歩行記録 H27-9-4(金)
歩行時間:4時間40分 休憩時間:2時間00分 延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分 到着時刻:15時05分
歩 数: 30、793歩(推定距離23.1km) GPS距離22.6km
行程表
太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅
87番長寿寺(遍路道)
高速道路下にペルセウス座 道路標識
結願の寺87番長寿寺(ちょうじゅじ)への道は、円通寺の高台を下り県道23号を北に向かい、東海道本線大高駅の手前までの
分かりやすい道だった。この辺りの道路状況は皆目わからないが、先ず立体交差になっている伊勢湾岸道路のガードを潜った。
するとそこに 「ペルセウス座」 の案内板と共に星座を表しているような置物があった。 「なにこれ?」 と思いながら上を見たが、
上に見えるのは当然高速道の底だけ。何のため、誰のためにこんな物を作ったのか意味が分からなかった。
次に潜ったガードは名四国道と名古屋高速3号大高線。そこの道路標識に名古屋市の市標㊇マークが見えていた。
前から㊇マークが名古屋の市標とは知っていたが、理由は尾張徳川に関係するものだろう程度だった。そこで今回調べてみると
「尾張八郡(尾張藩政下に置かれていた愛知・春日井・知多などの八郡)の八に由来する 。」 とか
「尾張藩の先祖・八幡太郎義家の八からとった。」 など色々あるようだった。
だが何れにしろこの㊇マークは、江戸時代から尾張徳川の紋として使われていてたことは確かなようだ。
ラブホテル ラブホテル?
最初に見えてのは一見してラブホテルと分かったが、次にあったホテルは判断が難しかった。ビジネスホテルのように見えるし
ラブホテルとも言えなくもない。果たしてどちらだろうとジロジロ見ながら歩く生臭遍路でした。
長寿寺前景 鐘楼門
東海道線と新幹線のガードを潜ると目の前が87番長寿寺の広い駐車場だった。駐車場の先には楼門が見えている。
近づいてみると2階に梵鐘が見えているので正確には鐘楼門なのだろう。
この寺にも幟旗が無かったが 「新四国八十七番長壽寺」 の石柱は立っていた。どうやら都会の大寺は幟旗は野暮臭いと感じて
立てていないようだ。マーそれならそれでも構わないが、山門近くにはせめて札所番号を書いた石柱は欲しい。
本 堂 西国三十三霊場石仏群
この本堂の雰囲気は以前見た遠州引佐の初山宝林寺に似ていると思い、家に戻り宝林寺の写真を見たが、宝林寺の屋根は
萱葺で、しかも屋根の両角の鯱の飾りも無かった。でも何となくお互い日本的でない雰囲気を感じさせる。
そういえば宝林寺は黄檗宗で明朝風様式を伝えていると案内されていた。しかしここ長寿寺は同じ禅宗だが臨済宗だった。残念。
長寿寺はもと真言宗長祐寺として開創されたが、桶狭間の戦いの前哨戦、鷲津砦の戦いで織田軍が敗れ、長祐寺も兵火により
全てが灰燼に帰した。江戸時代になり再興され長寿寺と改名、臨済宗に改宗したとある。
その鷲津砦は長寿寺の裏山なのだから、砦に攻め込んだ今川勢の焼き討ちにあうのも当然そうな場所だった。
整然と手入れが行き届いた境内の一画に、西国三十三霊場の石仏が祀られていた。
弘法堂 弘法堂内陣
これで知多四国霊場最後のお詣りになるので久し振りに般若心経を読経した。まだ他人がいると声が出なくなるが、幸い一人だった
ので声を出して読経をする事ができました。
そして無事結願を迎える事ができたことを感謝して 「南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛」
