歩行記録 H28-1-7(木)
歩行時間:7時間55分 休憩時間:1時間40分 延時間:9時間35分
出発時刻:6時45分 到着時刻:16時20分
歩 数: 40、949歩(推定距離29.1km) GPS距離27.2km
行程表
掛川駅 1:20> 六枚屏風 0:55> 138°展望台 0:20> 腹摺峠 1:20> 法多山 02:15> 油山寺 0:50> 可睡斎 0:55> 袋井駅
遠州三山初詣
法多山尊永寺
法多山に11時30分に到着。すでに弁当は半分食べてあるのでここまでは予定通り来ている。このあとは油山寺まで2時間、
可睡斎まで1位時間、そして最後の袋井駅まで1時間とみているので袋井駅に4時ごろ着く予定だ。悪くても4時半、最悪でも
5時着と踏んでいる。
昨年は4日に来ているので境内は今日の数倍の人出だったが、それでも今日は平日なのに少なからずの初詣の参拝者はいた。
その中で一風変わった格好の私は目立ってしまうので何となく気恥ずかしい。参拝もそこそこに厄除け団子を求めて下ることに。
季節は秋? 何の行列だろう?
モミジが紅い葉をつけて残っていた。尾根ではつつじが咲いていて春近しと思わせたが、ここではまだ秋が終わらないでいる。
初日の出で行った大崩山塊の法華寺でも紅葉が残っていたが、まだ本格的な寒さが来ていないのか。そういえば例年だと腹摺峠
からの絶壁の縁歩きは右半身が冷たい西風に晒されて冷え切ってしまうが、今日はジャンパーを着ていないのにそれ程でもない。
寒さが来ないので秋が残り、暖かい日が続くので春が来た。なんとも変な年だ。
何の行列なのか破魔矢を何本か差した竹を羽織袴の男性が持っている。この破魔矢は本堂前で1本500円で売っていた。
破魔矢と言えば一般的に羽根の部分は鳥の羽根で、矢の部分には鈴やお飾り絵馬などが付いている物が多いが、ここ法多山の
破魔矢は長めの普通の竹に紙の羽を付けただけの超シンプルな物だった。そのため値段も半額以下なのだろう。
法多山山門
以前は山門をこの角度から写すと 「別格本山 法多山尊永寺」 と彫られた石柱も入ったのだがそれも今は無い。
南駐車場から 正面から
法多山からエコパにはいつもならビオトープの道を歩くのだが、今日は高台にある南駐車場経由で向かった。
イエ雰囲気を変えるためではなく単なる距離削減のために。
旧東海道の松並木 村松津島神社
愛野駅の中も通らず地下道を潜って北側にでて逆川と原野谷川を渡る。ここでも例年なら原野谷川の右岸からゴルフ場のある
丘陵経由で油山寺に向かっていたが、今日は平坦で短距離になる車が利用する油山寺正面の道を歩く。
車道はそこそこ車も走るので1本東側の田圃の中を歩くのだが何とも面白くない。やはりここの道は丘陵の道を通るべきだった。
あの道なら運が良ければゴルフ場の中にある 「菅ヶ谷横穴群遺跡」 を見る事ができたのに。来年はこの道は止めよう。
ようやく村松の津島神社に着いた。ここまで来れば油山寺までは残り500mくらいだ。
松の幹肌 案内 杉の葉
知多四国霊場を歩いたとき82番観福寺に霊場開創した阿闍梨がお手植えした 「紅白椿」 があり、その椿からは “紅白とも桧の
芽が出てきた” と紹介されていた。だがその椿の葉も幹も蕾も全て椿にしか見えなかった。
その点油山寺の 「御霊杉(みたますぎ)」 はご覧のように幹は松、葉は杉で、しかも県の天然記念物に指定されている。
「弘法大師が病に罹った幼児の命を助けると、感謝したその子の父親が松で、母親が杉で一膳の箸を大師に捧げた。弘法大師が
旅立つときその箸を大地に挿していくと、あら不思議、幹が松、葉が杉の珍しい霊木になった」 のだそうです。
油山寺山門 宝生殿
遠州三山は過去何回となく来ているので既にブログで色々紹介してしまってあるので以下簡単に。
