歩行記録 H29-11-15(水)
歩行時間:7時間25分 休憩時間:1時間20分 延時間:8時間45分
出発時刻:7時50分 到着時刻:16時35分
歩 数: 歩(推定距離km) GPS距離18.7km
行程表
関方BS 0:40> 方の上城跡 1:30> 石脇登山口 0:15> 石脇城跡 0:45> 花沢城跡 1:40> 満観峰 1:00>
小坂堂 1:10> 持舟城跡 0:25> 用宗駅
石脇城址から花沢城址への道
石脇から花沢城址に行くなら、やきつ辺の道で行くのが妥当だが、方ノ上から来た時その一部を歩いているので、あえて違う
道をと高草山の南麓の平らな車道を歩く事にした。
格好をつけて言えばそうなるが、正直な所はアップダウンのあるやきつ辺の道を避けただけです。
しかしこうして平らな道を歩いていると、なぜ古の東海道が平らな所でなく、敢えて起伏のある道にしたのか考えてしまう。
まず考えられるのは、この南麓が湿地帯で歩けない時期が発生する事だが、それを証拠付けるような地名の 「吉津」 がある。
吉津の地名で想像できるのは当然葦の生えた湿地帯ですよね。
更にこの道の先には 「野秋」 という地名がある。そこに建つ須賀神社の案内板にこんな事が書かれていた。
「日本武尊がこの地において野火の難にあわれたため、かっての村名を野焼村といい、社号を野焼神社と称したいう。
実際、諸郡神階帳に「正四位下 野焼神社」とある。
しかし疫病が流行し、民家もたびたび焼失したため、焼という字を改めて村名を野秋とし現在の社号にした。」
如何にも尤もらしい説だが私はこの説は地元の “身贔屓説” だと思っている。イエそれは兎も角、この事でここには燃えやすい
植物(葦類)が生えていたことが分かります。
そのため高草山の南麓は湿地帯で歩きにくかったので、古代の東海道はそれを避けて中腹にやきつ辺の道を開通したのでしょう。
ただ案内板に書かれている “野焼村” についてはこんな説もあるので紹介しておきます。
「現在の野秋という地名は、もとは「野焼」と書かれていた。 高草山周辺では近世に焼畑が行われていたことや、 春先に茅場を
焼くこともあったと推定される。」 となると、湿地帯に畑を作る事ができたのだろうかと考えてしまう。
湿地帯でなければ起伏のある道を歩かなくてもと、また元の木阿弥になってしまいます。
高草山と花沢城址 花沢城址入口の四辻
麓の平らな道を離れ花沢城址入口のあるやきつ辺の道の四辻に向かうと、高草山と花沢城址のある小山が見えてきます。
その間に見える白い物は、焼津市内で一番標高の高い所にある高崎集落です。
何故こんな高台に家を建てる必要があったのか、疑問に思える場所です。
四辻を右折して花沢城址に向かうと、四辻が良く分かります。右はやきつ辺の道で花沢集落に向かう道。
左はやきつ辺の道経由で石脇登山口に出ます。正面の登り道は高崎集落と高草山へ向かう道ですが、何故か標識には高崎集落しか
書いてない。そのため花沢観光駐車場から高草山に登る多くの登山者は、やきつ辺に道を直進した登山口から登っているようです。
しかし実際には10mも高草集落に向かうと右に農道が延びています。その農道を上ると登山口を上って最初に会う農道の三辻に
合流します。大分距離も短いし眺めもあるのでお勧めです。
四辻には案内板があるが位置関係が分かりずらく頭を悩ましてしまうが、兎も角 「花沢城址」 の杭の建つ農道を進みます。
花沢城址登り口 整備された道?