私が今まで歩いた霊場巡りの順番は、最初と最後は札所番号にしていたが、途中の順番はほぼ距離優先で決めていた。
なので知多四国霊場でも結願は88番で迎えたいと思っていたが、5番札所を打っていなかったため87番を結願とするしかなかった。
そして順路は図の赤矢印の82・83・86・85・84・5・88・87となった。
さらに札所順位青矢印を入れてみたら、おかしなことに結願の場所が半島の内側に戻るようになってしまう。
そしてこれは最後に知ったのだが、知多四国霊場総奥の院が名古屋八事の興正寺だということを。そうなると私の歩いた順路なら
良いが、札所順では再度87番の方向に戻らなければならなくなる。これじぁ余りにも変だ。
だいたい総奥の院については知多四国霊場公式HPに何の記載もないし、今回購入した朱印帳にも総奥の院のページは無い。
さらに知多四国を巡拝した人のブログで総奥の院の朱印も見たが、知多四国の言葉は記入されていなかった。
何を言いたいか分かったって。そうです総奥の院は知多四国霊場開創亮山阿闍梨の時も、そして今も正式な総奥の院ではない。と。
自分が名古屋の街中を歩くのが嫌なため、強引に結論をつけたきらいはあるが、そんな訳で総奥の院へは参拝しないことにした。
実は87番と88番の位置関係は開創時代は86番から88番への道がなく、止む無くこんな形になったと思っていたので、それを
確認するため88番で聞いてみた。
すると 「87番の長寿寺さんも昔は知多郡だった」 という返事。聞いたときはその意味が分からず追及しなかったが、あとで考え
長寿寺のある大高は名古屋市大高だが、名古屋に合併する前は知多郡の町だったのだろうと見当をつけた。それでお寺さんは
“同じ知多郡だからどちらでもいい” と言いたかったようだ。
同じ質問を長寿寺ですると 「昔は円通寺さんに行く道はこちらからしかなかった」 と私の想像と同じだった。
とマーそんな自慢話で知多四国霊場の遍路観歩記は終わります。
88番円通寺から87番長寿寺への道
歩行時間:4時間40分 休憩時間:2時間00分 延時間:6時間40分
出発時刻:8時25分 到着時刻:15時05分
歩 数: 30、793歩(推定距離23.1km) GPS距離22.6km
行程表
太田川駅 0:10> 83番 0:35> 86番 0:20> 85番 0:20> 84番 0:40> 5番 0:25> 88番 0:45> 87番 1:00>
桶狭間公園 0:25> 競輪場前駅
87番長寿寺(遍路道)
高速道路下にペルセウス座 道路標識
結願の寺87番長寿寺(ちょうじゅじ)への道は、円通寺の高台を下り県道23号を北に向かい、東海道本線大高駅の手前までの
分かりやすい道だった。この辺りの道路状況は皆目わからないが、先ず立体交差になっている伊勢湾岸道路のガードを潜った。
するとそこに 「ペルセウス座」 の案内板と共に星座を表しているような置物があった。 「なにこれ?」 と思いながら上を見たが、
上に見えるのは当然高速道の底だけ。何のため、誰のためにこんな物を作ったのか意味が分からなかった。
次に潜ったガードは名四国道と名古屋高速3号大高線。そこの道路標識に名古屋市の市標㊇マークが見えていた。
前から㊇マークが名古屋の市標とは知っていたが、理由は尾張徳川に関係するものだろう程度だった。そこで今回調べてみると
「尾張八郡(尾張藩政下に置かれていた愛知・春日井・知多などの八郡)の八に由来する 。」 とか
「尾張藩の先祖・八幡太郎義家の八からとった。」 など色々あるようだった。
だが何れにしろこの㊇マークは、江戸時代から尾張徳川の紋として使われていてたことは確かなようだ。
ラブホテル ラブホテル?