油山人山門は掛川城の大手二の門を移築したもので、確かに寺の紋というより城の門に見える。
この山門から伸びた参道の先にある門は “礼拝門” で、その奥正面の新しい建物は本堂ではなく “宝生殿” です。
宝生殿とは “仏殿” のことで、ここで信徒の祈祷や大護摩修法あるいは法話、座禅等の宗教儀式が行われます。
書 院 方 丈
宝生殿や休憩所が新築されたのに伴い境内も整備されたのか、今年は書院や方丈もスッキリした感じで見えていた。
この建物は県の文化財に指定されていて、書院は元は遠州横須賀城内にあり、元禄時代に造立されたもので、方丈は宝歴年間に
建築した建物だそうです。
瑠璃の滝 瀧行壱萬日満願成就
瑠璃の滝とは昔この滝の水で洗眼したら天皇の眼病が治ったとか。マーそれはそれでいいが少々気になる石碑が目に入った。
「瀧行壱萬日満願成就」 とあるが、このチャチな滝で滝行とは何とも大袈裟なと思った。ただ滝行自体はどうと云うことはないが
“壱萬日” は凄い。仮に毎日滝行をしたとしても27年5ヶ月も掛かることになる。継続とは力なりとは云うが何か勿体ない気が
する。これを他のことに向けたら自己満足だけでなく大きな成果も生まれたと思う。
例えば1日1本づつ、本堂や三重塔に続く参道に紅葉するモミジなどの木を植えていたらどうだったろう。1万本まででなくても3千本も
あれば見事な紅葉山が完成するだろう。他にも広い境内を利用して山内をグルリ一周する遊歩道があってもいい。
油山寺は遠州三山の中でも一番参拝者が少ないと思うが、このようになればきっと県内でも有数な名所になると思うのだが・・・・・・
今年最少の妄想でした。
国重要文化財 三重塔 本 堂
この三重塔も本堂も源頼朝が眼病全快のお礼に寄進し、その普請奉行をしたのが当時の遠江国守護職工藤祐経だった。
工藤祐経(すけつね)と云えば曽我物語の敵役のあの工藤祐経で、富士の巻狩りの際に兄弟に討たれてしまった。
これが敵役ではなく曽我兄弟の父親だったらきっと案内板などで紹介されていたのだろうが、如何せん敵役では仕方ないか。
でも敵役とはいえ工藤祐経だって曽我兄弟の祖父と父親には、領土を横取りされてしまったのだから仕方ない面もある。
遠州の守護職でもあったのだからもっと紹介してもよさそうなものだ。
本堂横の陽だまりに座り残りの弁当を食べた。本堂というものの一般的には宝生殿を本堂で、ここを奥の院と思っている人が多い。
今も宝生殿では見かけた参拝客もここには一人もいない。縁側に掛けられた古い絵馬が風に煽られ鳴子のようにカタカタなっている。
法多山から油山寺までは、歩行と参拝時間を含めて2時間とみていたが、歩行時間だけで2時間以上になってしまった。
そして参拝や飯の時間を含めると30分の超過だが袋井駅には4時半には着くだろうから問題は無い。。
可睡斎裏口 可睡斎本堂
予定を少しオーバーしたからではないが、油山寺と可睡斎の間も距離が長くなる千鳥ヶ池経由を止めて、昨年歩いた可睡斎へ裏口
から入るルートを選んだ。この道が別段距離が短くなる訳ではないが後半部分は車が少なく、ゴールが可睡斎の横から入るので気分
的に近道をした感じになる。
可睡斎の境内に入ったのが3時15分。すでに参拝者は3組しかいず寺の売店も店じまいの支度をしていた。
書 院 鬼 瓦
可睡斎は徳川家康と縁があるので三つ葉葵の紋が目立つ。このようは紋の使用料はどうなっているのだろうか。
で、調べてみると奥州伊達家の 「竹に雀」 の紋は商標登録されていて、使用料は年間1万円から5万円となっていた。
でもこれって少し変ではないか、先祖から受け継いできた家紋が “竹に雀” だった場合どうなるのだ、使用料を払うのだろうか。
