昨年夏に 「知多四国八十八観音霊場」 を遍路し、次回は江戸時代に制定された 「三河三十三観音霊場」 を歩こうと予定していた。
戦国時代の三河は一向宗(浄土真宗)が勢力を伸ばしていたが、時の領主・徳川家康との間で “守護使不入” の侵害が発生すると
門徒側は一揆にて対抗して家康を散々苦しめた。
一揆平定後、家康は一向宗方に改宗を命じ、寺や道場を破壊し、坊主を追放した。以後、三河では一向宗は禁止されてしまう。
この三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び徳川家康の三大危機とされている。
ね!、中々面白そうでしょう。駿河と違い宗教心が厚く反骨心の強い三河魂に興味を感じ、その地を観歩してみたくなりますよね。
しかし色々調べたが、この古い三河霊場の記事は見つからず、ネットヒットするのは最近制定された三河霊場ばかりだった。
そんな事で春の青春18切符を利用していく予定はあえなく挫折してしまいました。
私の歩きの原点は退職後に歩き始めた霊場巡り、いわゆる遍路です。
退職して最初にやりたかったのが 「四国八十八ヶ所霊場巡り」 です。しかし現役時代にはウォーキングも山歩きもやっていなかった
私は、1200kmともいわれている四国遍路を歩き通す自信がありませんでした。
そこでマイカーで四国遍路をやったのですが、黙々と歩く遍路を見て増々四国遍路に憧れるようになってしまいました。
四国から戻り先ずやったのが大井川の河川敷歩きで、大井川左岸のマラソンコースを最初は6kmも歩けば疲れていたのですが、
徐々に距離を延ばし30km越えを5日連続で歩けるようになりました。そこで 「秩父34観音霊場」 の歩き遍路に挑戦しました。
秩父遍路は150kmの4日間でしたが、思ったより楽に結願できた事で自信を付け、その8日後には四国へ出発したのです。
その後の遍路は
・駿河一国33観音霊場
・遠江33観音霊場
・遠州33観音霊場
・湖北五山霊場
・藤枝七福神 ・焼津七福神 ・遠州七福神
・志太木食仏巡り
・駿河一国百地蔵
・遠江49薬師霊場
・安倍七観音霊場
・知多四国88観音霊場 と歩いています。
しかしいくら歩いても元々宗教心があって始めた遍路ではない私は、一向に宗教心は湧いてきません。
今でも札所の関心もさることながら、その札所に行く過程により興味を感じている始末です。
まじめなお遍路さんには “邪道” だと思われるでしょうが、 “はぐれ遍路” と自称する私らしい遍路だと思っています。
前置きが長くなってしまいましたが遠江33観音霊場に話を戻しましょう。
この霊場が成立したのは文禄(1592)以前とも、慶安(1648)以前とも云われているが、一説には今川氏親の正室 「寿桂尼」 が制定に
協力したとも言われている。この説をとるなら江戸時代の慶安ではなく、まだ寿桂尼が生きていた文禄時代だった事になる。
その時代の今川は義元が桶狭間で討ち取られ、徳川家康の離反や甲斐武田の侵略に脅かされて日々で、今川の前途に不安を感じた
寿慶尼がまだ今川の勢力が残っていた掛川城周辺に、今川の安泰を願って観音霊場を開いたことは十分あり得る事でしょう。
そんなわけで “遠州” としながらもこの札所は、磐田1、森町2、袋井4、掛川20、菊川3、金谷3の中遠の33ヶ所だけに分散している。
これが江戸時代に入ってから制定された霊場なら、遠江最大都市浜松周辺を除くわけはなかったと思われます。
前回遠江33観音を歩いたのは2010年5月だったので6年前になります。その時のデータを見ると総歩行距離はGPSでは
185kmで歩数は2万5千歩程でした。それを6日間で歩いているので、1回の平均歩行距離は31kmになります。
また最小歩行距離は1回目の21.8kmで、最長は最終日の6回目の37.9kmでした。
今回も6回で結願出来るかどうかは自信はありませんが、なるべく6回で終わるように努力はしたいと思っています。