四辻から農道に入り分岐にでたら右の山の西側の道を進みます。程なく 「花沢城址」 の標識があります。
昨年焼津歴史博物館の公演で講師が 「花沢城址の整備をする」 と言っていたので期待が持てます。
しかし入口付近では整備された気配は見当たらないが、途中の階段や手摺は新しいような気もする。多分これも整備の一環でしょう。
イヌタデ(犬蓼) 高草山と高崎集落
一の曲輪のある山頂付近の樹木が伐採された所にはイヌタデが群生している。珍しくもない雑草で妻は子供の頃はままごとで
“あかまんま(赤飯)” と呼んでご飯の代わりに利用していたという。
諺に 「蓼食う虫も好き好き」 と言うのがあるので、このイヌタデの事かと思い調べてみました。すると “言語由来辞典” に
「このタデはヤナギタデのことで、ヤナギタデには葉や茎に苦みがあるが、これを好んで食べる蓼虫がいる。」とあり、最後に
「諺から蓼虫しか食べないと思われているが、人間も刺身のつまや蓼酢ととして食用にしている。」 本当かしら?
高草山の中腹に高草集落が見えていた。今寄ってきた石脇城付近は標高10m以下で、あの高崎集落の場所は95mほどもある。
別に平坦地があるわけでみなく、近くに大きな農園も無い。なのに何故あんな高台にわざわざ集落を造ったのだろうか?
前回来た時こんな構想的歴史観を紹介している。
「花沢城に平地はあるが将兵が生活するには狭すぎる。そこで身分ある侍たちは高崎集落や麓の館に住んでいたのではないか。
なら高崎集落の住民の先祖は花沢城の重臣だったに違いない。
高崎集落についても調べてみると、このな記事があった。
「高崎は明治8(1875)年に馬場村(高崎上)と成沢村(高崎下)が合併して成立した。 一般に「ばんば」と呼んでいる馬場村は、
花沢城の馬場が置かれたのが地名の由来という。」 マー当たらずとも遠からずだ。」 と妄想していた。
一の曲輪にある縄張り
一の曲輪にある縄張り図にも画面右の赤丸の中に 「馬場」 と書かれています。多分この馬場で城の馬を飼育していたのでしょう。
となると高崎集落には馬場の担当者、今で言えば厩務員の住宅だったのです。(本当かな?)
花沢城の歴史は四辻立つ案内板で紹介します。
「花沢城址~駿府の西の要~
花沢城は日本坂・小坂間の街道を押さえる駿府の西の守りとして、今川によって築かれた戦国時代の山城です。
築城に時期は不明だが、甲斐の武田信玄による駿河進攻にともない激戦地となった事で著名です。
信玄は花沢城の進攻にあたり、城を見下ろす西側の高草山山中に陣を構え、永禄13(1570)年正月4日攻撃が開始された。
天然の要害を利用した城の造りと城兵の勇敢な抗戦により、落城したのは正月の27日だった。」
この中に気になる事が書いてあった。 “信玄は花沢城の進攻にあたり、城を見下ろす西側の高草山山中に陣を構え” とあるが
花沢城の西となれば丁度高崎集落のある辺りがそうだ。ただ集落周辺の標高は100m程度。花沢山の一の曲輪あたりは140mある。
それでは見下ろす事はできないが花沢城は良く見える。多分信玄はこの集落付近に陣を構えたのだろう。
更に信玄は花倉城の攻略に3週間の日にちを費やしていながら、攻略すると花沢城をそのまま廃城にしている。
素人が考えると焼津湊の海上警備や日本坂峠の監視に必要な城だと思うのだが、廃城にしたつけが後日現れることになる。
前回の石脇城で紹介した “青木の森の戦い” は、花沢城に武田軍が駐留していれば徳川勢はチョッカイを出すこともなかった。
尤もそうであっても時の勢いは武田には無く、所詮武田は滅びる運命だっただろうが。
この縄張りは専門家向けなのか、私のような素人には理解しずらく、現在地も曲輪名も書いてありません。
花沢城址一の曲輪 一の曲輪から焼津市街
