歩行記録 H27-8-28(金)
歩行時間:6時間25分 休憩時間:2時間20分 延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分 到着時刻:17時55分
歩 数: 40、334歩(推定距離30.2km) GPS距離29.0km
行程表
内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
55番 0:30> 57番 1:35> 番外 0:05 58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅
61番高讃寺(古刹)
国道247号 国道247号の歩道
61番高讃寺(こうさんじ)への道は、東に走っている国道247号に出て国道を2kmも北に向かった所にある。
国道に出ると道路標識には、遍路2回目と3回目にに歩いた武豊の地名がが書かれていた。これで知多半島の南部をグルリ
回ってきた事になる。おかげで遍路も後2回も歩けば結願となりそうで、そのためには今日は少しでも多くの札所を打って
おかなければならない。
国道はやはり新しくできた道のようで、民家は少なく車は大分スピードを出しているようだ。幸いにして歩道があるので不安
なく歩けるのは良いが、これが天下の国道の歩道かよ! と嘆きたくなる感じだった。これで右側を車が走っていなかったら
田舎の農道のようだ。
最近は政府の財政状況が厳しく、既存設備の補修の手を抜いているようだがこんな事で良いのだろうか。先日も新聞に信号機の
制御装置の耐用年数が過ぎているものがあるが、更改が滞っていて、信号が誤表示する場合があると載っていた。
アーア! 先進国の名が泣くよな。無駄な事に金は使うのに庶民の生活に関する事には金を惜しむ。情けない政府だ。
それでもまだこんな体制批判も許される国で良かったが、今に体制批判をすると秘密情報保護法と同じよな 「体制批判禁止法」
なる法律が国会で強行採決されて、我々庶民も逮捕されるようになるかもしれない・・・・・ 恐ろしい世の中が近づいて来そうだ。
高讃寺石柱門 高讃寺仁王門
国道の右(東)側に小高い森に登る階段が見えてきた。どうやらあれが61番高讃寺のようだ。
高讃寺は知多四国霊場の43番岩屋寺、82番観福寺とともに知多三山と呼ばれる名刹だそうだが、何となく淋しい入口に見える。
階段の上に仁王門が感じ良く建っている。これで屋根が萱葺ならもっといいのにといった感じだ。
仁王(阿) 仁王(吽) 観音堂
仁王門には鎌倉時代東大寺の像をモデルにした、身の丈3mを越す知多半島最大の木造彫刻の仁王像が祀られている。
現在は愛知県の文化財に指定されているとある。
ここまで入ると国道の騒音も聞こえなくなり、ここが国道のすぐ横にある寺とは思えない。
仁王門の昔話の案内が立っていたので紹介します。
「『池の中から出てきた仁王様』 昔、垂水本宮山の池の中から引上げられた仁王さんを、大勢の村人が洞雲寺へ運ぼうと
したがどうしても動かず村人達は困ってしまった。
「ア!そうだこれは高讃寺の仁王様だ」 と話がまとまり高讃寺に向けて動かすと、今までビクともしなかった仁王様が、まるで
足でも生えたように軽々動き、無事高讃寺に安置できました。目出たし、目出たし。
注:戦国時代、織田・今川両氏の戦火を逃れて池に中へ。行く数年後の江戸初期に現在地へ。
“池の中から出てきた仁王様” が眼前の此の仁王様です。」
行基菩薩像(陶像) 地蔵像 地蔵堂
着物姿の穏やかな表情で水瓶を手に持つ像は、初め寺の開祖か中興の祖の像かと思った。それが行基菩薩の銅像とは
以外だった。私が行基に持つイメージは、全国行脚し、各地で治水や架橋など民衆に尽くし、仏像を刻んでは各地の寺に
奉納した僧としてのイメージが強い。そのため金持の僧というより、役行者のように瘠せて貧相な顔を想像していた。
そのイメージとこの像とでは天と地の開きがあった。
そこでネットで行基の写真を検索してみると、確かに私の持つイメージの像が多いが、金持然とした高僧風な像もある。
ようは想像して彫ったり描いたりして出来た姿は、その作者の持つイメージよって違ってくるのだから仕方ない事だろう。
地蔵像はどこでも見るお地蔵さんでしたが、手には長い数珠が幾つも巻かれていた。
地蔵堂の中には陶器で出来た千体地蔵が祀られていた。
本 堂 弘法堂
高讃寺はかっては天皇の勅願寺として七堂伽藍三百坊を有する大寺院として名を馳せたが、何度もの兵火に伽藍や坊を
焼かれ、残ったのは高讃寺となった南の坊一院だけだったといいます。