果たしてどうなるか、来週になったら歩き始めようと思っています。
戦国時代の三河は一向宗(浄土真宗)が勢力を伸ばしていたが、時の領主・徳川家康との間で “守護使不入” の侵害が発生すると
門徒側は一揆にて対抗して家康を散々苦しめた。
一揆平定後、家康は一向宗方に改宗を命じ、寺や道場を破壊し、坊主を追放した。以後、三河では一向宗は禁止されてしまう。
この三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び徳川家康の三大危機とされている。
ね!、中々面白そうでしょう。駿河と違い宗教心が厚く反骨心の強い三河魂に興味を感じ、その地を観歩してみたくなりますよね。
しかし色々調べたが、この古い三河霊場の記事は見つからず、ネットヒットするのは最近制定された三河霊場ばかりだった。
そんな事で春の青春18切符を利用していく予定はあえなく挫折してしまいました。
私の歩きの原点は退職後に歩き始めた霊場巡り、いわゆる遍路です。
退職して最初にやりたかったのが 「四国八十八ヶ所霊場巡り」 です。しかし現役時代にはウォーキングも山歩きもやっていなかった
私は、1200kmともいわれている四国遍路を歩き通す自信がありませんでした。
そこでマイカーで四国遍路をやったのですが、黙々と歩く遍路を見て増々四国遍路に憧れるようになってしまいました。
四国から戻り先ずやったのが大井川の河川敷歩きで、大井川左岸のマラソンコースを最初は6kmも歩けば疲れていたのですが、
徐々に距離を延ばし30km越えを5日連続で歩けるようになりました。そこで 「秩父34観音霊場」 の歩き遍路に挑戦しました。
秩父遍路は150kmの4日間でしたが、思ったより楽に結願できた事で自信を付け、その8日後には四国へ出発したのです。
その後の遍路は
・駿河一国33観音霊場
・遠江33観音霊場
・遠州33観音霊場
・湖北五山霊場
・藤枝七福神 ・焼津七福神 ・遠州七福神
・志太木食仏巡り
・駿河一国百地蔵
・遠江49薬師霊場
・安倍七観音霊場
・知多四国88観音霊場 と歩いています。
しかしいくら歩いても元々宗教心があって始めた遍路ではない私は、一向に宗教心は湧いてきません。
今でも札所の関心もさることながら、その札所に行く過程により興味を感じている始末です。
まじめなお遍路さんには “邪道” だと思われるでしょうが、 “はぐれ遍路” と自称する私らしい遍路だと思っています。
前置きが長くなってしまいましたが遠江33観音霊場に話を戻しましょう。
この霊場が成立したのは文禄(1592)以前とも、慶安(1648)以前とも云われているが、一説には今川氏親の正室 「寿桂尼」 が制定に
協力したとも言われている。この説をとるなら江戸時代の慶安ではなく、まだ寿桂尼が生きていた文禄時代だった事になる。
その時代の今川は義元が桶狭間で討ち取られ、徳川家康の離反や甲斐武田の侵略に脅かされて日々で、今川の前途に不安を感じた
寿慶尼がまだ今川の勢力が残っていた掛川城周辺に、今川の安泰を願って観音霊場を開いたことは十分あり得る事でしょう。
そんなわけで “遠州” としながらもこの札所は、磐田1、森町2、袋井4、掛川20、菊川3、金谷3の中遠の33ヶ所だけに分散している。
これが江戸時代に入ってから制定された霊場なら、遠江最大都市浜松周辺を除くわけはなかったと思われます。
前回遠江33観音を歩いたのは2010年5月だったので6年前になります。その時のデータを見ると総歩行距離はGPSでは
185kmで歩数は2万5千歩程でした。それを6日間で歩いているので、1回の平均歩行距離は31kmになります。
また最小歩行距離は1回目の21.8kmで、最長は最終日の6回目の37.9kmでした。
今回も6回で結願出来るかどうかは自信はありませんが、なるべく6回で終わるように努力はしたいと思っています。
果たしてどうなるか、来週になったら歩き始めようと思っています。