一の曲輪周辺も整備された気配はない。これから整備するならせめて曲輪の名称や土塁や掘割の表示が欲しい。
あの小さな方の上城址ですら表示があるのだから。
掘割か この先は藪だった
掘割らしきものも目に付いたが藪状になっていて区別がつかない。更に一の曲輪の先は藪になっていて入る気も起きなかった。
大々的な整備も期待したいが、せめて名称板などの設置は欲しいものです。
歩行時間:7時間25分 休憩時間:1時間20分 延時間:8時間45分
出発時刻:7時50分 到着時刻:16時35分
歩 数: 歩(推定距離km) GPS距離18.7km
行程表
関方BS 0:40> 方の上城跡 1:30> 石脇登山口 0:15> 石脇城跡 0:45> 花沢城跡 1:40> 満観峰 1:00>
小坂堂 1:10> 持舟城跡 0:25> 用宗駅
石脇城址から花沢城址への道
石脇から花沢城址に行くなら、やきつ辺の道で行くのが妥当だが、方ノ上から来た時その一部を歩いているので、あえて違う
道をと高草山の南麓の平らな車道を歩く事にした。
格好をつけて言えばそうなるが、正直な所はアップダウンのあるやきつ辺の道を避けただけです。
しかしこうして平らな道を歩いていると、なぜ古の東海道が平らな所でなく、敢えて起伏のある道にしたのか考えてしまう。
まず考えられるのは、この南麓が湿地帯で歩けない時期が発生する事だが、それを証拠付けるような地名の 「吉津」 がある。
吉津の地名で想像できるのは当然葦の生えた湿地帯ですよね。
更にこの道の先には 「野秋」 という地名がある。そこに建つ須賀神社の案内板にこんな事が書かれていた。
「日本武尊がこの地において野火の難にあわれたため、かっての村名を野焼村といい、社号を野焼神社と称したいう。
実際、諸郡神階帳に「正四位下 野焼神社」とある。
しかし疫病が流行し、民家もたびたび焼失したため、焼という字を改めて村名を野秋とし現在の社号にした。」
如何にも尤もらしい説だが私はこの説は地元の “身贔屓説” だと思っている。イエそれは兎も角、この事でここには燃えやすい
植物(葦類)が生えていたことが分かります。
そのため高草山の南麓は湿地帯で歩きにくかったので、古代の東海道はそれを避けて中腹にやきつ辺の道を開通したのでしょう。
ただ案内板に書かれている “野焼村” についてはこんな説もあるので紹介しておきます。
「現在の野秋という地名は、もとは「野焼」と書かれていた。 高草山周辺では近世に焼畑が行われていたことや、 春先に茅場を
焼くこともあったと推定される。」 となると、湿地帯に畑を作る事ができたのだろうかと考えてしまう。
湿地帯でなければ起伏のある道を歩かなくてもと、また元の木阿弥になってしまいます。
高草山と花沢城址 花沢城址入口の四辻
麓の平らな道を離れ花沢城址入口のあるやきつ辺の道の四辻に向かうと、高草山と花沢城址のある小山が見えてきます。
その間に見える白い物は、焼津市内で一番標高の高い所にある高崎集落です。
何故こんな高台に家を建てる必要があったのか、疑問に思える場所です。
四辻を右折して花沢城址に向かうと、四辻が良く分かります。右はやきつ辺の道で花沢集落に向かう道。
左はやきつ辺の道経由で石脇登山口に出ます。正面の登り道は高崎集落と高草山へ向かう道ですが、何故か標識には高崎集落しか
書いてない。そのため花沢観光駐車場から高草山に登る多くの登山者は、やきつ辺に道を直進した登山口から登っているようです。
しかし実際には10mも高草集落に向かうと右に農道が延びています。その農道を上ると登山口を上って最初に会う農道の三辻に
合流します。大分距離も短いし眺めもあるのでお勧めです。
四辻には案内板があるが位置関係が分かりずらく頭を悩ましてしまうが、兎も角 「花沢城址」 の杭の建つ農道を進みます。
花沢城址登り口 整備された道?