また本尊は平安時代に天竺伝来の香木で作った寄木造りの聖観世音菩薩と檜の一木造りの阿弥陀如来像があり、これらは
愛知県指定文化財となっている。
ウゥ! 待てよ、さっき寄った安楽寺の本尊は、戦火から逃れて高讃寺から安楽寺に疎開してきた阿弥陀如来だった。
なのに高讃寺には愛知県の文化財に指定される程の仏像が残っていたとは。
何故だ。又もや私の妄想的歴史観が蠢きだした。
高讃寺は境内は広く仁王門をはじめ小堂や石仏の数も多く古刹を感じさせる雰囲気はある。だがそれは飽く迄も古刹であって
名刹とは思えない。それに比べ安楽寺の境内は狭いが隅々まで手が行き届いていて、寺の内福の良さを感じさせた。
それに寺宝である本尊を疎開させるなら、わずか2km強ほどしか離れていない場所でなく、もっと半島奥の同じ宗派の寺に
避難させると思うし、価値の低い仏像だけでなく三体全ての本尊を避難させたと思う。
それらの全てに反し、安楽寺に高讃寺の仏像が避難して、そのまま返却されなかった理由とは ・・・・・・・・・
古刹だがかっての古い由緒のある権威を保ちたい高讃寺は、三体あった本尊の内の一番価値の小さな仏像を他宗派の安楽寺に
売却した。だがこの事実を他言する分けにはいかず “戦火から逃れるため” に安楽寺に疎開した事にしたのではないか。
と好き勝手な妄想に陥るのでした。安楽寺さん高讃寺さん申し訳ありません。
明治時代に奉納された富士登山の絵馬
弘法堂に明治、大正、昭和の富士登山の絵馬が掲げれていた。
写真の絵馬は明治45年の富士登山のもので、一行は緑豊かな森の中の登山道を歩いている。どこの登山口かと富士山を
見るが、特徴のある宝永山が描かれていないのを見ると、素直に考えれば山梨県の登山口となる。
しかし愛知県の人が東海道線に面した富士山表口登山道のある富士宮口を通り越して、富士吉田口に回ったとは思えない。
他の絵馬を見ても宝永山は描かれていないのを見ると、この画家は宝永山を富士山の傷として描かなかった可能性がある。
富士山の絵といえば銭湯のペンキ絵があるが、この絵も海と富士山が一緒に書かれていても宝永山は描かれていない。
よってこの宝永山の無い富士山だが登山口は富士宮口だとしておこう。
いろいろケチを付けたが面白い古刹でした。
60番安楽寺から61番高讃寺への道
歩行時間:6時間25分 休憩時間:2時間20分 延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分 到着時刻:17時55分
歩 数: 40、334歩(推定距離30.2km) GPS距離29.0km
行程表
内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
55番 0:30> 57番 1:35> 番外 0:05 58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅
61番高讃寺(古刹)
国道247号 国道247号の歩道
61番高讃寺(こうさんじ)への道は、東に走っている国道247号に出て国道を2kmも北に向かった所にある。
国道に出ると道路標識には、遍路2回目と3回目にに歩いた武豊の地名がが書かれていた。これで知多半島の南部をグルリ
回ってきた事になる。おかげで遍路も後2回も歩けば結願となりそうで、そのためには今日は少しでも多くの札所を打って
おかなければならない。
国道はやはり新しくできた道のようで、民家は少なく車は大分スピードを出しているようだ。幸いにして歩道があるので不安
なく歩けるのは良いが、これが天下の国道の歩道かよ! と嘆きたくなる感じだった。これで右側を車が走っていなかったら
田舎の農道のようだ。
最近は政府の財政状況が厳しく、既存設備の補修の手を抜いているようだがこんな事で良いのだろうか。先日も新聞に信号機の
制御装置の耐用年数が過ぎているものがあるが、更改が滞っていて、信号が誤表示する場合があると載っていた。
アーア! 先進国の名が泣くよな。無駄な事に金は使うのに庶民の生活に関する事には金を惜しむ。情けない政府だ。
それでもまだこんな体制批判も許される国で良かったが、今に体制批判をすると秘密情報保護法と同じよな 「体制批判禁止法」
なる法律が国会で強行採決されて、我々庶民も逮捕されるようになるかもしれない・・・・・ 恐ろしい世の中が近づいて来そうだ。
高讃寺石柱門 高讃寺仁王門
国道の右(東)側に小高い森に登る階段が見えてきた。どうやらあれが61番高讃寺のようだ。
