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Channel: はぐれ遍路のひとりごと
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MHシリーズ4

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                夏と云えば・・・・・・・                        (MH季節シリ-ズ)

  夏至も過ぎ、真夏日や猛暑日、熱帯夜、更には熱中症が頻繁にTVで流れるようになりました。
そこで今回の “MH季節シリ-ズ”は当然その夏をテーマにしましょう。

  既に時期遅しですが、夏の最初の風物詩の 「七夕」 は外せません。
それに時季遅れとと云っても “月遅れ” も “旧暦” の七夕もあるので、この時期の七夕も良しとしてください。
  さて七夕と云えば東北三大祭りの一つ “仙台の七夕” ですが、残念ながら宮城県は歩いた事がありません。
そこで静岡県の七夕の代表の清水の七夕のMHを探してみましたが、こちらは七夕の絵柄はありませんでした。
私がMHを見つけられなかったのか、それとも元々清水には七夕の絵柄のMHは無かったのか・・・・・
それでは仕方ないと矢張り七夕で有名な隣の神奈川県平塚のMHの写真を調べてみました。
平塚は東海道を歩いた時に一度だけ歩いただけですので自信は無かったのですが・・・・

                            「平塚 七夕祭り」
          
                           神奈川県平塚市(2012.3)
  お江戸日本橋を出て相模川に架かる馬込川を渡った付近で写した写真です。
大きな七夕飾りに歓声を挙げている群衆の上には、ビルの谷間に大きく輝いている織姫と彦星が見えます。
その上には相模灘イエ湘南の海を疾走するヨットとカモメが飛んでいます。
中央にある丸に囲まれた “下” のマークは何でしょうね? 多分平塚の市標とは思うのですが・・・・・

                            「平塚 七夕祭り」
          
                           神奈川県平塚市(2012.3)
  七夕のカラー版もありました。カラーだと随分ハッキリと綺麗になりますね。
場所は平塚駅を過ぎた辺りでしたが、蓋に書かれている “赤石町” は町名を表しているようです。
MHが地番表示を兼ねているなんてのは他では見かけた事はないが、これを見た時はそこまでは気づきませんでした。
それに町名表示以外にも “1973” や “1966” 書かれた数字は、設置年月?それとMH枚数? 
何れにしても単価の高いMHになった事でしょう。
 気になっていた多重丸に囲まれた “下” マークは、多重丸は平塚市の市標だったが “下” は分かりませんでした。
若しかすると “下水” の事かもしれませんね。
そうなると蓋の下にある “合流” は下水が合流している場所のMH? 気にはなるがハッキリした事は分かりません。

  序に歩道に貼り付けてあったプレートも紹介します。平塚市の七夕に入れる熱が伝わってきますね。

                        「平塚 七夕祭り」 歩道プレート
          
                           神奈川県平塚市(2012.3)


  七夕の次に夏と云えば 「花火」 です。静岡県で花火と云えば “ふくろい花火” 、“新居の手筒花火” そして “安倍川の花火”
等があるので早速調べました。
ところが袋井市も湖西市も静岡市にも花火の絵柄のマンホールはありませんでした。だらしがないぞ “袋井、湖西” ですよね。

                            「豊橋 手筒花火」
          
                           愛知県豊橋市(2011.5)
  静岡県民の私は “手筒花火” と云えば新居ですので、当然新居が手筒花火の発祥の地と思っていました。
ところが東海道を歩いていてその思い違いに気が付きました。どうやら手筒花火の発祥の地は愛知県の豊橋のようです。
豊橋の中でも市内にある吉田神社が発祥の地で “吉田神社略紀” には
 「花火の創始は永禄3年(1560)当時今川氏の支配下にあった吉田城の城代が花火を始む」 とあるそうです。
しかし1560年は6月には今川義元が桶狭間で討死しているのですよね。それに当時貴重だった火薬を、何故神社の祭りに
使えたのか疑問が残ります。義元の尾張征伐の景気づけだったのでしょうか?
更に面白い事には静岡市の静岡祭でも手筒花火が奉納されていて、その理由に
 「慶長18年(1613)にイギリス国王使節が駿府城の徳川家康を訪ね、鉄砲や望遠鏡などを献上し、城の二の丸で花火を立て、
家康がこれを見物したとあります。これが、花火についての信頼できるもっとも古い記録とされています。」 だそうです。更に
 「これを機に徳川家康が三河の砲術隊に命じて、観賞用の花火を作らせるようになったのが、日本における花火の起源です。」
                            「豊橋 手筒花火」
          
                           愛知県豊橋市(2011.5)
  最初に手筒花火を打ち上げたのは今川(豊橋)か、それとも徳川(静岡)なのか。
今川びいきの私としては今川が駿府で最初に打ち上げたとしたいのだが、どうもそれには無理がありそうです。
ここは素直に静岡祭りで紹介している “駿府で初めて打ち上げて、豊橋で最初に作った” と言う話を信じることにします。
ただMHの花火に関して言えるのは、豊橋(三河)側の圧勝で、新居(遠江)も静岡(駿府)も形なしという事です。


