歩行記録 H28-6-6(月)
歩行時間:5時間30分 休憩時間:2時間25分 延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分 到着時刻:15時50分
歩 数: 29、466歩(推定距離20.9km) GPS距離21.8km
行程表
掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅
2番・常楽寺
保福山 常楽寺 (ほふくざん じょうらくじ)
宗 派 : 曹洞宗 本 尊:聖観世音菩薩
ご詠歌 : 「これやこの 常に楽しむ 寺なれば み法の船に さおやさすらん」 (み法:)
住 所 : 掛川市下俣南1⁻19⁻18 1番結縁寺から2番常楽寺への道
掛川花鳥園 2番常楽寺
6年前のブログでは1番から2番の道でこんな事を書いていた。
「昔の遍路道はと地図を見るが花鳥園や東名で分断されていて分からない。もと来た道を戻るしかないと東名まで逆戻り。
掛川の町は東名高速のICや新幹線の駅、東海道線の駅、国道1号線などが狭い地域に集中していて交通の便は良い。発展途上の
町なのだろうが東名の南側と北側の格差が大きい。
北側は狭い地域にビルが林立しているが東名を潜ると一転郊外の雰囲気になる。これで花鳥園とパチンコ屋が無ければ本当の田舎に
過ぎないだろう。
東名ICも開通当初からのICではなく途中からだし、新幹線も市民の署名を集めて陳情して造ったと聞いている。
また掛川城も平成6年に完成させたり、外国に市営の牧場を作って生涯学習に使っているとか、最近では木造のJR掛川駅を保存する
運動も起している。ヤル気は感じるが頑張りすぎてないか気になる。
東名横の道を歩き始めると薄い水色のビルが見えた。お茶屋かと想像したが海苔屋だった、一体海苔を何所から持ってくるのだろう?
この辺りの海で海苔の養殖など聞いたことがない。これも交通至便の地を求めて進出してきたのだろう。
最初の信号を曲り、次の信号を左折して、少し歩くと常楽寺入口の看板があった。看板の先を覗くと大きな銀杏の木が見える、
あそこが2番常楽寺だろう。」
6年前も今も東名の南側は基本的には変わっていない。しかしアメリカに作った 「オレゴン生涯学習村」 は既に解散してしまったり
木造駅舎の保存は決まり工事も終了している等の変化があった。
さらに6年前に何故こんな所に海苔の工場が? と思った海苔屋は、つぶれてしまったのか建物は残っていたが海苔の表示も無く
空きビルのような感じだった。
最近の掛川で目につくのは 「掛川深蒸し茶」 だろう。2011年に 「NHKのためしてガッテン」 で掛川茶が紹介される以前は、
茶処静岡の中の銘茶と云えば本山茶(静岡市)と川根茶が代表だった。
当時の銘茶の生産地は川筋の川霧が出て半日陰のような場所が適しているとされてきた。そのため安倍川や藁科川、そして大井川
筋が銘茶の産地だった。
一方牧の原台地も茶の生産量は多く一大産地だが、日照時間が長いため茶自体の品質は一段下とされてきた。
掛川茶はその牧の原台地に続く粟ヶ岳の麓一帯で栽培されている。
なのに今では掛川茶が静岡のお茶の代表のような感じで、新聞などの通販の広告では “掛川茶” が幅を利かせている。
これも “ためしてガッテン” のおかげで、掛川のお茶の関係者にとってはNHKの方向には足を向けて寝る事は出来ないだろう。
掛川のお茶と云えば粟ヶ岳山麓の東山地区で行われている 「茶草場農法」 が世界農業遺産に登録された事もニュースになった。
茶草場農法とは茶畑の畝間にススキ等を刈敷きする農法だとか。そのススキなどが育っている場所を “茶草場” と云うようです。
私の故郷御殿場には広大なススキの群生地大野原(東富士演習地)があるが、ここのススキを刈取り茶畑の間に敷く事は昔から
やってきた。なのにその栄誉は掛川に独占されてしまった。
これも掛川市の積極的な行動のなせる業なのだろう。掛川には静岡西部地方の “やらまいか精神” があるようです。
6年前の道をなぞるように歩き難なく常楽寺に着いた。門前には遠江33観音の幟が1本淋しく立っていた。
“二番札所” 青面金剛
門前にある 「二番札所」 の石碑には “文化三年” の文字が読み取れる。今から210年前の物だ。
私の好きな 「青面金剛」 の石仏もある。小振りな石仏だが台座には三猿があり、六臂には弓・矢・宝輪・三叉鉾・太刀などを持って
いるのが分かる。小振りな石仏のため日輪や月輪、あるいは邪鬼や鶏は彫られていないが、静岡ではこれだけ揃った青面金剛の
石仏は少ないと思う。狭い境内だが良く片付けられていた。
納経場所 本堂内部