高讃寺は知多四国霊場の43番岩屋寺、82番観福寺とともに知多三山と呼ばれる名刹だそうだが、何となく淋しい入口に見える。
階段の上に仁王門が感じ良く建っている。これで屋根が萱葺ならもっといいのにといった感じだ。
仁王(阿) 仁王(吽) 観音堂
仁王門には鎌倉時代東大寺の像をモデルにした、身の丈3mを越す知多半島最大の木造彫刻の仁王像が祀られている。
現在は愛知県の文化財に指定されているとある。
ここまで入ると国道の騒音も聞こえなくなり、ここが国道のすぐ横にある寺とは思えない。
仁王門の昔話の案内が立っていたので紹介します。
「『池の中から出てきた仁王様』 昔、垂水本宮山の池の中から引上げられた仁王さんを、大勢の村人が洞雲寺へ運ぼうと
したがどうしても動かず村人達は困ってしまった。
「ア!そうだこれは高讃寺の仁王様だ」 と話がまとまり高讃寺に向けて動かすと、今までビクともしなかった仁王様が、まるで
足でも生えたように軽々動き、無事高讃寺に安置できました。目出たし、目出たし。
注:戦国時代、織田・今川両氏の戦火を逃れて池に中へ。行く数年後の江戸初期に現在地へ。
“池の中から出てきた仁王様” が眼前の此の仁王様です。」
行基菩薩像(陶像) 地蔵像 地蔵堂
着物姿の穏やかな表情で水瓶を手に持つ像は、初め寺の開祖か中興の祖の像かと思った。それが行基菩薩の銅像とは
以外だった。私が行基に持つイメージは、全国行脚し、各地で治水や架橋など民衆に尽くし、仏像を刻んでは各地の寺に
奉納した僧としてのイメージが強い。そのため金持の僧というより、役行者のように瘠せて貧相な顔を想像していた。
そのイメージとこの像とでは天と地の開きがあった。
そこでネットで行基の写真を検索してみると、確かに私の持つイメージの像が多いが、金持然とした高僧風な像もある。
ようは想像して彫ったり描いたりして出来た姿は、その作者の持つイメージよって違ってくるのだから仕方ない事だろう。
地蔵像はどこでも見るお地蔵さんでしたが、手には長い数珠が幾つも巻かれていた。
地蔵堂の中には陶器で出来た千体地蔵が祀られていた。
本 堂 弘法堂
高讃寺はかっては天皇の勅願寺として七堂伽藍三百坊を有する大寺院として名を馳せたが、何度もの兵火に伽藍や坊を
焼かれ、残ったのは高讃寺となった南の坊一院だけだったといいます。
また本尊は平安時代に天竺伝来の香木で作った寄木造りの聖観世音菩薩と檜の一木造りの阿弥陀如来像があり、これらは
愛知県指定文化財となっている。
ウゥ! 待てよ、さっき寄った安楽寺の本尊は、戦火から逃れて高讃寺から安楽寺に疎開してきた阿弥陀如来だった。
なのに高讃寺には愛知県の文化財に指定される程の仏像が残っていたとは。
何故だ。又もや私の妄想的歴史観が蠢きだした。
高讃寺は境内は広く仁王門をはじめ小堂や石仏の数も多く古刹を感じさせる雰囲気はある。だがそれは飽く迄も古刹であって
名刹とは思えない。それに比べ安楽寺の境内は狭いが隅々まで手が行き届いていて、寺の内福の良さを感じさせた。
それに寺宝である本尊を疎開させるなら、わずか2km強ほどしか離れていない場所でなく、もっと半島奥の同じ宗派の寺に
避難させると思うし、価値の低い仏像だけでなく三体全ての本尊を避難させたと思う。
それらの全てに反し、安楽寺に高讃寺の仏像が避難して、そのまま返却されなかった理由とは ・・・・・・・・・
古刹だがかっての古い由緒のある権威を保ちたい高讃寺は、三体あった本尊の内の一番価値の小さな仏像を他宗派の安楽寺に
売却した。だがこの事実を他言する分けにはいかず “戦火から逃れるため” に安楽寺に疎開した事にしたのではないか。
と好き勝手な妄想に陥るのでした。安楽寺さん高讃寺さん申し訳ありません。
明治時代に奉納された富士登山の絵馬
弘法堂に明治、大正、昭和の富士登山の絵馬が掲げれていた。
写真の絵馬は明治45年の富士登山のもので、一行は緑豊かな森の中の登山道を歩いている。どこの登山口かと富士山を
見るが、特徴のある宝永山が描かれていないのを見ると、素直に考えれば山梨県の登山口となる。
しかし愛知県の人が東海道線に面した富士山表口登山道のある富士宮口を通り越して、富士吉田口に回ったとは思えない。
他の絵馬を見ても宝永山は描かれていないのを見ると、この画家は宝永山を富士山の傷として描かなかった可能性がある。
富士山の絵といえば銭湯のペンキ絵があるが、この絵も海と富士山が一緒に書かれていても宝永山は描かれていない。
よってこの宝永山の無い富士山だが登山口は富士宮口だとしておこう。
いろいろケチを付けたが面白い古刹でした。
60番安楽寺から61番高讃寺への道