  七夕、花火ときたら、お次は “ふね” ですね。ふねはふねでも勿論こちらの 「舟」 です。

                         「伊東 タライ乗り競争」
          
                           静岡県伊東市(2012.6)
  静岡県の夏の風物詩として毎年TVで放送されるのが伊東市松川のタライ乗り競争です。
タライ乗り競走とは大きなタライに乗り、しゃもじで漕ぎながら川を下る非常にユニークなレースで、外国人や浴衣姿の人、
仮装をした人などが参加していて、その殆どか途中で転覆してしまう面白いレースです。
MHの絵柄が、その競争内容に合った漫画チックなのも面白い。蓋右上にある “水(?)” の字を、10枚の葉っぱで
囲んであるのは伊東市の市標です。葉っぱに見えるのは伊東の “い” だそうで、それが10個で 「い十」 ➜ 「いとう」とか。
何から何まで “ユニーク” で統一してあるようで中々面白いですね。

                            「茅ヶ崎 伝馬船」
          
                           神奈川県茅ヶ崎市(2012.3)
  茅ヶ崎海岸沖の海上にある尖った岩は、誰が見てもその名前は想像できそうです。そう勿論その名は 「えぼし岩」 です。
 藤枝にも “烏帽子” と名の付く “烏帽子山” や “烏帽子形山” があるが、そのどちらも “烏帽子” とは全然想像できません。
それが一目で “烏帽子” が想像できるなんんて、これはこれで大したものです。
もっとも えぼし岩 の正式名称は 「姥島(うばじま)」 だそうです。
  えぼし岩周辺は、恰好な漁場で毎日に渡し舟が釣り人を渡しているそうです。その渡し舟を描いたのがMHの絵柄・・・・・・と
言いたいところですが、えぼし岩は沖合1.4kの所にあり手漕ぎの伝馬船では無理なようでプレジャーボートが使われています。

 ところで “島” と “岩” の違いは何でしょうね。
早速調べたのですが諸説あるようで、まず国連海洋法条約では
 「自然に形成された陸地であって、水に囲まれた高潮時においても水面上にあるもの」 とされているそうです。
そうなると、岩頂が常に水面上に露出しているえぼし岩は当然 “島” に分類されるわけですね。
ところがです。この定義が日本の海上保安庁では、さらに
 「島の外周が100m以上(満潮時)」 という定義を加え、 「これに満たない大きさのものを岩」 と分類しています。
更に更にですよ。国土地理院は 「航空写真に写る陸地」 を島と定義しているそうです。

  何年か前に日本と韓国との間にある、長崎県肥前鳥島周辺海域で領海問題が発生して、当時この海域にあった三つの岩礁の
「北岩・中岩・南岩」 を、慌てて 「北岩➜・北小島・中岩➜中小島・南岩➜南小島」に変更している。
こんな事なら領海問題の発生しそうな場所にある “岩” は、国連海洋法条約に乗っとり、事前に “島” にしておいた方が良さそうです。

                            「沼津 帆船ヘダ号」
          
                           静岡県沼津市(2016.6)
  この写真を写したのは戸田だったが、今回この写真を見た時は、大瀬崎と西浦湾に浮かぶスカンジナビア号だと思った。
しかしあの帆船レストランは既に10年以上前に営業を止めている。それなのにMHはまだ新しい。
で、気が付いたのは一見蜘蛛にも見える高足蟹の姿です。高足蟹とくれば戸田以外ないのですから、正面に見える砂嘴は
御浜岬で、そして駿河湾を挟んで愛鷹山と富士山が見えています。
ここまでは誰もが分かるでしょうが、では木造二本帆の帆船は何でしょう。湾内を走る遊覧船? イエ違います。
ここでまたもや知ったかぶりが始まりますが許してください。

  江戸時代末期の安政の地震の際、折から日露国交樹立交渉のため下田に寄港していた露西亜の帆船 「ディアナ号」 は、
被害を受けた。その修復のため戸田港を目指していたが、航行中の強風と大波にあい田子の浦沖で座礁転覆してしまった。
田子の浦の漁民に助けられたロシアの乗組員は、日露和親条約締結後、帰国ための船の建造を幕府に願いでて、伊豆の
戸田村にて帆船の建造を許された。日露合同で日本史上初ともいえる造船が戸田で行われ、2本のマストを備えた小さな
帆船が 「ヘダ号」 が竣工すると、ディアナ号の乗組員を乗せ無事ロシアに帰国したそうです。

                            「三ケ日 ヨット」
          
                           静岡県浜松市(2017.1)
  ヨットに主眼を置いたため、この絵柄を夏にしてしまったが、これは明らかに私のミスです。
このMHで紹介したかったのは、飽くまでも “三ケ日ミカン” でしょう。
しかしこの絵を細かく見て行くと疑問が湧いてきます。先ず蜜柑が色づいているのにミカンの花が咲いている。
それは許容範囲としても、もっと気になるのは前方に見える橋とヨットの関係です。
三ケ日と云うと浜名湖に面した町とのイメージが強いが、実は三ヶ日町の大部分は前方に見える橋の両側から始まる
猪鼻湖に面しているのです。
この極端に狭まった間には2本の橋が架かっていて、1本はマンホールにあるアーチ橋、もう1本は近代的吊橋です。
そのどちらの橋も水面からさほど高くはありません。ウフフ・・・・私の疑問が分かりましたか?
そうです。帆のあるヨットがあの橋の下を潜って猪鼻湖の中に入ってこれるかどうか。それが私の疑問です。
  次回三ケ日に行ったときに確かめることにしましょう。

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