本堂の入口で何度か声を掛けたが応答が無いので引き戸を曳くと難なく開いてしまった。
この寺も無住のようだが玄関を入った所に 「弐番札所常楽寺 奉納経帳壱冊 伍百円 御朱印代 適誼にお願いします」 とあった。
“御朱印代 適誼にお願いします” を見て思わずニヤリとしてしまった。寺の人に対面してこの言葉を聞くと嫌な感じを受けるが
このように文字で見ると何となく嬉しくなる。言葉で聞けば割増を強制されたようで 「一体いくら払えばいいのだ。」 となるが、
このように文字で見ると書いてくれた人の優しさを感じる事ができる。常楽寺の方はきっと優しく穏やかな人なのだろう。
ご朱印は後にして先ずお詣りをと内部を見ると、無人とはいえ綺麗に掃き清められている座敷にはゴミ一つ落ちていなかった。
空気も密室のような熱気はなく爽やかだ。きっと毎日開け閉めしてくれているのだろう。
須弥壇 閻魔大王・奪衣婆
正面の須弥壇(しゅみだん)には、左から地蔵菩薩、大日如来、聖観音が祀られている。この配置だけ見れば中央の大日如来が
この寺の本尊と思えるが、実際は聖観音が本尊だった。
須弥壇右手に閻魔大王と奪衣婆(だつえば)の像が安置してある。この組み合わせは時々見ることがあり、遠州33観音霊場の
3番札所にもこの組み合わせがあって、その時はこんな事を書いていた。
「三途の川の三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことで、この川の辺に 「衣領樹」(えりょうじゅ) という木がある。
その木の下には 「奪衣婆」 という老婆がいて、木の上には「懸衣翁」(けんえおう) という老爺がのっている。
奪衣婆が着ている衣類を脱がせ、木の上の懸衣翁に渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。
枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けである。
その 「懸衣翁」 と 「奪衣婆」 が、35日目の閻魔大王の裁判に陪席しているので、嘘の申告は出来ないのである。」
成程ね。でもそれなら懸衣翁も入れて三人一セットの方が良かったのに。
待てよ、これも思いだした。駿河一国33観音の番外東光寺(熱海十国峠)に矢張り閻魔大王と奪衣婆の石像が あった。
確かあそこも懸衣翁の像は無かったと思う。きっと恐ろしい形相の奪衣婆は閻魔像とマッチするのだろう。
それにしてはここの奪衣婆像は余り怖い顔をしていないな。
なんて書いていた。それで今回再度閻魔と奪衣婆の関係を調べてみたらウィキペディアにこんな事が書いてあった。
「俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もある。」 成程! これで納得。
歩行時間:5時間30分 休憩時間:2時間25分 延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分 到着時刻:15時50分
歩 数: 29、466歩(推定距離20.9km) GPS距離21.8km
行程表
掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅
2番・常楽寺
保福山 常楽寺 (ほふくざん じょうらくじ)
宗 派 : 曹洞宗 本 尊:聖観世音菩薩
ご詠歌 : 「これやこの 常に楽しむ 寺なれば み法の船に さおやさすらん」 (み法:)
住 所 : 掛川市下俣南1⁻19⁻18 1番結縁寺から2番常楽寺への道
掛川花鳥園 2番常楽寺
6年前のブログでは1番から2番の道でこんな事を書いていた。
「昔の遍路道はと地図を見るが花鳥園や東名で分断されていて分からない。もと来た道を戻るしかないと東名まで逆戻り。
掛川の町は東名高速のICや新幹線の駅、東海道線の駅、国道1号線などが狭い地域に集中していて交通の便は良い。発展途上の
町なのだろうが東名の南側と北側の格差が大きい。
北側は狭い地域にビルが林立しているが東名を潜ると一転郊外の雰囲気になる。これで花鳥園とパチンコ屋が無ければ本当の田舎に
過ぎないだろう。
東名ICも開通当初からのICではなく途中からだし、新幹線も市民の署名を集めて陳情して造ったと聞いている。
また掛川城も平成6年に完成させたり、外国に市営の牧場を作って生涯学習に使っているとか、最近では木造のJR掛川駅を保存する
運動も起している。ヤル気は感じるが頑張りすぎてないか気になる。
東名横の道を歩き始めると薄い水色のビルが見えた。お茶屋かと想像したが海苔屋だった、一体海苔を何所から持ってくるのだろう?
