詣る心は後の世のため」
住 所 : 掛川市長谷(ながや)1615⁻1 2番常楽寺から3番長谷寺への道
新 池 資生堂企業資料館
前回の遍路では2番から3番には新幹線と東海道線の線路を渡ってから西にある長谷寺に向かったが、今日は線路を越さずに
線路の南側を歩く事にした。
新幹線のガードの手前に延喜式内社でもある利神社が鎮座している。この神社は掛川祭りを構成するを七神社の一つとか。
境内にある神社の縁起書には 「1100年以前から当地に鎮座する由緒正しき神社」 とあり歴史ある事は分かるが、なじみの薄い
神様の名前や事柄が多くて読んでも殆ど理解できない。なので神社が見えても寄る事は少なくなってしまった。
今も境内入口にある縁起書だけを見て本殿には参拝もせず通過してしまった。
利神社の裏は溜池になっていた。掛川の南側にある小笠丘陵の麓にはこのような溜池が散在している。標高の低い小笠丘陵には
川らしい川が無いので昔は水不足に悩み溜池を彼方此方に造ったのだろう。ただこの辺りの溜池は入組んだ山裾に造ってあるので
一方を閉め切るだけで比較的に容易に作る事ができそうだ。そんな事もあって溜池が多いのか。
それが現在では大井川水系や天竜川水系の農業用水が完備されていて、蛇口を捻れば水が出る農地が多くなっている。
溜池の次に出て来たのは資生堂の企業資料館とアートハウスだった。ここでは無料の絵画展が行われると聞いた事があるがまだ
一度も来た事はない。今も入口はおろか建物が見える場所で写真を撮って引き返してしまった。
おかげで絵画展が行われるアートハウスかと思った写真の建物は企業資料館だった。
新幹線横の道を5・600m歩いただけで上り下りの新幹線が2本づつ走り去っていった。一方在来線の姿はみる事はなく、正に
静岡県は鉄道後進県です。
長谷神社の山門と地蔵堂 地蔵堂内部
前回の遍路ではこの札所に辿りつくのに大分苦労をしてしまった。寺の場所を聞くのに 「ハセ寺はどこでしょうか?」 と聞いて
しまったのだから分かるわけはない。寺の名前は長谷寺と書いて 「ちょうこくじ」 と読むのだから。
そこで寺の名前を思い出して今度は 「チョウコク寺はどこでしょうか?」 と聞いたがそれでも分からなかった。
その原因が今日やっと解明した。寺の名前はチョウコク寺だが、地元人たちは地名から 「ナガヤのお寺」 と呼んでいるようだ。
それだけでも十分紛らわしいのにナガヤのお寺の本尊は十一面観音で、その姿は奈良の長谷(はせ)寺の本尊を模した物だという。
更にあるブログには 「石柱には寺名がハセデラとなっていたが。その石柱は今は無い。」 とあったが本当かしら?
3番札所の寺号は地名の長谷を取って名付けたとあるが、読み方を変えてチョウコク寺にしたのはまだ理解できる。だが漢字が同じ
だからと云って奈良の長谷寺の本尊を真似するとはチョッと安易すぎないか。何となく寺の品格を疑りたくなる。
山門の正面に地蔵堂があり、あたかもこの山門はその地蔵堂の山門に相応しいくらい質素だ。
長谷寺は元来この地蔵堂の堂守だったと掛川誌稿にあり、安産祈願の地蔵として祀られていたようだ。
お堂の中を覗くと正面には座像の地蔵尊が安置され、両側の桟には鎌と包丁の絵を描いた半紙が貼られていた。半紙をよく見ると
「健康でやさしい子に育ちますように」 とか 「無事生まれました。ありがとうございました」 「安産御礼」 とか書いてある。
更によく見れば鎌の半紙には 「楓太・守道・諒・憲次」 などと男名があり、包丁の半紙には 「あすか・結衣・和花」 等の女名が書いて
あった。
どうや男の子が生まれると農作業に従事できるようにと鎌の絵を、女の子は料理上手になりますようにと包丁の絵を奉納したようだ。
何とも微笑ましく何時までも続いてほしい風習だが、そのうち子供の名前がキラキラネームになってしまうのか少々不安だ。
いやそんな事はない。このような風習を守る人たちはキラキラネームなぞ我子に付けるわけがない。そう思いたい。
鯖大師 如意輪観音 スイリュウヒバ
「寺の正面のお堂の横に赤い色が残った石碑がある。絵が彫ってあって図柄は旅の和尚が魚を手にしている。字も書いてあるが
読めるのは 「大坂・八坂・鯖ひとつ・大師・馬」 などだが、風化して読めないのでなく知識が無くて読めないのだから情けない。
だが絵と分かった字で判断するなら、きっと四国遍路のとき立ち寄った阿波の鯖大師の事だと思う。そこの伝説は弘法大師が倒れた
馬や塩漬の鯖に薬をやると馬や鯖が生き返ったとか、それ以来3年鯖断をして願い事をすると願いが叶うようになったと言う。」
と6年前のブログには書いている。
今でも読解力は同じよう、いやそれより下がっているが、調査力は向上している。読み取れた文字で調べるとこんな事が分かった。
「弘法大師が四国を巡錫してこの地を訪れた際、鯖を馬に背負わせた馬追が通りがかった。大師が鯖を所望したところ馬追はこれを
断った。大師はこれに対し 「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師ににくれで馬の腹や(病)む」 と歌を詠んだ。
すると、馬は急に腹痛で動かなくなった。困った馬追は大師に鯖を差し出した。
大師は今度は「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれて馬の腹や(止)む」と詠むだけで、馬の苦しみは治まった。」 そうです。
境内に植えられている木に 「掛川市保存樹木スイリュウヒバ」 とあった。ヒバは何となくわかるがスイリュウは見当がつかない。
これも早速調べてみると 「スイリュウヒバ(垂柳檜葉): ヒノキの園芸品種。紐状の細長い枝が垂れ下がり、葉先が余りとがらない。
枝葉が下垂してヤナギに似ていることから 『垂柳檜葉』 の名が付いた。」 と分かった。
それなら 「シダレヒバ(枝垂檜葉)」 のが分かりやいと思うが・・・・・・・・・・このスイリュウヒバは6年前に比べ樹勢が衰えていた。
3番長谷寺 長谷寺本堂
庫裏の呼び鈴を押したが応答がない。仕方ないの本堂の扉を曳いてみるとここもスーと開いた。
今までの遍路では無断で本堂に入る事はしなかったが、今回はご朱印を貰いたいので無礼を承知の行為だ。
本堂の中にはご朱印のセットが置いてあり自分で押印すればよいようになっていた。アー助かった。
こんな事なら入口に 「ご朱印は中で押してください」 と書いてくれてあると助かるが、と思ったが、そうなると不審者が気安く出入り
する可能性がある。矢張り少しは遠慮しいしい本堂に入るしかないだろう。
奈良の長谷寺と同じ形態の十一面観音を期待していたが、須弥壇には幕が垂れ下がっていて中を拝む事はできなかった。