最初に見えてのは一見してラブホテルと分かったが、次にあったホテルは判断が難しかった。ビジネスホテルのように見えるし
ラブホテルとも言えなくもない。果たしてどちらだろうとジロジロ見ながら歩く生臭遍路でした。
長寿寺前景 鐘楼門
東海道線と新幹線のガードを潜ると目の前が87番長寿寺の広い駐車場だった。駐車場の先には楼門が見えている。
近づいてみると2階に梵鐘が見えているので正確には鐘楼門なのだろう。
この寺にも幟旗が無かったが 「新四国八十七番長壽寺」 の石柱は立っていた。どうやら都会の大寺は幟旗は野暮臭いと感じて
立てていないようだ。マーそれならそれでも構わないが、山門近くにはせめて札所番号を書いた石柱は欲しい。
本 堂 西国三十三霊場石仏群
この本堂の雰囲気は以前見た遠州引佐の初山宝林寺に似ていると思い、家に戻り宝林寺の写真を見たが、宝林寺の屋根は
萱葺で、しかも屋根の両角の鯱の飾りも無かった。でも何となくお互い日本的でない雰囲気を感じさせる。
そういえば宝林寺は黄檗宗で明朝風様式を伝えていると案内されていた。しかしここ長寿寺は同じ禅宗だが臨済宗だった。残念。
長寿寺はもと真言宗長祐寺として開創されたが、桶狭間の戦いの前哨戦、鷲津砦の戦いで織田軍が敗れ、長祐寺も兵火により
全てが灰燼に帰した。江戸時代になり再興され長寿寺と改名、臨済宗に改宗したとある。
その鷲津砦は長寿寺の裏山なのだから、砦に攻め込んだ今川勢の焼き討ちにあうのも当然そうな場所だった。
整然と手入れが行き届いた境内の一画に、西国三十三霊場の石仏が祀られていた。
弘法堂 弘法堂内陣
これで知多四国霊場最後のお詣りになるので久し振りに般若心経を読経した。まだ他人がいると声が出なくなるが、幸い一人だった
ので声を出して読経をする事ができました。
そして無事結願を迎える事ができたことを感謝して 「南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛」
私が今まで歩いた霊場巡りの順番は、最初と最後は札所番号にしていたが、途中の順番はほぼ距離優先で決めていた。
なので知多四国霊場でも結願は88番で迎えたいと思っていたが、5番札所を打っていなかったため87番を結願とするしかなかった。
そして順路は図の赤矢印の82・83・86・85・84・5・88・87となった。
さらに札所順位青矢印を入れてみたら、おかしなことに結願の場所が半島の内側に戻るようになってしまう。
そしてこれは最後に知ったのだが、知多四国霊場総奥の院が名古屋八事の興正寺だということを。そうなると私の歩いた順路なら
良いが、札所順では再度87番の方向に戻らなければならなくなる。これじぁ余りにも変だ。
だいたい総奥の院については知多四国霊場公式HPに何の記載もないし、今回購入した朱印帳にも総奥の院のページは無い。
さらに知多四国を巡拝した人のブログで総奥の院の朱印も見たが、知多四国の言葉は記入されていなかった。
何を言いたいか分かったって。そうです総奥の院は知多四国霊場開創亮山阿闍梨の時も、そして今も正式な総奥の院ではない。と。
自分が名古屋の街中を歩くのが嫌なため、強引に結論をつけたきらいはあるが、そんな訳で総奥の院へは参拝しないことにした。
実は87番と88番の位置関係は開創時代は86番から88番への道がなく、止む無くこんな形になったと思っていたので、それを
確認するため88番で聞いてみた。
すると 「87番の長寿寺さんも昔は知多郡だった」 という返事。聞いたときはその意味が分からず追及しなかったが、あとで考え
長寿寺のある大高は名古屋市大高だが、名古屋に合併する前は知多郡の町だったのだろうと見当をつけた。それでお寺さんは
“同じ知多郡だからどちらでもいい” と言いたかったようだ。
同じ質問を長寿寺ですると 「昔は円通寺さんに行く道はこちらからしかなかった」 と私の想像と同じだった。
とマーそんな自慢話で知多四国霊場の遍路観歩記は終わります。
88番円通寺から87番長寿寺への道