四辻から農道に入り分岐にでたら右の山の西側の道を進みます。程なく 「花沢城址」 の標識があります。
昨年焼津歴史博物館の公演で講師が 「花沢城址の整備をする」 と言っていたので期待が持てます。
しかし入口付近では整備された気配は見当たらないが、途中の階段や手摺は新しいような気もする。多分これも整備の一環でしょう。
イヌタデ(犬蓼) 高草山と高崎集落
一の曲輪のある山頂付近の樹木が伐採された所にはイヌタデが群生している。珍しくもない雑草で妻は子供の頃はままごとで
“あかまんま(赤飯)” と呼んでご飯の代わりに利用していたという。
諺に 「蓼食う虫も好き好き」 と言うのがあるので、このイヌタデの事かと思い調べてみました。すると “言語由来辞典” に
「このタデはヤナギタデのことで、ヤナギタデには葉や茎に苦みがあるが、これを好んで食べる蓼虫がいる。」とあり、最後に
「諺から蓼虫しか食べないと思われているが、人間も刺身のつまや蓼酢ととして食用にしている。」 本当かしら?
高草山の中腹に高草集落が見えていた。今寄ってきた石脇城付近は標高10m以下で、あの高崎集落の場所は95mほどもある。
別に平坦地があるわけでみなく、近くに大きな農園も無い。なのに何故あんな高台にわざわざ集落を造ったのだろうか?
前回来た時こんな構想的歴史観を紹介している。
「花沢城に平地はあるが将兵が生活するには狭すぎる。そこで身分ある侍たちは高崎集落や麓の館に住んでいたのではないか。
なら高崎集落の住民の先祖は花沢城の重臣だったに違いない。
高崎集落についても調べてみると、このな記事があった。
「高崎は明治8(1875)年に馬場村(高崎上)と成沢村(高崎下)が合併して成立した。 一般に「ばんば」と呼んでいる馬場村は、
花沢城の馬場が置かれたのが地名の由来という。」 マー当たらずとも遠からずだ。」 と妄想していた。
一の曲輪にある縄張り
一の曲輪にある縄張り図にも画面右の赤丸の中に 「馬場」 と書かれています。多分この馬場で城の馬を飼育していたのでしょう。
となると高崎集落には馬場の担当者、今で言えば厩務員の住宅だったのです。(本当かな?)
花沢城の歴史は四辻立つ案内板で紹介します。
「花沢城址~駿府の西の要~
花沢城は日本坂・小坂間の街道を押さえる駿府の西の守りとして、今川によって築かれた戦国時代の山城です。
築城に時期は不明だが、甲斐の武田信玄による駿河進攻にともない激戦地となった事で著名です。
信玄は花沢城の進攻にあたり、城を見下ろす西側の高草山山中に陣を構え、永禄13(1570)年正月4日攻撃が開始された。
天然の要害を利用した城の造りと城兵の勇敢な抗戦により、落城したのは正月の27日だった。」
この中に気になる事が書いてあった。 “信玄は花沢城の進攻にあたり、城を見下ろす西側の高草山山中に陣を構え” とあるが
花沢城の西となれば丁度高崎集落のある辺りがそうだ。ただ集落周辺の標高は100m程度。花沢山の一の曲輪あたりは140mある。
それでは見下ろす事はできないが花沢城は良く見える。多分信玄はこの集落付近に陣を構えたのだろう。
更に信玄は花倉城の攻略に3週間の日にちを費やしていながら、攻略すると花沢城をそのまま廃城にしている。
素人が考えると焼津湊の海上警備や日本坂峠の監視に必要な城だと思うのだが、廃城にしたつけが後日現れることになる。
前回の石脇城で紹介した “青木の森の戦い” は、花沢城に武田軍が駐留していれば徳川勢はチョッカイを出すこともなかった。
尤もそうであっても時の勢いは武田には無く、所詮武田は滅びる運命だっただろうが。
この縄張りは専門家向けなのか、私のような素人には理解しずらく、現在地も曲輪名も書いてありません。
花沢城址一の曲輪 一の曲輪から焼津市街
一の曲輪周辺も整備された気配はない。これから整備するならせめて曲輪の名称や土塁や掘割の表示が欲しい。
あの小さな方の上城址ですら表示があるのだから。
掘割か この先は藪だった
掘割らしきものも目に付いたが藪状になっていて区別がつかない。更に一の曲輪の先は藪になっていて入る気も起きなかった。
大々的な整備も期待したいが、せめて名称板などの設置は欲しいものです。