それなら我家の家紋は “下り藤” なのでこれを商標登録したらどうなるのだ。こんなことがまかり通るようでは日本も中国並みに
なってしまいかねない。困ったものだ。
ちなみに “三つ葉葵” の紋の使用料は分かりませんでした。
烏天狗 三尺坊御真殿 烏天狗
可睡斎は曹洞宗總持寺の直末寺院であると同時に秋葉総本殿三尺坊大権現の道場でもある。
今回の紹介は写真だけとします。
活人剣 石碑 東陽軒
今年新たに加わった 「活人剣」 とは可睡斎のHPによれば
「下関条約交渉時に清国全権大使李鴻章狙撃事件が発生。勅命を受けた陸軍軍医総監佐藤が李の治療に当たり、無事条約は締結。
国難を救った佐藤の医業の功績を称えるとともに、日清戦争で亡くなられた両国の方々の霊を弔う為に建立した。」
可睡斎の奥の院近くには古い活人剣の台座だけがあった。これは第2次大戦中金属部分を供出した残骸だそうだ。
これも新しい石碑で表面に 「徳川家康公深きゆかりの禪寺」、横面に 「拾萬石待遇 東海大僧録司」 とある。
“大僧録司(だいそうろくし)” とは これも可睡斎のHPに載っていた。
「江戸幕府は大僧録と全国に僧録所を設置し、管下の寺院を管理させた。可睡斎は東海4ケ国約2500の曹洞宗寺院を管理したした。
寺院本来の本末関係に代わる独自の管理体制で、幕府の寺社奉行に直結していました。管下各寺院は僧の任免、寺格の昇進、その他
もめ事や裁判等まで、全てを僧録司に上申し、その決裁を仰いだのです。」 と中々強い権限があったようだ。
それにしても10万石待遇とは破格だと思う。江戸時代石高1万石以上の藩主を大名と呼び、10万石の藩は全体の2割程度しかなかった。
しかも江戸時代通して10万石以上の譜代大名は酒井氏、阿部氏、堀田氏、柳沢氏、戸田氏をはじめわずかであったという。
それが可睡斎も同じように10万石を貰っていたら、これだけの寺の規模ではすまなかったであろう。多分10万石待遇とは名誉称号で、
実質石高は有るか無しか程度だったのではないかとおもう。
可睡斎の入口に小さなお堂があり、そこの軒先に木造の観音像が2体安置されている。その仏像は色は褪せ見た目はみすぼらしく
夜見たら幽霊かと見紛うようだ。せめてお堂の中に安置すればよいのに毎回思う。お堂の中には三つ葉葵の幔幕も見えているので
可睡斎と関係あるお堂と思ったら、案内板に 「この東陽軒が可睡斎の始まりです」 とある。ならもっと大事したらどうだと言いたい。
原野谷川静橋 藤枝駅南口
静橋の上に建つ “飛翔” と名でけられた親子の銅像。その後ろに今日縦走した小笠丘陵が見えていた。
ここまで来れば袋井駅は近いし、あと少しで今年最初の乾杯もできる。サー後一頑張りだ。
藤枝駅の南口では今年もイルミネーションで彩られていました。
歩行時間:7時間55分 休憩時間:1時間40分 延時間:9時間35分
出発時刻:6時45分 到着時刻:16時20分
歩 数: 40、949歩(推定距離29.1km) GPS距離27.2km
行程表
掛川駅 1:20> 六枚屏風 0:55> 138°展望台 0:20> 腹摺峠 1:20> 法多山 02:15> 油山寺 0:50> 可睡斎 0:55> 袋井駅
遠州三山初詣
法多山尊永寺
法多山に11時30分に到着。すでに弁当は半分食べてあるのでここまでは予定通り来ている。このあとは油山寺まで2時間、
可睡斎まで1位時間、そして最後の袋井駅まで1時間とみているので袋井駅に4時ごろ着く予定だ。悪くても4時半、最悪でも
5時着と踏んでいる。
昨年は4日に来ているので境内は今日の数倍の人出だったが、それでも今日は平日なのに少なからずの初詣の参拝者はいた。
その中で一風変わった格好の私は目立ってしまうので何となく気恥ずかしい。参拝もそこそこに厄除け団子を求めて下ることに。
季節は秋? 何の行列だろう?