この辺りの海で海苔の養殖など聞いたことがない。これも交通至便の地を求めて進出してきたのだろう。
最初の信号を曲り、次の信号を左折して、少し歩くと常楽寺入口の看板があった。看板の先を覗くと大きな銀杏の木が見える、
あそこが2番常楽寺だろう。」
6年前も今も東名の南側は基本的には変わっていない。しかしアメリカに作った 「オレゴン生涯学習村」 は既に解散してしまったり
木造駅舎の保存は決まり工事も終了している等の変化があった。
さらに6年前に何故こんな所に海苔の工場が? と思った海苔屋は、つぶれてしまったのか建物は残っていたが海苔の表示も無く
空きビルのような感じだった。
最近の掛川で目につくのは 「掛川深蒸し茶」 だろう。2011年に 「NHKのためしてガッテン」 で掛川茶が紹介される以前は、
茶処静岡の中の銘茶と云えば本山茶(静岡市)と川根茶が代表だった。
当時の銘茶の生産地は川筋の川霧が出て半日陰のような場所が適しているとされてきた。そのため安倍川や藁科川、そして大井川
筋が銘茶の産地だった。
一方牧の原台地も茶の生産量は多く一大産地だが、日照時間が長いため茶自体の品質は一段下とされてきた。
掛川茶はその牧の原台地に続く粟ヶ岳の麓一帯で栽培されている。
なのに今では掛川茶が静岡のお茶の代表のような感じで、新聞などの通販の広告では “掛川茶” が幅を利かせている。
これも “ためしてガッテン” のおかげで、掛川のお茶の関係者にとってはNHKの方向には足を向けて寝る事は出来ないだろう。
掛川のお茶と云えば粟ヶ岳山麓の東山地区で行われている 「茶草場農法」 が世界農業遺産に登録された事もニュースになった。
茶草場農法とは茶畑の畝間にススキ等を刈敷きする農法だとか。そのススキなどが育っている場所を “茶草場” と云うようです。
私の故郷御殿場には広大なススキの群生地大野原(東富士演習地)があるが、ここのススキを刈取り茶畑の間に敷く事は昔から
やってきた。なのにその栄誉は掛川に独占されてしまった。
これも掛川市の積極的な行動のなせる業なのだろう。掛川には静岡西部地方の “やらまいか精神” があるようです。
6年前の道をなぞるように歩き難なく常楽寺に着いた。門前には遠江33観音の幟が1本淋しく立っていた。
“二番札所” 青面金剛
門前にある 「二番札所」 の石碑には “文化三年” の文字が読み取れる。今から210年前の物だ。
私の好きな 「青面金剛」 の石仏もある。小振りな石仏だが台座には三猿があり、六臂には弓・矢・宝輪・三叉鉾・太刀などを持って
いるのが分かる。小振りな石仏のため日輪や月輪、あるいは邪鬼や鶏は彫られていないが、静岡ではこれだけ揃った青面金剛の
石仏は少ないと思う。狭い境内だが良く片付けられていた。
納経場所 本堂内部
本堂の入口で何度か声を掛けたが応答が無いので引き戸を曳くと難なく開いてしまった。
この寺も無住のようだが玄関を入った所に 「弐番札所常楽寺 奉納経帳壱冊 伍百円 御朱印代 適誼にお願いします」 とあった。
“御朱印代 適誼にお願いします” を見て思わずニヤリとしてしまった。寺の人に対面してこの言葉を聞くと嫌な感じを受けるが
このように文字で見ると何となく嬉しくなる。言葉で聞けば割増を強制されたようで 「一体いくら払えばいいのだ。」 となるが、
このように文字で見ると書いてくれた人の優しさを感じる事ができる。常楽寺の方はきっと優しく穏やかな人なのだろう。
ご朱印は後にして先ずお詣りをと内部を見ると、無人とはいえ綺麗に掃き清められている座敷にはゴミ一つ落ちていなかった。
空気も密室のような熱気はなく爽やかだ。きっと毎日開け閉めしてくれているのだろう。
須弥壇 閻魔大王・奪衣婆
正面の須弥壇(しゅみだん)には、左から地蔵菩薩、大日如来、聖観音が祀られている。この配置だけ見れば中央の大日如来が
この寺の本尊と思えるが、実際は聖観音が本尊だった。
須弥壇右手に閻魔大王と奪衣婆(だつえば)の像が安置してある。この組み合わせは時々見ることがあり、遠州33観音霊場の
3番札所にもこの組み合わせがあって、その時はこんな事を書いていた。
「三途の川の三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことで、この川の辺に 「衣領樹」(えりょうじゅ) という木がある。
その木の下には 「奪衣婆」 という老婆がいて、木の上には「懸衣翁」(けんえおう) という老爺がのっている。
奪衣婆が着ている衣類を脱がせ、木の上の懸衣翁に渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。
枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けである。
その 「懸衣翁」 と 「奪衣婆」 が、35日目の閻魔大王の裁判に陪席しているので、嘘の申告は出来ないのである。」
成程ね。でもそれなら懸衣翁も入れて三人一セットの方が良かったのに。
待てよ、これも思いだした。駿河一国33観音の番外東光寺(熱海十国峠)に矢張り閻魔大王と奪衣婆の石像が あった。
確かあそこも懸衣翁の像は無かったと思う。きっと恐ろしい形相の奪衣婆は閻魔像とマッチするのだろう。
それにしてはここの奪衣婆像は余り怖い顔をしていないな。
なんて書いていた。それで今回再度閻魔と奪衣婆の関係を調べてみたらウィキペディアにこんな事が書いてあった。
「俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もある。」 成程! これで納得。