モミジが紅い葉をつけて残っていた。尾根ではつつじが咲いていて春近しと思わせたが、ここではまだ秋が終わらないでいる。
初日の出で行った大崩山塊の法華寺でも紅葉が残っていたが、まだ本格的な寒さが来ていないのか。そういえば例年だと腹摺峠
からの絶壁の縁歩きは右半身が冷たい西風に晒されて冷え切ってしまうが、今日はジャンパーを着ていないのにそれ程でもない。
寒さが来ないので秋が残り、暖かい日が続くので春が来た。なんとも変な年だ。
何の行列なのか破魔矢を何本か差した竹を羽織袴の男性が持っている。この破魔矢は本堂前で1本500円で売っていた。
破魔矢と言えば一般的に羽根の部分は鳥の羽根で、矢の部分には鈴やお飾り絵馬などが付いている物が多いが、ここ法多山の
破魔矢は長めの普通の竹に紙の羽を付けただけの超シンプルな物だった。そのため値段も半額以下なのだろう。
法多山山門
以前は山門をこの角度から写すと 「別格本山 法多山尊永寺」 と彫られた石柱も入ったのだがそれも今は無い。
南駐車場から 正面から
法多山からエコパにはいつもならビオトープの道を歩くのだが、今日は高台にある南駐車場経由で向かった。
イエ雰囲気を変えるためではなく単なる距離削減のために。
旧東海道の松並木 村松津島神社
愛野駅の中も通らず地下道を潜って北側にでて逆川と原野谷川を渡る。ここでも例年なら原野谷川の右岸からゴルフ場のある
丘陵経由で油山寺に向かっていたが、今日は平坦で短距離になる車が利用する油山寺正面の道を歩く。
車道はそこそこ車も走るので1本東側の田圃の中を歩くのだが何とも面白くない。やはりここの道は丘陵の道を通るべきだった。
あの道なら運が良ければゴルフ場の中にある 「菅ヶ谷横穴群遺跡」 を見る事ができたのに。来年はこの道は止めよう。
ようやく村松の津島神社に着いた。ここまで来れば油山寺までは残り500mくらいだ。
松の幹肌 案内 杉の葉
知多四国霊場を歩いたとき82番観福寺に霊場開創した阿闍梨がお手植えした 「紅白椿」 があり、その椿からは “紅白とも桧の
芽が出てきた” と紹介されていた。だがその椿の葉も幹も蕾も全て椿にしか見えなかった。
その点油山寺の 「御霊杉(みたますぎ)」 はご覧のように幹は松、葉は杉で、しかも県の天然記念物に指定されている。
「弘法大師が病に罹った幼児の命を助けると、感謝したその子の父親が松で、母親が杉で一膳の箸を大師に捧げた。弘法大師が
旅立つときその箸を大地に挿していくと、あら不思議、幹が松、葉が杉の珍しい霊木になった」 のだそうです。
油山寺山門 宝生殿
遠州三山は過去何回となく来ているので既にブログで色々紹介してしまってあるので以下簡単に。
油山人山門は掛川城の大手二の門を移築したもので、確かに寺の紋というより城の門に見える。
この山門から伸びた参道の先にある門は “礼拝門” で、その奥正面の新しい建物は本堂ではなく “宝生殿” です。
宝生殿とは “仏殿” のことで、ここで信徒の祈祷や大護摩修法あるいは法話、座禅等の宗教儀式が行われます。
書 院 方 丈
宝生殿や休憩所が新築されたのに伴い境内も整備されたのか、今年は書院や方丈もスッキリした感じで見えていた。
この建物は県の文化財に指定されていて、書院は元は遠州横須賀城内にあり、元禄時代に造立されたもので、方丈は宝歴年間に
建築した建物だそうです。
瑠璃の滝 瀧行壱萬日満願成就
瑠璃の滝とは昔この滝の水で洗眼したら天皇の眼病が治ったとか。マーそれはそれでいいが少々気になる石碑が目に入った。
「瀧行壱萬日満願成就」 とあるが、このチャチな滝で滝行とは何とも大袈裟なと思った。ただ滝行自体はどうと云うことはないが
“壱萬日” は凄い。仮に毎日滝行をしたとしても27年5ヶ月も掛かることになる。継続とは力なりとは云うが何か勿体ない気が
する。これを他のことに向けたら自己満足だけでなく大きな成果も生まれたと思う。
例えば1日1本づつ、本堂や三重塔に続く参道に紅葉するモミジなどの木を植えていたらどうだったろう。1万本まででなくても3千本も
あれば見事な紅葉山が完成するだろう。他にも広い境内を利用して山内をグルリ一周する遊歩道があってもいい。
油山寺は遠州三山の中でも一番参拝者が少ないと思うが、このようになればきっと県内でも有数な名所になると思うのだが・・・・・・
今年最少の妄想でした。
国重要文化財 三重塔 本 堂
この三重塔も本堂も源頼朝が眼病全快のお礼に寄進し、その普請奉行をしたのが当時の遠江国守護職工藤祐経だった。
工藤祐経(すけつね)と云えば曽我物語の敵役のあの工藤祐経で、富士の巻狩りの際に兄弟に討たれてしまった。
これが敵役ではなく曽我兄弟の父親だったらきっと案内板などで紹介されていたのだろうが、如何せん敵役では仕方ないか。
でも敵役とはいえ工藤祐経だって曽我兄弟の祖父と父親には、領土を横取りされてしまったのだから仕方ない面もある。
遠州の守護職でもあったのだからもっと紹介してもよさそうなものだ。
本堂横の陽だまりに座り残りの弁当を食べた。本堂というものの一般的には宝生殿を本堂で、ここを奥の院と思っている人が多い。
今も宝生殿では見かけた参拝客もここには一人もいない。縁側に掛けられた古い絵馬が風に煽られ鳴子のようにカタカタなっている。
法多山から油山寺までは、歩行と参拝時間を含めて2時間とみていたが、歩行時間だけで2時間以上になってしまった。
そして参拝や飯の時間を含めると30分の超過だが袋井駅には4時半には着くだろうから問題は無い。。
可睡斎裏口 可睡斎本堂
予定を少しオーバーしたからではないが、油山寺と可睡斎の間も距離が長くなる千鳥ヶ池経由を止めて、昨年歩いた可睡斎へ裏口
から入るルートを選んだ。この道が別段距離が短くなる訳ではないが後半部分は車が少なく、ゴールが可睡斎の横から入るので気分
的に近道をした感じになる。
可睡斎の境内に入ったのが3時15分。すでに参拝者は3組しかいず寺の売店も店じまいの支度をしていた。
書 院 鬼 瓦
可睡斎は徳川家康と縁があるので三つ葉葵の紋が目立つ。このようは紋の使用料はどうなっているのだろうか。
で、調べてみると奥州伊達家の 「竹に雀」 の紋は商標登録されていて、使用料は年間1万円から5万円となっていた。
でもこれって少し変ではないか、先祖から受け継いできた家紋が “竹に雀” だった場合どうなるのだ、使用料を払うのだろうか。
それなら我家の家紋は “下り藤” なのでこれを商標登録したらどうなるのだ。こんなことがまかり通るようでは日本も中国並みに
なってしまいかねない。困ったものだ。
ちなみに “三つ葉葵” の紋の使用料は分かりませんでした。
烏天狗 三尺坊御真殿 烏天狗
可睡斎は曹洞宗總持寺の直末寺院であると同時に秋葉総本殿三尺坊大権現の道場でもある。
今回の紹介は写真だけとします。
活人剣 石碑 東陽軒
今年新たに加わった 「活人剣」 とは可睡斎のHPによれば
「下関条約交渉時に清国全権大使李鴻章狙撃事件が発生。勅命を受けた陸軍軍医総監佐藤が李の治療に当たり、無事条約は締結。
国難を救った佐藤の医業の功績を称えるとともに、日清戦争で亡くなられた両国の方々の霊を弔う為に建立した。」
可睡斎の奥の院近くには古い活人剣の台座だけがあった。これは第2次大戦中金属部分を供出した残骸だそうだ。
これも新しい石碑で表面に 「徳川家康公深きゆかりの禪寺」、横面に 「拾萬石待遇 東海大僧録司」 とある。
“大僧録司(だいそうろくし)” とは これも可睡斎のHPに載っていた。
「江戸幕府は大僧録と全国に僧録所を設置し、管下の寺院を管理させた。可睡斎は東海4ケ国約2500の曹洞宗寺院を管理したした。
寺院本来の本末関係に代わる独自の管理体制で、幕府の寺社奉行に直結していました。管下各寺院は僧の任免、寺格の昇進、その他
もめ事や裁判等まで、全てを僧録司に上申し、その決裁を仰いだのです。」 と中々強い権限があったようだ。
それにしても10万石待遇とは破格だと思う。江戸時代石高1万石以上の藩主を大名と呼び、10万石の藩は全体の2割程度しかなかった。
しかも江戸時代通して10万石以上の譜代大名は酒井氏、阿部氏、堀田氏、柳沢氏、戸田氏をはじめわずかであったという。
それが可睡斎も同じように10万石を貰っていたら、これだけの寺の規模ではすまなかったであろう。多分10万石待遇とは名誉称号で、
実質石高は有るか無しか程度だったのではないかとおもう。
可睡斎の入口に小さなお堂があり、そこの軒先に木造の観音像が2体安置されている。その仏像は色は褪せ見た目はみすぼらしく
夜見たら幽霊かと見紛うようだ。せめてお堂の中に安置すればよいのに毎回思う。お堂の中には三つ葉葵の幔幕も見えているので
可睡斎と関係あるお堂と思ったら、案内板に 「この東陽軒が可睡斎の始まりです」 とある。ならもっと大事したらどうだと言いたい。
原野谷川静橋 藤枝駅南口
静橋の上に建つ “飛翔” と名でけられた親子の銅像。その後ろに今日縦走した小笠丘陵が見えていた。
ここまで来れば袋井駅は近いし、あと少しで今年最初の乾杯もできる。サー後一頑張りだ。
藤枝駅の南口では今年もイルミネーションで彩られていました。